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元々会津藩は京都に藩邸を持っていなかったため、
文久3年には京都所司代下屋敷の北側に会津藩御用屋敷(7000坪)を作っている。
蛤御門の変が起こると、もっと御所の近い位置に御用屋敷を建てるように求められ、
慶応元年には後に京都府庁となる場所に京都守護職御用屋敷(3万坪)と、
その南側に藩士が住まう御用御添屋敷(3万坪)を建て、
最初の会津藩御用屋敷を売り、
さらに鴨川の東の東聖護院村に練兵場(3万7千坪)を作った。
まあ出費が嵩む原因が色々あったことが分かる。
なお容保はこれらの屋敷に常駐していたわけではなく、
施薬院、淨花院、凝華洞など、幾つかの寺を宿舎として渡り歩いていた。