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◆へいあんきょうのとみず(平安京と水)
平安京の都市計画でもっとも重要とされたのが排水であった。
これは、先行する平城京や長岡京で、洪水と同時に起きた下水の氾濫が
疫病蔓延を招いたからであった。このため、都市の立地として東に鴨川、
西に桂川があることと逆に都に中を河川が流れていないことが考慮された。
さらに水利のため左京と右京にそれぞれを中央を縦貫する堀川が開削され、
各道路の両脇に用排水路が作られた。平安京は、北から南への傾斜地であり
水の勢いも確保できた。汚染度の低い水を活用するため北端に内裏が置かれ、
一方南西部は湿地で放置された。同地は上水でも優位性があり、砂礫堆積層
の盆地で琵琶湖と同水量の地下水盆を形成し、今日でも7000本以上の井戸が
利用されている(下水道局調べ。)当時の地下水位は現在より高く2m掘れば
新鮮な水を容易に確保できる立地であった。このため、平安京内でも
農業を行うものが出て度々禁止された。「平清盛」では史実や現実を反
映せず、「汚し」等で独自の乾いた「リアリティ」を敢えて追求している。
関西の低視聴率は、空気感が現実とまったく違うため起きているという説も
ある。「すべてが現実離れして偽ものに見える」、「一度で京都に来て鴨川
べりを散歩するべきだ」などと言われている。
◆ふじもとゆき(藤本有紀)
「平清盛」の脚本家。顔など個人情報が非公開のためその存在に疑問が
投げかけられている。東映映像本部テレビプロデューサー集団の
「八手三郎」や東映アニメーションの原作「東堂いづみ」のような複数
の人物のペンネームという説もある。
◆じゅうにひとえ(十二単)
平安時代に確立した公家女子の正装。
袿の上下に重ねることを「重ね(かさね)」といい、一方袷の表地と
裏地の色の取り合わせによって透けて見える具合を「襲(かさね)」と
言う。11世紀の藤原氏全盛期には素材は綾織で色彩のグラデーション
(重ね・襲)を季節にあわせて楽しんでいた。12世紀の院政期には袿に
刺繍をほどこしたり、金箔・銀箔を張り付けることが流行り、さらに
ヒスイや水晶などを縫いつけた。平氏全盛期には素材が錦になるなど
など華美なものとなった。「平清盛」では史実をあえて反映せず、独自の
「リアリティ」を追及している。また、登場人物ごとにイメージカラーを
設定しており、これは「海賊もの」として先行した「海賊戦隊ゴーカイ
ジャー」からの「本歌取り」だと言われている。
◆こわしょうぞく(強装束)
12世紀前半に鳥羽天皇と後三條天皇の孫、源有仁公が
考案したとされる生地を厚くしたり、糊や漆で固めることで威儀を正し、
武張った印象を与える装束。後白河法皇編纂の「梁塵秘抄」には、
「この頃京に流行るもの、肩当、腰当、烏帽子止、襟のたつ型、錆烏帽子、
布打の下の袴、四幅の指貫」とあり肩パットや襟立てファッションや
や飛び出す烏帽子止や文様のついた烏帽子などが流行したことが分かる。
強装束の好例は、「伝 源頼朝像」とされる神護寺の画像の人物だが、
その装束は非常に角張り、肩当・腰当を入れているとされる。
強装束は武家の台頭という時代を背景にして威儀を堅硬さに求めたもの
であるが、「平清盛」ではむしろストーンウォッシュで着古した全く糊など
想像もできない装束を強調し、その独自の「リアリティ」を追及している。
対義語:柔装束