12/07/06 09:34:49.70 Z0iuyQ7G
>>823
足利氏
八条院に仕える武士となっていた
義清→上西門院&八条院に仕える。義仲兄が八条院側近頼政の養子だった縁からか後に義仲と組む
義兼→八条院蔵人。頼朝との縁故(母方が同じ家)からか後に頼朝につく。
武田氏
武田有義→九条院、平重盛に仕える 治承寿永の際は反平氏の旗揚げに加わるが、
その際兵衛少尉の官位は没収され都にいた妻子は殺害された。
秋山光朝→平知盛に仕える、時期不明だが重盛の娘を妻とする。
小笠原長清→ 平知盛に仕える。治承寿永の頃知盛から離脱して頼朝軍に加わり、上総介広常の娘と結婚する。
志田義広
八条院領、池禅尼が領家を務める 常陸国志田荘の荘官となる。
佐竹氏
平氏と近い
これは平治の乱の後、保身のために近づいたというより
元々彼らは義朝とは関係ない独立していた家なので
平氏から圧迫される心配などなんにもなく
(義朝事態も平治の乱の首謀者扱いされず巻き添え扱い)
単に自分にとって都合がいい女院や平氏に近づいて、自分の権益を確保しようと動いたに過ぎないと思う