13/02/28 08:15:14.46 ouv7bgzd
仲介者がいないのでますます薩摩と会津は疎遠になり、互いに何を考えているのかわからなくなる
会桑は天皇に取り入り、やりたい放題を企む
しかし孝明天皇が死んでいっきに不満が爆発で薩長が盛り返す
松平容保は孝明天皇の権限を利用していたので、いろいろな人々に既に恨みをかっていた
しかしその孝明天皇が死去するといっきに後ろ盾を失う
既に好き勝手していた松平容保に薩長は鳥羽伏見の戦いでけりをつける
この頃になると松平容保の想像以上に周辺は薩長側に傾いていた
おまけに江戸の幕臣にまで嫌われていてしまっていた
結局は長州いじめをいつまでたっても止めず、その他の藩まで罵倒し貶し
孝明天皇に媚を売り京で采配を振るっていた松平容保は既に江戸の幕閣にまで嫌われていた
だから江戸城登城禁止
東北に帰っても、周りの諸藩もすぐに政府側につく
これが会津戦争の要因でありおおまかな実情で敗因でもあるだろ
駄文だが、薩長があまりにも悪く言われてばかりなので反論で書いてみた
薩長にも薩長なりのさまざまな理由があったし、欲望だけで動いていたわけでは断じてない