12/06/23 06:51:52.79 Matj8Aa8
>>326
さて、産経新聞の本郷センセの「「王家」と言ってもいいだろう」
と同じ論理パターンで「大宰府が博多にあってもいいだろう」
という擁護が出来てきました。
まあ、まずNHKの「平清盛」の第24回にあらすじでも見ましょう。
「鎮西にわたった清盛は、大宰府で接待を受け」
となっています。「官邸」という言葉すらないですね。
当時も今も、「大宰府」が「博多」に移動したと思う人
あなた以外にはいないと思いますが。
たしかに、大宰府政庁が12世紀のどこかで建物も無くなった
のは間違いないでしょう。しかし鴻臚館はその前に1047年には
放火で消失して再建されて無くなっています。
つまり、支店がまず博多からなくなりその後に本店も
なくなったのです。にもかかわらず、官邸なるものが
博多にあったという説には論拠がなにかあるのでしょうか?
お示しください。
その後に残ったものは、権限としての大宰大弐、大宰少弐、
大宰権少弐と地名としての大宰府ですね。
権限の問題でいえば、現地任用のノンキャリの大宰権少弐が
いる所が大宰府というのはおかしいですね。
そのような権限面で言えば大宰大弐がいるところが大宰府という
ことで平安京が大宰府になってしまいますが・・・。
地名の面でみれば、現在の太宰府市まで続いているので
博多でないことは自明ですね。
鎌倉時代に入れば、武藤資頼が大宰少弐に任じられ
同時に大宰府守護所が置かれ、二元的な体制が作られます。
ちなみに武藤資頼の子の資能の代から少弐姓を名乗るようになります。
その拠点は大宰府市内山にあったとされており、資頼、資能の
二人の墓も太宰府市にあります。このように元寇前後までは少なくとも
大宰府も大宰府守護所も現在の太宰府市にあったと言えるでしょう。
ちなみに平家は一時期大宰府に落ち、大宰府天満宮で
道真の化身にあったという話が平家物語にはあります。