12/06/14 23:50:17.31 acnM7XNb
ま~たIDの更新待ちかよw じゃ
午前零時までの人格、という了解の上で何がしかの対話らしきものが成立するとしても、その擬似主体は常に
現実的人格の表層的な一部に過ぎない事に留意するべきだろう。そしてその留意の維持には
かなり強度の高い想像力が必要とされる。この場合の想像力は以下の理由で発動する。
結局のところ、ネット上における「発言者」とは「演技者」と同義だ。
そこで問われる優劣があるとすれば、それは発言の技術と精度、つまりは演技力、と言う事になる。
そこに一定の誠実~不誠実に至るまでの、膨大で微妙な揺らぎによる多様な個性があるのは当然だが、
観察上はそれぞれの発言者が自ら選んだ、あるいは要請された「役」を場の流れという系の定まらない
バイアスに沿って演じ続ける事になる。これは終点の判らない、そして恐らくは終点のない列車に
乗っているようなものだ。車内には偶然以外の理由で乗り合わせた乗客は居らず、各々に乗った理由は
あっても目的はない、という意味も含めて。現実において列車とは移動のための手段(ある層にとっては違うらしいが)
だが、ネット上ではこの「乗車」は大概の場合、それ自体が目的になる。
そして本来の「手段」はいとも容易く「目的」に逆転する。大抵の場合は感情によって。
さらにはそれが自覚される事も稀であるどころか、しばしば意図的でさえある。
実際、その場の流れの中にいる時、その無自覚を客観視するのは難しいが、
大多数の「放埓な善人」はそうであるが故に非難されるべきではない。だから想像する事だ。
「キモヲタ」も「ヲタ叩き」も妊婦や老人がいれば同じように席を譲る現実を。