12/08/21 12:56:51.13 cFAPwBH1
>>883
>「武士の世」というのは後世の歴史書(『愚管抄』)が造った「武者の世」(←ほら武士じゃない)言葉が由来。
本作の清盛は「武士の世を作った先駆者」という後世の解釈から、
あえて同時代には存在しなかった言葉を本人に話させている。
武者って武士のことではないのかね?
それは武士の概念が存在するという意味ではないのかな?
前レスの英訳云々はそういう話を書いたんだが?
ちなみにこれNHKに入れ知恵した当事者の東大教授の書いた文。
「この時期には、天皇の血族をファミリーとして捉えるという概念がいまだ出現していない。
播磨の海、周防の灘、と命名しても「瀬戸内海」とまとめる言葉がなかったのと同じです。」
>保元新制の「王」は平家や源氏だと?
つまり「王命」とは平家の命令であり、「日本全国は平家一門のみが統治する」と解釈するわけか。
それこそが君の矛盾の証明ですらある。
王家を王氏と考えるなら平家も源氏も含まれる。
先の王命の王なら当時一番偉い人という意味で天皇だが上皇は含まれない。
天皇という意味に無理矢理持って行ったとしても上皇は含まれない。
皇族という一族の意味で取るなら皇族にとっては王はある身分の一つにすぎないし
皇を王と同じ意味と言うならそれなら後白河王とか安徳王とか呼称するのか?って話になる。
いや、実際皇族っていうものも当時はなかったんだけどね。
「承安2年(1172年)9月になると、宋から後白河院と清盛に供物が届けられた。
その送文には「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記されていた。
「日本国王」は後白河院を、「太政大臣」は清盛を指していたが、「国王」は
中国皇帝が周辺諸国に授ける臣下の称号で「賜ふ」というのも日本を見下した
文言であり、「頗る奇怪」であると非難の声が上がった。また供物を送ったのが
皇帝・孝宗ではなく明州の刺史だったこともあり、貴族は相互に差別の無い外交
に反するとして、品物は受け取らず返牒も出すべきではないと反発した
(『玉葉』9月17日、22日条)。」
王命とかの王は偉い人という意味の言葉の枕詞にすぎませんが、身分でいう王は
当時から既に皇と別のものと認識されていたことがわかるでしょう。