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当時の京都の認識は、奥州藤原氏は偽物。藤原の子孫ではないという認識。
秀郷流のほうは藤原の子孫であることは認識されていた。
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>藤原基衡が毛越寺に伽藍を建立した際、金堂円隆寺(のちに兵火で焼失)に
>掲げる額の揮毫を忠通に依頼した。しかし、奥州藤原氏は京都からすれば
>俘囚の係累であり、身分を明かして依頼しても応じられるはずがないため、
>実際の依頼は仁和寺を通して行われた。
>のちに真の依頼者を知った忠通は額を取り返そうとしたが失敗に終わる。