12/01/25 01:38:01.11 GX59mGiz
なぜ天皇家、皇室という言葉を用いなかったか。ひとことで言えば、「平清盛」の時代には
使われていなかったから、です。
この時期には、天皇の血族をファミリーとして捉えるという概念がいまだ出現していない。
播磨の海、周防の灘、と命名しても「瀬戸内海」とまとめる言葉がなかったのと同じです。
近衛天皇の寺院、鳥羽上皇の御所、美福門院の荘園など、個別の名が用いられ、天皇家も
皇室も、また「王家」も、言葉としては定着していません。
それから150年、鎌倉時代末から南北朝時代、天皇家と皇室は依然として用いられていませんが、
「王家」が各階層で使われるようになります。たとえば、
◎皇族…花園上皇「(後醍醐天皇は)乱髪、小袖一、帷一を著せしめ給うと云々、王家の恥、何事これにしかんや」(『花園天皇日記』元弘元年別記10月1日)
◎貴族…北畠親房「王家の権さらになきがごとくになりぬ」(『神皇正統記』二条天皇)
◎武士…結城直光「昔より誰の家か、王家の相門を出ざるや」(『源威集』前九年の役のこと)。
どうして「王家」が登場したかというと、「平清盛」の時代、天皇イコール「王」だったことが素地に
なったのです。この頃、天皇という呼称はあまり使われず、みかど・主上、それに「王」が用いられた。
藤原信西の主導のもと制定された保元元年の新制(新しい憲法)は冒頭で「九州の地(日本全国)は
一人(天皇)のもつところなり。王命(天皇の命令)のほか、なんぞ私威を施さん」と力強く宣言します