13/03/13 01:50:08.23 YJ9dSUc6
>>189 そのとおり。町敵と言う言葉は京都なら古い人なら今でも言う。新撰組に対する侮蔑の意味しかない。
ちなみに浄土真宗大谷派(西本願寺)の信徒は、今でも新撰組や会津藩を許していない。
今後も許さないだろう。
怪しいと思えば、問答無用で町衆を白昼殺害するなど、理不尽な振る舞いや社寺に対する傲慢無礼な振る舞いが絶えなかった。
西本願寺屯所
新撰組は130人を越える大所帯となり壬生の屯所が手狭になり、次の屯所を
壬生からも近く、浄土真宗の大本山である西本願寺に目をつけました。
新撰組は「勤王攘夷の先鋒隊、国家のためにには命は塵芥とみなし、京の取り
締まりにあたっている。壬生の屯所は狭く、朝廷、幕府のため、いずれの講堂
でもよいからしばらく貸してほしい」と頼み込んだ。談判と言うより脅迫だった。
西本願寺はついに屈服して、阿弥陀堂北の集会所を提供させられた。
移転後、境内で大砲の空砲や小銃の実弾射撃を繰り返し、参拝者を怖がらせた
西本願寺は困りはて、京都守護職に非常事態を告げ、対策を要望。
会津藩は屯所の移転を指示した。
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不動堂村の屯所
西本願寺は新撰組の圧迫に耐えかねて、本願寺の南の不動堂村に土地を買い
新撰組の要望を聞き御殿のような大邸宅を建てて移転させた。
不動堂村へ屯所を移して半年後、鳥羽・伏見の戦いが始まり、新しい屯所は
半年で出ることになった。