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■農民の反乱(戊辰戦争速記録)
1868年11月16日(明治元年10月3日)、会津藩の重税に苦しめられていた農民が、会津領内の各地で一揆を起こした。
農民は「ヤーヤー」と言いながら、打ち壊しを行ったため、この一揆を「ヤーヤー一揆」「ヤァヤァ一揆」と呼ぶ。別名で「会津世直し一揆」と言うこともある。
会津でヤーヤー一揆が起きたのは、1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)に会津藩が降伏してから、わずか10日後の事であった。
会津藩主の松平容保が京都守護職に就任して以降、会津藩は財政負担を強いられていた。会津藩はその負担を農民らに押しつけ、重い税金を課していたため、会津藩は農民から恨まれていた。
会津の民は会津藩の暴政に対する不満が溜まりに溜まっており、会津藩が降伏して、新政府軍の占領統治が始まったことを切っ掛けに、数万人に上る農民が立ち上がったのだ。
新政府軍の医師として会津で治療にあたったイギリス人医師のウィリアム・ウィリスによると、会津藩が収獲した米のみんな年貢として徴収するため、
会津藩の農民は他藩の農民よりも粗末で身なりが悪く、背も小さく、貧相だった。会津の民は他のどの藩の民よりも、貧しくて、みすぼらしかったという。
一揆を起こした農民は、年貢の徴収を担っていた村役人(地主)などの自宅を襲撃し、検地帳・年貢帳などの破棄や、農産物の自由販売などを訴えた。
会津のヤーヤー一揆は2ヶ月間も続いた末、農民の主張の多くが認められることとなり、収束していった。