12/05/08 22:16:41.58 cCruj74I
「無」というのは
野球選手がボールを打つ瞬間、でいうと
監督への愚痴、?恋人への思い、さまざまな心配事など
一切あるはずはなく、そこにあるのはただ、「来た球を打つ」という、自分自身とボールとの関連にあるものだけのはずで
この世界にあっての、対象と自分とが一体となる場にある、自我の存在し得ない領域にある純粋な意識こそが「無」であると考えます。
それは、誰もが生れ持ってきたものなのであり、どこか遠いところにある、イメージした果てに見つかる、後で知るものなのではないと考えます。
つまり、到達すべき「どこかにあるもの」なのではなく、ただ、「曇らされてあるもの」なの。
それなら、この世に生まれ、生きてきた数々の場面で、たとえ一瞬であっても、それを知ったことがあるはずのものなのだと考えます。
無とは空想し、頭の中にイメージするものではなく、つまり、(空間をイメージしている内は無ではないでしょう)、そのとおりと思います。
それとまったく同様に、「無」もまた、イメージしているうちは「無」であるはずはないと考えます。
むしろ、それこそが、「無」を曇らせるために機能すると考えます。
頭の中に「イメージとして作り出す」ものが「無」なのであれば、それは「頭」という部屋の中に置かれた、「無」と書かれた調度品に過ぎないと思います。
なぜなら、最初から持って生まれてきたものでは「なくなってしまう」からであり、あくまでも、「人が生れ持ってきた、その瞬間を知っているはずの、曇らされているだけのもの」を軸に考えるべきことが
「無」であると言えますか?