【2012年大河ドラマ】平清盛 Part120at NHKDRAMA
【2012年大河ドラマ】平清盛 Part120 - 暇つぶし2ch626:日曜8時の名無しさん
12/06/24 09:48:00.28 JOnDdgSS
>>534
なぜ第24回の原田種直について議論しているのかと
いえば、「平清盛」の歴史理解と考証に直結している
からです。

そもそも原田一族と平氏のつながりは保元の乱以前からあります。
保元の乱・平治の乱では原田種雄と嫡子種直が六波羅に入り
平氏勢として戦っています。もともと原田一族は平家勢力の
一部なのです。したがって、24回の例のシーンは
場所どころかそもそも設定や存在が全く歴史の流れから
はずれています。象徴が「大宰府の官邸」として議論している
だけです。両者接触の起点は日宋貿易でのつながりがあります。

まず、当時の日宋貿易の拠点は三つあります。

1 太宰府 官営貿易を引き継いで原田一族が管理
2 神崎荘 院との関係で平忠盛以降平家
3 博多  筥崎宮などの寺社の権限で宋人が行う

史実的にはこれらの3つの勢力が主導権を取ろうと
して争っていたわけです。その意味では誰も「私益」で
「公益」の視点で動いている人はいません。
強いて言えば、原田種直でしょうか?

例えば、忠盛は、長承2年(1133年)院宣と称して、
大宰府の臨検を排除しています。(『長秋記』8月13日条)
この時期は、忠盛は平安京への物資輸送で太宰府を避ける
坂本峠のルートで運んでいます。
また、大宰府も博多に対しては1151年には
500余騎を出し「筥崎・博多大追補」を筥崎宮や宋人の輸入品を
押収しています。

これらの拠点を3つとも押さえるというのが平家の戦略です。
したがって、平家と原田一族は、原田一族が黙認する代わりに
利益を得るように利害を調整したのでしょう。
そして両者で博多を管理下におくことを目指すことに合意した。
このような寺社を武力で圧迫するというパターンは
平安京で強訴に対抗したのと同じパターンです。

このような会談は二者の共通の対抗勢力の本拠地の博多で
行われた可能性はまずないでしょう。
そして、これらの三拠点を清盛が完全に抑えたのは1158年に
平清盛が大宰大弐に任じられた時でしょう。この前後に
清盛が袖の港の築港や櫛田神社の勧請をしているからです。

こうしたドラマの中ですら描いた神崎荘での話や
三者の対立状況を描かないことがドラマをつまらなく
していると感じる次第です。これは脚本家と考証の責任です。

また、マメですが博多の山笠で有名なく櫛田神社ですが
勘定したのは平清盛なのです。実は、平氏の本貫の伊勢松阪
から忠盛が神崎荘に勧請し、その後、清盛が博多に勧請しています。
(櫛田神社宮司による博多山笠記録による)
これは、他の2拠点と同様に宗教的権威を必要とした
平氏の対抗措置だったと思われます。



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