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■三笠宮寛仁親王さま(享年66)案じ続けた東宮家 ②
皇太子さまへ「激情の手紙」
*皇太子様の返答に寛仁さまの思いは・・・
・信子様が2年間の療養生活の末、’06年8月、寛仁親王邸に戻られたが、同じ家で
暮らしながらも、おふたりが顔を合わせる事は殆どなかったという。
’07年の歌会始で信子様はこんな歌を詠まれている。
「澄みわたる月の光をあふぎみて今の世思ひ次の世を思ふ」
・寛仁さまも’07年10月、「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューでこう語られた。
「家庭内では揉め事が多かった。26年間も連れ添っていればね」
・信子様は’07年12月からは気管支ぜんそくのため入退院を繰り返され、さらに’09年10月の
退院後はご自宅には戻らず、皇居にほど近い旧宮内庁長官公邸でおひとりでの生活を
送られ、いまに至っている。
・「雅子様と信子さまは民間とはいえ、名門と呼ばれる家から嫁がれたお嬢様で、ともに
国際的なキャリアウーマン。病気は異なれど、ふたりとも軽井沢で療養生活を送られた
こともあり、現在も病と闘われているなど、共通点が多い。 妻の信子様が苦しまれる姿を
思うにつけ、”どうか雅子さまには1日も早く病気を克服され、皇太子妃としてのお役目を
果たして欲しい”と願われていたのだと思います」 (宮内庁関係者)
・ニューヨーク・タイムズでのインタビューで、皇室の抱える問題について言及した。
「例えば私自身、皇太子殿下の”人格否定発言”問題に巻き込まれました」
’04年5月、皇太子様は「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定する
ような動きがあったことも事実です」という発言があり、このとき寛仁さまは皇太子様宛てに
”自分だったらこうするという解決策”などを1万3000文字ほどの手紙にして送られたという。
「皇太子様に詳しい説明を求める手紙を出しました。もしきちんとした返事を頂けていれば、
いくらか前進することができたでしょう」