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会津戦争、尚之助は大砲隊の指揮者として戦う
「尚之助は大砲方頭取として十三人扶持の俸禄を受けており、
明治元年(1868)会津戦争に参戦。」
とあるので、上のレスで、八重が砲弾の解説を容保にするあたり、
やはり八重と尚之助は夫婦としてそれなりの関係はあったんだろうね
8月27日尚之助らは四斤山砲を豊岡神社に設置して
小山田を砲撃し猛烈な反撃。この時八重も尚之助を手伝った。
9月13日夜、尚之助は城東外郭の敵を二時間にわたり砲撃。
9月14日に鶴ヶ城総攻撃が行われ、
9月17日、城外の一ノ堰の戦いで会津玄武隊(50歳以上の隊)として
八重の父の権八が戦死。
厳しい籠城戦が続き
9月22日午前10時、大手前に白旗が掲げられ開城。
明治3年(1870)閏7月、山本一家が出稼ぎ
米沢城下の米沢藩士内藤新一郎(尚之助から砲術の師事を受けていた。
四石扶持)宅に寄宿(現山形県米沢市城西)
明治3年10月、
東京で謹慎していた尚之助は斗南藩領の野辺地(のへじ)に移住
開産頭取(かいさんかしらどり)に就任。
妻の山本うらは、子の峰を八重に託し、斗南へ移住
明治4年9月3日、
覚馬の招きで八重は母の佐久と姪の峰と共に米沢から京都へ
明治8年(1875)3月20日慢性肺炎症により死去。享年39。
根津親徳が近隣に埋葬。
訴訟相手のデュースの追及は死後も続くが、
尚之助に家族無しと皆は答えた
URLリンク(kazusa.jpn.org)
尚之助の戒名と墓石があったことが、出身地のお寺で発見されたことから
死後は川崎家に戻った ってことだね