12/03/17 15:40:00.44 2IN+ey/X
これを見たら↓頼朝が法皇に位を与えてもらって満足してた清盛をマンセーするわけがない。
後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。
東国の支配者の象徴として頼朝が熱心に希望していた征夷大将軍に任官できず
代わりに大納言への任官を求められるが、頼朝は辞退し、
後鳥羽天皇への拝謁を終えると六波羅に戻る。しかし六波羅に、
「今に於いては異儀有るべからず」と記した権大納言任官の院宣が届き、
再び辞退の書を返すが、容れられずに除目は行われた。さらに22日には武官の
最高職である近衛大将への任官も打診され、頼朝はやはり辞退するが、24日に
右近衛大将へと任ぜられた。12月3日、両官を辞し、11日に勲功の有った御家人を任官させる。
頼朝が執拗に官職就任を辞退し、任命された権大納言・右近衛大将も直ちに辞任した背景としては、
両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり
公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻る事が困難になると
判断したとみられている。
権大納言就任が決まった9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して胸襟を開いて語りあい、
次のように述べている。「今の世は法皇が思うままに政治をとり、天皇とても皇太子と変わりない
ありさま。さいわいあなたもまだ若くて先は長い。私にも運があれば、法皇御万歳(崩御)の後には
いつか必ず天下の政を正しくする日が来るでしょう」。そして、逆臣として討たれた父の汚名を
雪ぐ意味で一旦は「朝大将軍」(国の大将軍)を受けた方が良いと判断した。
建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は征夷大将軍へと任ぜられた。