信長の野望で過大過小されてる武将106人目at GAMEHIS
信長の野望で過大過小されてる武将106人目 - 暇つぶし2ch49:名無し曰く、
13/02/22 16:34:57.97 Z/tGDgzA
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50:名無し曰く、
13/02/22 21:57:53.35 SLYd9wBa
両川は幸村や勘助と同じ講談での査定

51:名無し曰く、
13/02/23 00:37:28.02 HIihj7hk
512kbで次スレ知らないうちにコピペ荒らしとか相変わらず酷いですね

52:名無し曰く、
13/02/23 02:53:22.48 9iEk4HBR
典型的なオオカミ少年だからね
嘘と長文で多くのネットユーザーを惑わしたのは過去の話
やがて真実を言ってもコピペ君が発言したと言うだけで誰も信用しなくなる始末
つくづく信玄の信者であってくれてありがとうと逆に言いたくなる

53:名無し曰く、
13/02/23 04:14:32.97 jtOgSVeD
そもそもコピペは最初から毎回繰り返される織田厨の妄言垂れ流しに対する反論なんだから
すごくブーメランとしか

54:名無し曰く、
13/02/23 04:17:35.19 ikMkkzez
織田厨は何回論破されても同じ妄想垂れ流すだけの馬鹿だからね
魚でも学習能力くらいあるのに織田厨はなし
魚以下だろ

55:名無し曰く、
13/02/23 06:12:42.84 NxKWYA7e
甲陽軍鑑ってものがこの世に存在しなければこんなに荒れることは・・・

56:名無し曰く、
13/02/23 12:42:35.13 9iEk4HBR
甲陽軍鑑がなくても荒らしたと思うよ、こいつは

>>53->>54
まあそう思ってるのは本人だけだけどねw
可哀想に、言えば言うほど信用をなくして1人相撲・・・まるで武田勝頼みたい

57:名無し曰く、
13/02/23 13:54:36.42 pFA7S/NW
勝頼はこんな間抜けじゃねーよ
狂信者長治がマシに見える無辺者

58:名無し曰く、
13/02/23 14:31:34.11 jtOgSVeD
そもそも織田厨はwikiしか読まない上に妄想垂れ流すしかできない馬鹿
特に戦国版以上にこのスレはほとんど織田厨の妄想(前々スレからでいえば石田三成は無能、天下取ったから経過は関係なく戦がうまい(←政略や調略は何のためにあるんだよアホ)、
家康が信長より強かったら信長を裏切って倒した(←なんでわざわざ同盟結んだ相手を裏切る必要あるんだよアホ)、などという論拠にもならない糞理論の垂れ流しばかり)

59:名無し曰く、
13/02/23 14:33:59.13 ikMkkzez
織田厨は糞長公記と自分の妄想がソースだからね
普通の脳味噌の人間なら考えもつかない論法(もし~なら~である、という背理法らしいが家康と信長の例のようにその内容が全く論拠にならない妄想ばかり)

60:名無し曰く、
13/02/23 14:34:45.81 9iEk4HBR
真におそれるべきは有能な敵より無能な味方とはよく言ったもんだね
いや別にコピペ君は味方じゃないけど
相手にされないコピペ君と同じような考えを持ってる人は心中穏やかじゃないだろうなぁ・・・

61:名無し曰く、
13/02/23 14:36:34.81 9iEk4HBR
>>57
誰彼構わず喧嘩売りまくって、最後は滅亡するんだからそっくりじゃん

62:名無し曰く、
13/02/23 14:39:20.66 ikMkkzez
誰彼かまわず喧嘩売りまくって光秀の恨み買ってぶち殺された信長

63:名無し曰く、
13/02/23 14:40:33.62 jtOgSVeD
妄想力と学習能力のなさでいえば織田厨に勝る武将はいない

64:名無し曰く、
13/02/23 14:44:21.94 9iEk4HBR
信長の恨みは信長だけで終わって織田家はそのまま存続
かたや勝頼が死んでも誰も再興すらせず家康に名前だけパクられた武田
最後は家臣に寄生して権力者に媚びて血の入れ替え、悲惨だなぁ

65:名無し曰く、
13/02/23 14:45:30.35 9iEk4HBR
あとコピペ君、別に2つIDを使う必要はないよw

66:名無し曰く、
13/02/23 15:01:20.17 ikMkkzez
信雄もいちゃもんつけられて改易されたし
秀信も家康に改易されたじゃん

67:名無し曰く、
13/02/23 15:16:41.47 9iEk4HBR
なんで織田有楽斎と織田信包を消すの?都合が悪いから?w

68:名無し曰く、
13/02/23 15:53:04.39 HIihj7hk
織田家は潰れてないし、傍系とはいえ将軍家に血が入ってるからねえ
どこかの武田家はそれすら入ってないけど

69:名無し曰く、
13/02/23 16:01:04.35 9iEk4HBR
一応直系でも将軍家に輿入れならしてるよ、ただ徳川忠長がすぐに死んだので有耶無耶になったけど

70:名無し曰く、
13/02/23 19:35:47.78 pFA7S/NW
>>61
勝頼は失敗しただけで周囲と誼を結ぶ姿勢はあった
こんなのと一緒にするなよ

71:名無し曰く、
13/02/23 20:00:21.80 9iEk4HBR
そうだな

72:名無し曰く、
13/02/23 20:51:37.75 pFA7S/NW
勝頼は大名としての思考格付けが低くても
将としては統率80位つけられるほど優秀
70超えて誰も能力値に触れないし、もう

73:名無し曰く、
13/02/23 22:22:04.96 g6WXhmyF
因果って本当に在るんだな
信玄みたいに極悪非道な事やってると
子孫に必ず報いが来る

74:名無し曰く、
13/02/23 23:05:04.83 ikMkkzez
虐殺や騙まし討ちなど極悪非道な手段でのし上がりそのために人望なくして部下に裏切られまくり殺された信長さんですね

75:名無し曰く、
13/02/23 23:29:18.39 9iEk4HBR
子孫に報いは来なかったね・・・

76:名無し曰く、
13/02/23 23:41:54.84 4bIxppYk
信玄の末裔らしいぜ
URLリンク(i.imgur.com)

77:名無し曰く、
13/02/24 01:11:33.18 4qdq6T8R
どうやらまだ光秀怨恨説論者はいたようだ

78:名無し曰く、
13/02/24 05:55:24.17 GpGTVKYZ
前田慶次の武力補正をやめようかそろそろコーエー

79:名無し曰く、
13/02/24 07:22:40.76 WDsBqsHY
河越野戦が事実関係や年代が間違いまくってる北条五代記にしか存在せず、 
上杉や佐竹や里見や武田の史料に一切載ってないので、そんな乾坤一擲の大合戦なんて無かったってのは戦国板の常識だろ…

80:名無し曰く、
13/02/24 12:09:54.91 WGKFi114
世間の常識≠戦国板の常識≠暦ゲ板の常識≠過大過小スレの常識

81:名無し曰く、
13/02/24 12:54:18.37 yctKEO0l
武田の場合大久保長安以外の旧臣みんな無視していたってのが哀れというかなんというか

82:名無し曰く、
13/02/24 13:21:45.75 joqxKfd+
>>73
お前、信玄の悪事について聞かれて、
答えたら全部論破されてたじゃんよwww

83:名無し曰く、
13/02/24 14:14:41.89 8jicMgQ4
>>81
誰1人大名に取り立てる奴がいないのが哀れすぎ
武田で一番出世したのが家康が息子に作らせた武田信吉家とか・・・

84:名無し曰く、
13/02/24 15:36:36.25 E2bI3Kdu
>>79
戦国板いかねえから知らないよ
ちなみに姉妹スレの三國志過大過小だと演義が基準やで

85:名無し曰く、
13/02/24 15:57:05.97 n7AYP8af
そもそも怪しげな軍記講談の類がOKなら肥査定の信玄謙信も問題ないわけで
ここはそんな評価基準にNOと言うスレだったはずなんだがな

86:名無し曰く、
13/02/24 16:01:32.76 GHsmOZBi
信長の勝利なんてほとんど軍記講談ソースじゃん
桶狭間森部稲生天王寺

87:名無し曰く、
13/02/24 16:27:34.01 1qDqlpe5
桶狭間の戦いなんてその軍記内ですら運よく先陣と思って突撃した先が本陣で
雨や風が偶発的タイミングで吹いただけだしね
今川領国は駿河遠州三河70万石くらいに対し信長領国は尾張57万石+津島交易チート収入+全国トップの朝廷への献金額で
ほとんど同じくらいなはずだし

88:名無し曰く、
13/02/24 18:37:35.46 N/h6lZWb
桶狭間は戦果は大きかったけど、元々はそんなに特筆すべき戦争になるはずがなかった節があるんだけどな。

> 桶狭間の戦いなんてその軍記内ですら運よく先陣と思って突撃した先が本陣で

少なくとも信長公記を読む限り、義元は大高城で指揮をとり鷲津・丸根を落とすと元康らを大高に残し桶狭間まで北上し人馬を休息させてる。
よって必ずしも信長の認識が誤りだったとはいえない。

> 今川領国は駿河遠州三河70万石くらいに対し信長領国は尾張57万石+津島交易チート収入+全国トップの朝廷への献金額で
> ほとんど同じくらいなはずだし

今川領国はともかくこの時の信長領国はどうだろう?
国内反信長勢力はほぼ平らげられていたとはいえ桶狭間の戦いで上四郡の動向はよくわからんし、下四郡も三河方面は今川勢になっている。
もともと砦に入れられていた軍勢以外で信長が動かしたのは馬廻り+αくらいじゃないのか?

89:名無し曰く、
13/02/24 19:08:55.51 RpH2n5lj
信長の野望は史実より有名な創作の方を重視という方針

90:名無し曰く、
13/02/24 19:31:14.77 8jicMgQ4
そもそも今川義元が長い時間かけて領国化してきた領土と
織田信長が急激に拡張した領土を同一視する奴はなんなの?
ただえさえ今川義元は背後の武田北条を同盟者にしている一方、
織田信長は斎藤義龍も伊勢連中も敵だからこいつらへの備えも必要なのに

91:名無し曰く、
13/02/24 19:37:10.51 GHsmOZBi
尾張は信秀の頃から斯波家織田の領国
この頃から津島港からのチート収入と朝廷への全国トップの献金額
むしろ今川のが三国同盟後急激に西遠江三河と領土化しただけ(そもそも三河は領土化などしていないが)

92:名無し曰く、
13/02/24 19:48:02.77 1qDqlpe5
当時の斎藤は浅井と戦っていて六角義治が斎藤と協調しようとするのを土岐氏に配慮する六角義賢が
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。

93:名無し曰く、
13/02/24 19:52:10.90 1qDqlpe5
今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからでそれ以前の今川はまったく衰退していない。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っている。また信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)

94:名無し曰く、
13/02/24 19:56:01.03 8jicMgQ4
斎藤義龍が南下を一切考えてないとか典型的なゲーム脳だな
織田信広や織田信賢は誰をアテにしていたと思ってるんだか
無知を棚に上げて都合の悪い史料を捏造するのはいつものことだから特に気にしてないけどな

95:名無し曰く、
13/02/24 20:04:17.82 N/h6lZWb
>>94
一切考えていなかったかどうかはともかく、少なくとも侵攻できる余裕はなかったから信広や信清を支援したんじゃないの?

> 信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り

信秀は大和守家などを被官化できたわけじゃないじゃん。
自分が平気で嘘をつくから桶狭間を捏造とか言えちゃうんだなw

96:名無し曰く、
13/02/24 20:09:20.26 8jicMgQ4
>>95
そりゃあ本格的な侵攻を考えてたかどうかは、当人以外わからんと思う。
ただ信広や信清あたりを支援して、あわよくばと考えるのは当時では普通だし事実やっている。
逆に言えば信長が「斎藤は南下してこない、絶対」なんて考えているというのは、さすがにトンデモ説。
まあ提唱者がだがだから、奇抜さはないけどな

97:名無し曰く、
13/02/24 20:53:49.64 1qDqlpe5
まず大前提として桶狭間は軍記にしかない合戦だし
斉藤が木曽川を超えて侵攻する気配もないのに
現に攻めて来た今川軍に戦力集中させて迎撃しないわけがない
可能性があるというだけでそんな所(北尾張)に留守居部隊を誰彼を何人置いてたとか史料もないし
そもそも軍記内での数字だし妄想の域を出ないとしかいいようがない

98:名無し曰く、
13/02/24 20:55:21.40 wBt/ny73
信玄書状で井口と織田が結んだから東濃から撤退するけど木曽は苗木死守しろって
義龍と信賢の事か?
この頃から信長や奥三河の反今川と連絡取り合ってるし信玄はどうしようもないな

99:名無し曰く、
13/02/24 21:00:37.49 1qDqlpe5
「信長公記」に信長は

「今度家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労
なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」

「各々よく々承り候へ。あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて
手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。その上、小軍なりとも大敵を怖る〃なかれ。運は天にあり。
此の語は知らざるや、懸からばひけ、しりぞかば引き付くべし。
是非に於いては、稠(おお)ひ倒し、追い崩すべきこと、案の内なり」

という発言をしたと記されている
つまり信長は、目の前にいる敵が今川義元の本陣だとは思わず
敵の先鋒隊(家康)と勘違いしていたと考えられる
それなら突っ込んでいったのも納得出来る
だって相手は疲弊した兵(と信長は思い込んでる)、こっちは新手、勝てないわけが無い
まぁ家康はこの時点では元康と名乗ったんだけど
太田牛一は結構適当なところがあるから間違ったんだろうね

100:名無し曰く、
13/02/24 21:34:26.69 N/h6lZWb
>>99
> だって相手は疲弊した兵(と信長は思い込んでる)、こっちは新手、勝てないわけが無い

鷲津・丸根を落として戦後処理を終えて大高城から(少なくとも一旦は)引いてる最中なんだし、実際に桶狭間山で人馬を休息させてる。
まるっと勘違いしてるわけでもない。

> 今度家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労
> なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり

これを全て家康単体でなしたとするのは無理がある。単に一連の戦闘での家康の行動を抜けだしたにすぎないと見るべき。

そもそも信長が指呼の間、は言い過ぎにしても目指できる距離にある義元本陣を誤認したというのは解せない。
千秋や佐々が寸前に突撃して討ち死にしているように義元は別に本陣を秘匿してる様子もない。

101:名無し曰く、
13/02/24 21:38:04.15 8jicMgQ4
>>97
おまえ軍記物の意味わかってないだろw
編纂物≠軍記物は大前提知識だしもっと言えば信長公記の成立年代は
最低でも1597年ではっきり言って1次史料側の存在

102:名無し曰く、
13/02/24 21:39:50.77 8jicMgQ4
おっと、信長公記の方は首巻だったなw

103:名無し曰く、
13/02/24 22:04:58.95 wBt/ny73
朝比奈親徳が前哨戦で負傷し戦列から離れた為に
信長が義元本陣に攻撃時に傍にいれなかったと記してる事から誤認説はない

104:名無し曰く、
13/02/24 22:10:40.14 GHsmOZBi
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。

105:名無し曰く、
13/02/24 22:12:39.57 GHsmOZBi
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に 織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。

106:名無し曰く、
13/02/24 22:15:12.73 GHsmOZBi
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16~17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w

107:名無し曰く、
13/02/24 22:16:09.60 GHsmOZBi
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。

角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。

108:名無し曰く、
13/02/24 22:20:42.80 GHsmOZBi
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなくそれどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ 毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころかことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ

109:名無し曰く、
13/02/24 22:23:51.42 GHsmOZBi
信長は大河内城2ヶ月大包囲で将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎・丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・
寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで
信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるからかなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)
しろと命じてる)岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみてさっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)

110:名無し曰く、
13/02/24 22:43:25.72 8jicMgQ4
第一級史料と一次史料と二次史料の区別がつかないだがw

111:名無し曰く、
13/02/24 22:45:07.40 1qDqlpe5
糞長公記は三次史料じゃね
デタラメばっかだし

112:名無し曰く、
13/02/24 22:47:50.30 8jicMgQ4
史料の信憑性に一次史料二次史料は全く関係ないことも知らないだがw
例え全部嘘の史料があってもそれが当時書かれたものなら一次史料なことも知らないだがw

113:名無し曰く、
13/02/24 23:00:49.51 1qDqlpe5
そんな糞公記とか軍記類にしかないデタラメ合戦が桶狭間。
しかもその軍記内ですらウルトラスーパーラッキーで勝てただけ

114:名無し曰く、
13/02/24 23:15:16.10 8jicMgQ4
根拠のない妄想、かつ運も実力のうちであることを知らないだがw
ケチをつけることしかできないあたりがまた哀愁を誘う

115:名無し曰く、
13/02/24 23:18:59.99 1qDqlpe5
本能寺で光秀に敗れ殺された信長は実力0だな

116:名無し曰く、
13/02/24 23:50:36.80 8jicMgQ4
実力0(キリッ
織田家が存続しているのに0w
信長に一族郎党殺された武田のことですねw

117:名無し曰く、
13/02/24 23:57:33.53 1qDqlpe5
織田が存続しようがしまいが関係なし
「光秀との戦いに敗れ殺されて死んだ」が信長の結果
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし

118:名無し曰く、
13/02/25 00:21:00.37 T2QEiCq/
なんで織田家を目の敵にしてるんだろ
滅亡させられたからか

119:名無し曰く、
13/02/25 00:25:36.30 iC2Ksub2
信長は自害だから殺されてすらいないじゃんw
家も存続してるし自然死と大差ない

120:名無し曰く、
13/02/25 00:28:24.17 +OPfPtuZ
光秀との戦いに敗れて殺されたのが信長。
戦を生業とする武士が戦に敗れて殺されて死んだのだから中身検証せずに結果だけでいえば最底辺
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし

121:名無し曰く、
13/02/25 00:29:04.50 7U+FAteE
信長が自害とか馬鹿じゃね

122:名無し曰く、
13/02/25 00:43:48.77 iC2Ksub2
>>121
結果で言えば自害だが何か問題でも
例えば前田玄以や有楽斎は逃げている
信長はそのようなおめおめと逃げるマネをしたくないから自害した
最も、信長の場合織田家当主である信忠がいるからというのもあるがな

123:名無し曰く、
13/02/25 00:48:35.32 +OPfPtuZ
>>121
信長が自害したなんて例によって嘘長公記とかのデタラメ逸話だし
逃げ切るまねをしたくないとかただの妄想だろ
自分は生き延び相手を殺したり従わせるのが戦争だしそれまでやってる事なのに
なんでこのときだけわざわざ逃げられるのに逃げないんだよアホ
逃げ切れない状況に追い込まれて死んだだけだからこういうのは自害とはいわんしただ殺されただけ

124:名無し曰く、
13/02/25 00:48:44.25 iC2Ksub2
>>120
織田家一門が残した家

織田信雄-織田信良(上野小幡)
    -織田高長(大和宇陀)

織田信包-織田信則(丹波柏原)

織田有楽斎-織田長孝(美濃野村)
     -織田長政(大和芝村)
     -織田尚長(大和柳本)

一方の武田

武田勝頼(天目山でハラキリ断絶)
仁科盛信(味方が誰も駆けつけずわずか半日で落城自刃)
海野信親(織田軍に恐れをなしてハラキリ)
葛山信貞(織田軍の侵攻で人知れず討死)
武田信清(織田軍の侵攻でトンズラ、仇敵上杉を頼る)
武田信豊(織田軍の侵攻で部下に殺され城を開城される)
武田信廉(織田軍の侵攻で打ち首)

武田wwww

125:名無し曰く、
13/02/25 00:50:30.87 iC2Ksub2
>>123
この時点の信長は既に織田家当主じゃないから
信長は公式記録では自害あるいは行方不明ということになっている
信長が誰かに討ち取られて死んだというのなら首級が間違いなく上がる
その史料は?

126:名無し曰く、
13/02/25 00:53:08.37 iC2Ksub2
当時の武士が死に様をかっこよくつけようと自害するのは別に不思議でもなんでもない
家康も伊賀越えの際に自害しておし留まったという逸話があるくらいだし
信長の場合は既に織田家当主ではないのだからどう死のうが信長の勝手
織田家当主なのにさっさと死んだ信忠はともかく信長が死に方どうこうで文句つけられる理由はない

127:名無し曰く、
13/02/25 01:03:34.62 +OPfPtuZ
>>125
当主かどうかなんて関係ない
そもそも実権はまだ信長が持っており自分も政治に干渉しまくるどころか自分があちこちに指令だしたり誅殺したりしまくってるし
>>126
当主かどうかなんて関係なし
殺されて死んだことには変わりないんだから能力0だろ

128:名無し曰く、
13/02/25 01:07:08.42 iC2Ksub2
殺されて死んだというなら武田勝頼のように首級が挙がっているはず。信長の首級があがったという史料は?

当主じゃないのだから信長がどういう行動を取ろうが織田家に全く影響はない。
そもそも織田家は1575年から織田信忠が当主で信長は信忠信雄信孝に軍預けまくって裏方ばかり
自分で出張った戦いが劇的に減少するし大御所家康と同レベル

で、明智軍の誰かが信長を討取って首級を晒したと言う史料は?

129:名無し曰く、
13/02/25 01:12:32.67 iC2Ksub2
家督相続当初ならいざ知らず本能寺の変直前の信長の実権なんてほとんどないだろ
本能寺直前の6月1日には信長ではなく信忠の下に公家が大勢参集しているし
その前の武田攻めも織田信忠主導で全て行われ信長は富士山見物しただけ
明らかに信忠の当主権力の確立と信長の隠棲具合が見えるし、既に家督を譲って
戦線にも立たない人間が実権持ってるとか寝言レベルの妄想

130:名無し曰く、
13/02/25 01:16:16.30 +OPfPtuZ
>>128
勝頼も自害なんだが。
そもそも首級があがったとか一々史料には残らん
光秀の時とか柴田の時とかでも首注文記録なんて残ってないし
>>当主じゃないのだから信長がどういう行動を取ろうが織田家に全く影響はない
一々各方面軍に援軍派遣したり命令だしたり北陸で城割やったり国人粛清したり動きまくってるし影響ないわけねーだろアホ
>>で、明智軍の誰かが信長を討取って首級を晒したと言う史料は?
そもそも本能寺の経緯なんて軍記類以外には全くかかれてないし
わかるのはあの変の前後で信長がいなくなった=殺されたというだけ
仮に自害だったとしても死ぬ状況に追い込まれて死んだとしかいえないので(生き延びられるなら逃げてる)
殺されたのと変わらん
それこそ勝頼とか滅ぼされた大名の当主でも最後は自害だろうし

131:名無し曰く、
13/02/25 01:29:01.54 +OPfPtuZ
>129
天正9年3/24信長が本願寺顕如に紀伊本願寺への参詣を許す
天正10年信長→柴田で尾張犬山着陣と武田攻めの状況を伝えている。また松倉城攻略についての指示を出している
多聞院日記3/23で三河妙眼寺の僧可心が信長に熱田社の太刀を献上している
5/7信長が尾張土肥助次郎の所領を安堵している
同日信長が松平家忠に三河遠江両国衆に兵糧米を与えている

132:名無し曰く、
13/02/25 01:56:37.74 iC2Ksub2
>>仮に自害だったとしても死ぬ状況に追い込まれて死んだとしかいえないので(生き延びられるなら逃げてる)
>>殺されたのと変わらん

前提からして大間違いじゃん
本能寺の変でも織田有楽斎や前田玄以は逃げ延びてるし
「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらないじゃん
信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手。

>>一々各方面軍に援軍派遣したり命令だしたり北陸で城割やったり国人粛清したり動きまくってるし影響ないわけねーだろアホ

前当主だから多少の庶務をやってただけだし本能寺の変の直前では大事のことはほとんどしてない。

>>それこそ勝頼とか滅ぼされた大名の当主でも最後は自害だろうし

大名の当主が追い詰められてする自害と信長の自害は全然違う

133:名無し曰く、
13/02/25 02:45:28.75 +OPfPtuZ
>>132
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」
6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反・本能寺襲撃は繋げて書かれているため
光秀の襲撃により信長は死んだ(殺された)といえる
何もなく自分で自殺したわけでもなく光秀に襲撃されて自殺した(させられた)んだから殺されたのと同じ

134:名無し曰く、
13/02/25 03:06:07.75 +OPfPtuZ
>>前当主だから多少の庶務をやってただけだし本能寺の変の直前では大事のことはほとんどしてない

天正9年1月1日 在国諸將の参賀を停む、又馬場を安土城の北に築く
天正9年1月3日信長、武田勝頼の、遠江高天神城を赴援せんとするを聞き、信忠をして、尾張清洲城に出陣せしめ、水野忠守、同忠重等を遣して、遠江横須賀城を守らしむ、
天正9年1月9日信長、鯨肉を献ず
天正9年1月15日信長、三毬打を安土城に行ふ、又北畠信雄、神戸信孝等と共に騎乗す、
1月25日信長、河内安井清右衛門に其屋敷を安堵せしめ、諸役を免除し、之に禁制を掲ぐ、
天正9年2月6日宮女及び立入隆佐等を安土に遣し、練香を信長に賜ひ、調馬の事を命ぜらる、信長、之を奉ず、
天正9年2月11日信長、綸旨等の旨に任せ、四府駕輿丁藤本三郎左衞門尉の諸役を免除す、
天正9年2月20日信長、入京して、本能寺に館す、
天正9年2月23日耶蘇会宣教師バリニヤーニ、黒奴を連行して信長に謁す、
天正9年2月24日柴田勝家、上京して、信長に謁し、太刀、黄金等を進む、信長、其越前、加賀を平定するの功を賞す、
天正9年2月28日信長、馬埒を禁裏東門外に構へ、諸將をして騎乗せしむ、之を叡覧あらせられ、信長に勅書及び御衣を賜ふ、
天正9年2月29日信長、紀伊熊野新宮神主堀内新次郎に知行分同社領の地を安堵せしむ、
天正9年3月1日 前右大臣織田信長を、左大臣に任ぜんとす、尋で、信長、譲位の叡慮を奉じて後に之を拝すべきことを奏請す、譲位を延引あらせらる、
天正9年3月5日信長、諸將をして、騎乗せしむ、誠仁親王、之を御覧あらせらる、
天正9年3月5日信長、長岡藤孝をして、所領丹後を諸給人に宛行はしめ、余分は藤孝の直務と為さしむ、
天正9年3月6日本願寺光佐(顕如)の請に依り、紀伊雑賀に在る同寺坊官赦免の命を諸国に下すべき旨を信長に命ぜらる、尋で、信長、之を奉ずるに依り、光佐、御禮金を献ず、
3/18勝頼が佐竹の斡旋で信長と同盟を結ぶ風説が伝わる
天正9年3月20日三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、信長に帰属せしむ、
天正9年3月24日信長、佐々成政、神保長住をして、越中小井手城を赴援せしめ、又不破光治、前田利家等の諸將を遣し、之を援けしむ、是日、上杉景勝等、兵を班す、
天正9年3月25日信長、矢部善七郎、猪子兵介をして、山城勝龍寺城を守らしむ
天正9年3月28畠山氏の遺臣長連龍、信長の援に拠り、温井景隆等を能登七尾城に攻めて、之を降す、是日、信長、菅屋長頼を遣して、之を守らしむ、
天正9年4月1日吉田兼和、松井友閑に頼り、吉田社修理のことを信長に請
天正9年4月8日信長、筒井順慶をして、歓進猿楽を大和木寺に張行せしむ、
天正9年4月10日信長、近江竹生島に詣し、帰城す、其侍女等の恣に同国桑實寺に詣するを怒り、之を出さしむ、同寺僧、之を庇護するに依り、併せて、之を殺す、
天正9年4月12日信長、越前溝口定勝(秀勝)に所領を宛行ふ、
天正9年4月13日信長、長谷川秀一、野々村幸久に所領を宛行ふ
天正9年4月16日若狭高浜城逸見昌経歿す、是日、信長、其所領を武田元明、溝口定勝(秀勝)に頒ち與ふ、
天正9年4月20日信長、堀秀政をして、和泉國中に指出を徴せしむ、槙尾寺、之に応ぜざるに依り、是日、秀政、兵を率ゐて、之を囲む、僧徒、退散す、尋で、信長、同寺を火かしむ、
天正9年4月20日信長、森蘭丸(長定)に近江に於て所領を宛行ふ、
天正9年4月25日越前溝口定勝(秀勝、)高麗鷹を信長に進む、
天正9年6月5日北條氏政、信長に馬を遺る
天正9年6月15日信長、筒井順慶に大和吐田村を宛行ふ、是日、順慶、信長に之を謝す、
天正9年6月16日信長、越後新発田城新発田重家の款を通ずることを越中の某に報じ、之と海上の連絡を計らしむ
天正9年6月28日信長、眞桑瓜を献ず、
天正9年6月28日近衞前久、信長の命に依り、島津義久をして、豊後大友義統と講和せしむ、是日、義久、太刀、馬を前久に遺り、之を謝す、

135:名無し曰く、
13/02/25 03:12:33.88 7U+FAteE
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に放生津で宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww

136:名無し曰く、
13/02/25 03:20:03.13 7U+FAteE
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は秀吉が婚姻させた秀忠の妻の江の哀願で信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
『高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった』信栄系に乗っ取られた。

137:名無し曰く、
13/02/25 03:22:14.99 7U+FAteE
家康が穴山の息子が早逝したために武田の名跡が絶えるのを
惜しがり、息子の信吉を穴山の妻の養子として継がせ
武田旧臣を集めて武田信吉として再興させてるだろ。
水戸徳川25万石の前身であったが早逝により断絶したが
名門武田ブランドの魅力と惜しさから柳沢の後見によって
甲斐に領土を与えられ信興の信玄次男系が再興し
信玄次男竜芳系として高家武田は現在まで繋いでますが。
武田の不幸は穴山嫡男にしろ、信吉にしろ早逝してしまったり
信玄次男の血統が大久保事件の政争に巻き込まれたこと。
そもそも祖先を祀ることが忠孝とされ血の継続ではなく、
家をつなぐことが重要視され養子を入れることが当たり前だったのに
純血主義など持ち出してバカじゃねぇの。
純血なままの藩なんて滅多にないわw
だいたい血で言うなら信長の曽祖父からしてまったく不明じゃねぇかw
断絶に関しても北畠信雄なんて秀吉と家康によって
2回も改易による断絶を喰らってるしw
しかも秋田へ流罪&強制出家&付き人は小姓1人までとかw
関が原でも改易され、生活苦から大坂城で扶養家族化する始末w
秀吉が婚姻させた江と秀忠の関わりがあったから
北畠信雄系は消滅せずに済んだだけ。
武田家は四位中将と言う譜代筆頭井伊家と同列を維持してたし
(これより上は御三家や前田家くらいしかいない)
名門ゆえに儀式作法の顧問報酬でぼろ儲けしてたしな。
ド貧困で領民を地獄の悪政で苦しめていた織田陣屋とは生活レベルも家格も違うわw

138:名無し曰く、
13/02/25 03:22:59.80 iC2Ksub2
>>133
おまえは本当にアホだなw
明智や毛利が「打ち果し」と書くのは当たり前
ついでに言うとほとんどの史料は「生害」の文字を使い
死体や首級が発見されてないことから現在でも「自害」の味方が強い

>>何もなく自分で自殺したわけでもなく光秀に襲撃されて自殺した(させられた)んだから殺されたのと同じ


本能寺の変でも織田有楽斎や前田玄以は逃げ延びてるし前提からして大間違いじゃん
「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらないじゃん
信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手。

>>無駄に長いコピペ

本能寺の変直前というのが聞こえなかったのか、1年も前の話を持ってくるなよ

つか明智にぶっ殺されたとか荒唐無稽なこと言う奴っておまえくらいだろw
松平記を根拠に武田信玄は銃殺された、とする方がなんぼか証拠能力あるわ

139:名無し曰く、
13/02/25 03:30:34.50 iC2Ksub2
>>137
武田信吉を甲斐源氏武田に入れるとか織田家で言ったら織田無道や織田信成を
信長の子孫と偽造誇張されてるレベルの舐められっぷりだろw
所詮甲斐源氏という戦国大名でも屈指のサラブレッド血縁の伝統と名誉を欲しただけ
武田信吉の頃は確か武田信玄の孫である武田信道も息子の武田信清も存命だっがこいつらの存在をまるで無視する家康w
挙句武田信吉が若年で死んだらもう用済みとばかりに德川頼房に家臣と領地を与える有様wwww

織田家が美濃野村、大和宇陀、上野小幡、丹波柏原、大和芝村、大和柳本と6家10万石以上の大名家を出したのに
武田家は仇敵上杉と旧臣大久保に寄生して家康に家名だけ分捕られる大失態w武田の御先祖が草葉の陰から泣いてるぞwww

140:名無し曰く、
13/02/25 03:32:58.94 +OPfPtuZ
>>138
>>明智や毛利が「打ち果し」と書くのは当たり前
意味不明。詰まる所は明智や毛利の言うとおり光秀が殺したというだけの話
>>ついでに言うとほとんどの史料は「生害」の文字を使い
他史料でも共通しているのが「光秀の謀反によって信長は生害」
よって光秀によって自害させられたんだから殺されたと同じ
>>本能寺の変でも織田有楽斎や前田玄以は逃げ延びてるし前提からして大間違いじゃん
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし
有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>つか明智にぶっ殺されたとか荒唐無稽なこと言う奴っておまえくらいだろw
光秀も小早川も言ってるし本城の覚書でも「光秀によって信長は自害させられた」と書いてる
>>本能寺の変直前というのが聞こえなかったのか、1年も前の話を持ってくるなよ
わずか一年で織田家の実権がどう大きく変わったのか具体的に説明よろ

141:名無し曰く、
13/02/25 03:45:53.54 iC2Ksub2
>>140
>>意味不明。詰まる所は明智や毛利の言うとおり光秀が殺したというだけの話

光秀が信長を殺したのなら信長の首級が京都市中に晒されるだけ
にも拘らず当時の公家も光秀自身も信長の首級には触れていない
ちなみに兼見卿記では生害後の光秀の首級も山崎合戦後の斎藤利三の処刑に関しても記されている
これだけ注目を浴びているのに誰1人信長の首級の事に関しては記録していない事実

>>よって光秀によって自害させられたんだから殺されたと同じ
>>有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
>>有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし

逃げ延びた人物がいる以上、「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらない
信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手。

>>「光秀によって信長は自害させられた」と書いてる

光秀の襲撃と信長の生害は並立して書かれているだけでそれだけが原因ではない
つかそんなこと言い出したら戦争で軍事衝突があれば皆死ぬのかって話だな

>>わずか一年で織田家の実権がどう大きく変わったのか具体的に説明よろ

織田信忠が信長抜きで武田を完全滅亡させる
本能寺直前に公家が信長ではなく信忠を別個に訪問

武田征伐で信忠は信長の命令違反しても信玄の息子みたいに罰されることなく
普通に従軍できているし領土見ても明らかに実権が移譲されてきてるじゃん
どう見ても本能寺直前の織田家権力は信忠>信長じゃん

142:名無し曰く、
13/02/25 03:51:49.28 iC2Ksub2
つか信長ほどの有名人が本当に明知の手にかかってぶっ殺されていたら
明智が京に首を晒すのは当然のことだし当時はそれが普通
武田勝頼も生害した後織田軍の手に首級が渡って京で織田の手によって晒されているし
本能寺の変後も明智光秀の首むくろや明智軍の首級が見世物のように晒されてると当時の公家がこぞって書いているのに
信長だけ「首はありません、生害したらしい」と誰1人信長の死体や首級を確認できないまま本能寺の変が終わっている事実を無視するだがw

143:名無し曰く、
13/02/25 04:12:41.90 +OPfPtuZ
>>光秀が信長を殺したのなら信長の首級が京都市中に晒されるだけ
>>にも拘らず当時の公家も光秀自身も信長の首級には触れていない
焼けてなくなっただけかもしれんだろ
>>逃げ延びた人物がいる以上、「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし
有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
信長は織田家の実権持ちまくり。>>134でわかるし続きが無駄に長いから省略したがまた書かないといけないのか?
>>自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手
上記を証明できる史料をどうぞ。あと自害させたのは光秀の襲撃なんだから殺したのと同義
>>光秀の襲撃と信長の生害は並立して書かれているだけでそれだけが原因ではない
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」
6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候
兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」
6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており
信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
>>つかそんなこと言い出したら戦争で軍事衝突があれば皆死ぬのかって話だな
意味不明。戦争に負けた側が捕らえられたり逃げられない状況になったりして死を選ぶのは殺されるのと同義
戦争に負けた事と自殺が繋がってるからな。戦争がなきゃ死ぬわけないんだし

144:名無し曰く、
13/02/25 04:28:09.85 +OPfPtuZ
天正10年1月6日信長、鯨肉を献ず、之を廷臣に頒ち賜ふ
正10年1月10日備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印状を請ひて、駿河守に與ふ、
天正10年1月15日信長、三毬打を行ひ、又騎乗す、近衞前久、之に会す
天正10年1月16日信長、佐久間信盛の遺子正勝を召出して、信忠に仕へしむ
天正10年1月21日羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ、
天正10年1月22日信長、狩獲せる鶴を献ず
天正10年1月23日一向宗徒紀伊鈴木孫一、養父の仇土橋平次を撃たんとし、援を信長に請ふ、信長、族左兵衞佐某をして、之を同国雑賀に赴援せしめ、平次を斬る、是日、本願寺光壽(教如)をして、信長と和融せしめらる
正10年1月25日大神宮神主等、両宮を造替せんことを信長に請ふ、是日、信長、銭三千貫を寄進し、平井久右衞門、上部貞永を奉行と為す、尋で、織田信忠をして、岐阜城に蓄ふる銭を検して、造替の用途に備へしむ、
天正10年1月29日信長、尾張の暦師の訴に依り、陰陽頭土御門久脩を招きて、閏月の有無を糺決せしむ、
天正10年2月2日信濃木曽義昌、美濃苗木城苗木久兵衞に頼り、武田勝頼に背きて、信長に通ず、是日、勝頼、之を撃たんとし、諏訪上原に出陣し、諸將をして、国境を守らしむ、
正10年2月3日信長、諸將の甲斐侵入の進路を定め、親ら織田信忠等と共に美濃より、徳川家康をして駿河より、北條氏政をして関東より、金森長近をして飛騨より進ましむ
天正10年2月9日信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停めて、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ、
天正10年2月21日信長、織田信忠及び瀧川一益、川尻秀隆をして、信濃高遠城攻略の為め付城を築き、守備を厳にせしむ
天正10年2月28日信長、妙心寺をして、法度を犯す者は、寺法に拠りて、処分せしむ
天正10年3月5日信長、惟任光秀、筒井順慶、長岡忠興等の諸將を率ゐて安土城を発し、柏原に著す、近衞前久、軍に従ふ、
天正10年3月6日信長、美濃呂久川に著す、仁科盛信の首級を実検し、之を長良川に梟せしむ、尋で、岐阜城に著す、
天正10年3月9日石清水八幡宮法楽和歌御会を行ひ、信長の戦捷を祈らせらる、
天正10年3月10日諸社寺をして、信長の戦捷を祈らしむ、
天正10年3月14日信長、信濃波合に著陣し、武田勝頼父子の首級を実検す、明日、同国飯田に移り、之を梟す、3/11誠仁親王、千返楽を奏し、信長の戦捷を祈らせらる
天正10年3月16日武田信豊、信濃小諸城下曽根信恒に頼る、信恒、信豊を殺し、是日、首級を信長に同国飯田に進む
3月19日信長、信濃飯田より同国上諏訪に陣を移す、徳川家康、来会す、明日、木曽義昌、小笠原信嶺、穴山信君、来り謁す、信長、之に旧領を安堵せしめ、義昌に信濃安曇、筑摩の二郡を加増す、又諏訪社、同上坊、南方村、甲斐川口郷等に禁制を掲ぐ
天正10年3月19日信長、信忠をして、甲信両国を守らしめ、東海道より帰国せんとす、是日、徳川家康、道路の普請等を為さしむ、
天正10年3月21日北條氏政、信長に物を遺りて、戦捷を賀す
天正10年3月22日左中弁萬里小路充房を甲斐に下し、宸翰を信長父子に賜ひて、之を犒はせらる
天正10年3月22日信長、武田勝頼父子及び武田信豊の首級を京都に送る、是日、之を梟せしむ、
天正10年3月23日信長、上野及び信濃二郡を瀧川一益に與へ、関東に鎮せしむ、尋で、一益、上野箕輪城より同国厩橋城に移る
天正10年3月24日信長、従軍の將士に兵糧を頒ち與ふ
天正10年3月26日信長、信忠の戦功を賞して、物を與へ、家督を譲るべきことを約す、尋で、信忠、之を謝す、
天正10年3月26日北條氏政、信長の飼馬料として、米千俵を信濃諏訪に輸す
天正10年3月28日北條氏政、信長の、好を厚くせんことを伊豆三島社に立願す、
天正10年3月29日信長、甲斐を河尻秀隆に、駿河を徳川家康に、信濃高井、水内、更科、埴科四郡を森長可に、伊奈郡を毛利秀頼に、美濃岩村城を団景春に、同金山城を森長定に與ふ、
天正10年3月是月信長、甲信両国の法度を定む、又信濃の金鑿をして、速に還住し、採掘に努めしむ、
天正10年4月2日信長、帰国せんとし、信濃諏訪を発し、甲斐台原に到る、北條氏政、狩獲せる雉を進む、

145:名無し曰く、
13/02/25 04:38:55.08 +OPfPtuZ
4月2日信長の將森長可、信濃和合院領に禁制を掲ぐ
4月3信長、甲府に到り、武田氏の館址に陣す、北條氏政、馬、鷹を贈る
4月3日信長、甲斐仏師原郷等に禁制を掲ぐ
4月10日信長、穴山信君に甲斐の本知分を安堵せしめ、河尻秀隆に宛行ふ地と境界を立て、領知せしむ
4月21日信長、甲府を発し、是日、安土に凱旋
5月1日上杉景勝、信長の兵と戦はんとし、佐竹義重と旧交を修す
5月7日信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、之に讃岐を與へ、三好康長に阿波を與ふ、
5月17日信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
5月21日信長、徳川家康等をして、京都、大坂、奈良及び堺等を遊覧せしむ
5月22日伊達輝宗、信長に馬を贈る
5月29日信長、津田信益、蒲生賢秀等をして、安土城を守らしめ、近臣数十人と共に入京し、本能寺に館す
5月29日越後新発田城新発田重家、信長と通謀し、芦名盛隆も亦、信長に款を通ず、是日、盛隆の將金上盛備、瀧川一益に違約せざることを陳ず、
また信長死後ですら隠岐清家の義子経清、織田信長に属せんとし、事成らずして、清家を誘殺す、
伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、輝元の援を乞ひ、数通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る、
と信長という名前が史料にあがっている。実権が信長にあったのは明らか

146:名無し曰く、
13/02/25 05:02:13.78 iC2Ksub2
>>焼けてなくなっただけかもしれんだろ
>>上記を証明できる史料をどうぞ。あと自害させたのは光秀の襲撃なんだから殺したのと同義
>>信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる

おまえ本気でアホだな
当時の生死確認は(今でもそれに近いが)死体を確認する、首級を確認するの2パターンを主に使用するが
信長の場合はその両方とも不可能なんだから失踪か生害と推測で書かざるを得ないわけ。
焼けてなくなったなんてあくまで可能性の1つでしかない

・信長は生き延びたが、記憶喪失になってそのまま織田家に戻ることはなかった

とかいくらでもいえるわけ、そして史料ではこの手のいわゆる「トンデモ説」の類ですら
信長の死に関して言えば首級が挙がらない+死体を確認できない、の2つの点から
「考察しうる真っ当な説」に早変わりできる。だから信ヤボの信長は本能寺の失点がない。
死んだかどうかもわからんのにマイナスにできるわけがないからなw

>>信長は織田家の実権持ちまくり。

まず信長に実権がないなんて一言も言ってないのだがなw
信長のほかに織田家一門で実権のある正統な人間があればそいつが当主。
そしてそれが信長から家督を譲られた信忠であるというだけ。
信忠>信長であるとは言ったが信長に実権がないなんて一言も話していないのを誇張解釈するだがw

ちなみにおまえがずらずらと挙げている実績、軍事行動の大半は信忠秀吉光秀勝家などといった
各担当者が実際には主流でやっていることくらいは知っているよな?
それを抜くとこの当時信長がやっていることは外交折衝が主になるのだが、
それをわかってやっているんだよな?w

>>戦争に負けた側が捕らえられたり逃げられない状況になったりして死を選ぶのは殺されるのと同義
>>有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
>>有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし

根拠なき妄想乙
信長の死体や首級が見つかっていない時点で明智軍には信長殺害の確たる根拠や自信はない
つまり明智勢は暗中模索の状態で信長の生死もわからんまま変当時行動している
有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
その時点で信長には逃亡する選択肢が存在した、ただ織田家当主ではない信長は自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ

>>6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
>>6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
>>6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候
>>信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる

首級や死体が挙がってないのに死亡宣言とか史料もないのに根拠を語るおまえみたいなもんだろw
明智軍が死体出ないけどとりあえず信長は死んだということにしてフカしこいてるだけw
事実山崎へ向かう羽柴秀吉は6月5日に「織田親子は福富秀勝の手によって脱出した」と中川清秀に書状で通告している。
信長の生死定かならずな状態であったことがすぐにわかる史料だなw

147:名無し曰く、
13/02/25 05:58:56.35 vuMgxic1
結局、長篠の戦いは兵数何対何で勝った決めてはなんだったんだ?
三段撃ちはねつ造なんだろう?武田の騎馬軍団もそうなんだろう?

148:名無し曰く、
13/02/25 14:02:09.23 +OPfPtuZ
>>当時の生死確認は(今でもそれに近いが)死体を確認する、首級を確認するの2パターンを主に使用するが信長の場合はその両方とも不可能なんだから失踪か生害と推測で書かざるを得ないわけ。
焼けてなくなればその両方とも不可能
最後が自害だったなんてそれこそ当時を見てもいない人間が憶測で語ってる史料がほとんどで
当の光秀が信長は討ち果たしたと書いてる。そもそも信長が自害だろうが他殺だろうが関係ない
光秀の謀反襲撃によって自殺したなら信長は光秀に自殺させられたという事だから普通に殺されたのと同義
>>焼けてなくなったなんてあくまで可能性の1
焼けてなくなったからこそ死体確認不可能だったんだし普通に他殺だった場合でも焼けてなくなれば死体確認不可能だから自殺の場合と確率的にかわらん
あと自殺でも最後を近習に殺させたなら十分他殺
>>信長は生き延びたが、記憶喪失になってそのまま織田家に戻ることはなかった
信長は発見されなかったんだし皆史料でも本能寺の変で死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>そして史料ではこの手のいわゆる「トンデモ説」の類ですら信長の死に関して言えば首級が挙がらない+死体を確認できない、の2つの点から「考察しうる真っ当な説」に早変わりできる。
意味不明。本能寺で死んだのはどの史料でも共通してるしその後発見されてないのだから死んだと考えるのが普通
>>だから信ヤボの信長は本能寺の失点がない。 死んだかどうかもわからんのにマイナスにできるわけがないからなw
信ヤボの信長の本能寺の失点がないのはちゃんと経過が考慮されてるからであってお前のように運や状況無視して結果で決め付ける馬鹿がゲーム作成していないので当たり前
死んだかもどうかもわからんとか妄想乙だな。生きてるって主張する論文学説史料あげてからいえよクズ
>>信長のほかに織田家一門で実権のある正統な人間があればそいつが当主
当主でも格方面軍に命令出しまくり朝廷への貢献行為やりまくったり他大名からの献品受け取ったり
禁制だしたり攻め取った国の法度定めたり戦後の領土配分決めたり兵糧与えたり家臣を遠方に飛ばしたり織田家の中心的行動は全て信長起点で行われており
信忠は一方面軍を率いるという立場でしかない
>>ちなみにおまえがずらずらと挙げている実績、軍事行動の大半は信忠秀吉光秀勝家などといった各担当者が実際には主流でやっていることくらいは知っているよな?
そら他方面に部隊がいるから自分がそのどこかに向かえば全体に指令だせないから現地にはそれぞれ指揮官おいて中心から命令だしたり全体の戦略決定してただけだろ
>>信長の死体や首級が見つかっていない時点で明智軍には信長殺害の確たる根拠や自信はない
死体首級が見つかろうが見つかるまいが本能寺を十重ハ十重に囲んでその内部が全壊して全員殺せばその中に信長が混じってるなんてアホでもわかる。
たまたま焼け落ちて死体がなくなっただけ。大体本能寺なんて大して大規模拠点でもないし周囲を1万以上の大軍で蟻の抜け出る隙間もなく囲めば標的(信長)を逃がすわけがない

149:名無し曰く、
13/02/25 14:02:30.67 +OPfPtuZ
>>つまり明智勢は暗中模索の状態で信長の生死もわからんまま変当時行動している
光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>その時点で信長には逃亡する選択肢が存在した、ただ織田家当主ではない信長は自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ
根拠なし。本能寺を十重ハ十重に囲まれて生き延びれるわけないし逃げれるなら逃げてる
>>首級や死体が挙がってないのに死亡宣言とか史料もないのに根拠を語るおまえみたいなもんだろw
そら上記のように皆死んだものとして扱ってるし発見された様子もないし
>>明智軍が死体出ないけどとりあえず信長は死んだということにしてフカしこいてるだけw
明智軍は大軍で本能寺を包囲したので逃げ切れるわけがない。本能寺なんて大して大規模拠点じゃないし隙間なく包囲なんて楽勝
ちなみに皆信長は死んだものとして行動しておりその後発見された様子もなし
>>事実山崎へ向かう羽柴秀吉は6月5日に「織田親子は福富秀勝の手によって脱出した」と中川清秀に書状で通告している。
当の秀吉が信長の仏事(葬式)を主催しているわけだが
家康も光秀も公家連中も死んだとしてるし生きてるなんて書いてるの秀吉の例のごとくデタラメ書きまくった糞史料だけだよ

150:名無し曰く、
13/02/25 15:07:09.85 iC2Ksub2
>>焼けてなくなればその両方とも不可能。当の光秀が信長は討ち果たしたと書いてる。
>>あと自殺でも最後を近習に殺させたなら十分他殺

根拠なき妄想乙、焼けてなくなったとか当時の史料に皆無。
ついでに言うと普通の火事ごときで人間の死体が判別不可能になるほど真っ黒焦げにはならない。
あと信長は「生害」であって「切腹」ではない。最期を見届けた近習がいるかどうかも不明。

>>光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし
>>公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし

明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が
信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実

>>織田家の中心的行動は全て信長起点で行われており信忠は一方面軍を率いるという立場でしかない

一方面軍とか知ったか乙、別所松永武田と織田家の軍事活動は信忠総大将で行われている
つか一方面軍だったら光秀や秀吉が信忠の旗下に入って戦うわけがない。信長は内政外交など裏方をやっていただけ。
外交すら信忠や勝家といった現地の連中がある程度やることもあるし実質内政だけが信長の特許。

>>有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
>>本能寺を十重ハ十重に囲まれて生き延びれるわけないし逃げれるなら逃げてる

有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実。
結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は
自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。

>>7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付無比類御覚悟持頼などと書いてるし
>>6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
>>6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>当の秀吉が信長の仏事(葬式)を主催しているわけだが

認定死亡という言葉も知らない情弱乙、例え死んでいなくても一定期間帰ってこなければ死んだものと扱われるし
戸籍や個人情報が確たる現代でも、認定死亡扱いされた人間がヒョッコリ帰ってきたり別の場所で生きていたりするのがままある。
信長の死体や首級を誰も確認できていない以上、信長が死んだかどうかなんて確証や自信も一切ないし、
事実秀吉は信長の仏事(葬式)に際して信長の木像を代用している。

151:名無し曰く、
13/02/25 15:31:00.10 iC2Ksub2
つか信長の首級や死体が見つかりませんでした、なんて本当に信長が明智勢に殺されていたらまずありえないからな
多聞院日記や晴豊記では本能寺の変の発生時刻を「暁4時」「早天」としていることから
早朝に事変があったことは明白なのに太陽が昇った日中の捜索で首を見つけられないとかありえないし、
当事者の明智軍が見つけられないのに余所者が適当に見つけて死体持ち出しとかもっと無理だし
普通の死体じゃ放火で燃えたくらいで判別不可能になるくらい黒こげにならない。

書状で「信長打ち果たし」なんて書いてる光秀が信長の首を市中に晒さないとも思えないし
実はどこかで生きてました、とか言われても否定できる根拠を出せない。あくまでどれも推測、当事者同士ですら推測。
もともと信長は御歳49だし当時ならとっくに長生きできる年齢じゃないから
生き延びてても数ヶ月数年で天寿を全うしたのかもな。

152:名無し曰く、
13/02/25 16:14:13.95 +OPfPtuZ
>>焼けてなくなったとか当時の史料に皆無。ついでに言うと普通の火事ごときで人間の死体が判別不可能になるほど真っ黒焦げにはならない。
普通に考えて死体が見つからなかったにもかかわらず皆が死んだものとして扱っておりその後の登場もなくなるのだから焼けて死んだと考えるのが普通
後半部分は完全に妄想だな。火力が強ければ普通に判別不可能に黒こげになる。火葬場とかと同じ
>>あと信長は「生害」であって「切腹」ではない。最期を見届けた近習がいるかどうかも不明。
自殺と書いてるのは信長を見てるわけでも知ってるわけでもない公家連中とか家忠とかで当の光秀は討ち果たしたと書いてるだけで
そもそも自殺だろうが他殺だろうが光秀の謀反襲撃によって信長は死んだんだから殺されたのと同じ
>>明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
首級や死体を確認できないから討ち果たしたがデタラメとか基地外だな。普通に脱出不可能な包囲に追い込んで逃げられるわけないし皆死んだと扱ってる
つうか逃げたなら信長がその後発見された史料とか生きたものとして皆が行動してる史料がないはずがなく、そんなもんないので論外
>>事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実
そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね。それか光秀が哀れんで晒さなかっただけ。光秀の場合は謀反人だから世にさらし者にするのは当たり前だし
信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。
>>一方面軍とか知ったか乙、別所松永武田と織田家の軍事活動は信忠総大将で行われている
>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
>>つか一方面軍だったら光秀や秀吉が信忠の旗下に入って戦うわけがない。信長は内政外交など裏方をやっていただけ。
それは関係なし。北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>外交すら信忠や勝家といった現地の連中がある程度やることもあるし実質内政だけが信長の特許。
宇喜多からの家臣の拝謁と宇喜多家の裁定、佐久間正勝の信忠への家臣への取立てなどありとあらゆる行動を信長がやってる>>144-145
>>有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるから
彼らが逃げられたからといって信長が逃げ切れる根拠には全くならない
>>結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は 自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。
根拠なし。ちなみにその価値観とやらはどの史料or論文でどう信長が明らかにしてる価値観なんだ?本能寺なんて小規模拠点を十重ハ十重に囲まれて逃げ切れるわけがない

153:名無し曰く、
13/02/25 16:14:33.23 +OPfPtuZ
>>認定死亡という言葉も知らない情弱乙、例え死んでいなくても一定期間帰ってこなければ死んだものと扱われるし
だから発見されてない以上生きていたとか妄想としかいえない。後秀吉が認定死亡行ったなどという根拠もなし
>>戸籍や個人情報が確たる現代でも、認定死亡扱いされた人間がヒョッコリ帰ってきたり別の場所で生きていたりするのがままある。
んで信長が生きていた根拠は?
>>信長の死体や首級を誰も確認できていない以上、信長が死んだかどうかなんて確証や自信も一切ないし、
光秀も秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠も死んだといってるし皆死んだものとして行動してるしその後発見されてないんだから死んだと考えるのが普通
>>事実秀吉は信長の仏事(葬式)に際して信長の木像を代用している。
だからなんだ?
>>つか信長の首級や死体が見つかりませんでした、なんて本当に信長が明智勢に殺されていたらまずありえないからな
殺されていたからこそ皆信長亡き者として葬儀行ったり織田家の後継問題で清洲会議開いたり織田家を秀吉がのっとったり信長の子の領土にいちゃもんつけて攻め込んだりしただけ
つうか黒こげになったら首級なんてみつかるわけがない
>>多聞院日記や晴豊記では本能寺の変の発生時刻を「暁4時」「早天」としていることから早朝に事変があったことは明白なのに太陽が昇った日中の捜索で首を見つけられないとか
どうありえないのか不明。死体を埋めさせたのかもしれないしこげたものをバラバラにして家臣が葬ったのかもしれないしいくらでも妄想できるわけで。
>>当事者の明智軍が見つけられないのに余所者が適当に見つけて死体持ち出しとかもっと無理だし
身内とか小姓とかがが持ち出せばいいだけだろ
>>普通の死体じゃ放火で燃えたくらいで判別不可能になるくらい黒こげにならない。
なぜならないのか不明。人は脂肪分が多い分火力が強ければすぐ燃えるし燃えにくけりゃ油でもかけりゃいいだけ
>>書状で「信長打ち果たし」なんて書いてる光秀が信長の首を市中に晒さないとも思えないし
光秀は謀反人だから晒されただけ。当の謀反起こした光秀が信長を晒せる筋目なんぞない
>>実はどこかで生きてました、とか言われても否定できる根拠を出せない。あくまでどれも推測、当事者同士ですら推測。
そんなもん史料にない以上妄想だろアホ。皆死んだものとして行動してるわアホ
>>もともと信長は御歳49だし当時ならとっくに長生きできる年齢じゃないから生き延びてても数ヶ月数年で天寿を全うしたのかもな。
根拠なし。もっと長生きしてる人間なんていくらでもいるし病気だったという史料もどこにもなくただ光秀に殺されただけ。

154:名無し曰く、
13/02/25 17:03:23.71 iC2Ksub2
>>後半部分は完全に妄想だな。火力が強ければ普通に判別不可能に黒こげになる。火葬場とかと同じ
>>なぜならないのか不明。人は脂肪分が多い分火力が強ければすぐ燃えるし燃えにくけりゃ油でもかけりゃいいだけ
>>つうか黒こげになったら首級なんてみつかるわけがない
>>そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね

やっぱおまえバカだったんだなwwwwww放火による焼死と火葬場の御炊き上げを一緒にするなよw
火葬場の御炊き上げで灰になるのは、現代の技術と火葬場の職員の火加減調整でできる代物、
信長の遺体がきっちり燃え尽きるまで近習が生きてられるわけないし、本能寺は適当に放火してるんだから温度調節もできるわけがないw
ちなみに人間の体が焼かれて黒こげになり判別不可能になるのは、俗に言う「完全炭化」と言われるものだが
現代でもこれが観測されるのは原子爆弾や核施設での熱傷くらいで、普通の放火レベルだとまず起こりえないんだがなw

>>どうありえないのか不明。死体を埋めさせたのかもしれないしこげたものをバラバラにして家臣が葬ったのかもしれないしいくらでも妄想できるわけで。
>>身内とか小姓とかがが持ち出せばいいだけだろ
>>本能寺なんて小規模拠点を十重ハ十重に囲まれて逃げ切れるわけがない

根拠なしの妄想乙。小姓や身内が逃げられるくらいなら信長も逃げられる。
そもそも明智軍は信長の首級死体が見つからないのに近江に転進している。

>>光秀が哀れんで晒さなかっただけ。信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。

根拠なし。当時の戦争で勝った側が討ち取った首級を晒さない、確認しないなんてまずありえないし、
光秀の場合信長の首を晒せなかった事が結果的に負けにつながってるのだから致命傷レベル。
おまえの妄想のために光秀もおセンチな性分にさせられるんだから可哀想なもんだなw

>>そもそも自殺だろうが他殺だろうが光秀の謀反襲撃によって信長は死んだんだから殺されたのと同じ
>>普通に脱出不可能な包囲に追い込んで逃げられるわけないし皆死んだと扱ってる

明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が
信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実

有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実。
結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は
自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。

155:名無し曰く、
13/02/25 17:16:38.57 iC2Ksub2
>>>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく
>>信長を織田家当主として贈り物おくったり 拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
>>それは関係なし。北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
>>その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ

信長に貢物送るのはご機嫌取るためだし信忠は明智や秀吉を傘下に加えて別所松永の討伐も行っている
信長はあくまで内政作業や調整をしているだけにすぎない。つか信長が諸将を率いて敵を倒すなんて
戦国大名の基礎中の基礎を天正十年には全くやっていないし、信長自身が織田家の当主信忠に権力移譲させまくってる。
つか方面軍に指示を出すとか天正十年段階では信長の指示がほとんどなくなるし、当の信忠に命令違反されまくっているが。

>>そんなもん史料にない以上妄想だろアホ。皆死んだものとして行動してるわアホ
>>んで信長が生きていた根拠は?
>>だからなんだ?

まず信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ

信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。

つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。

156:名無し曰く、
13/02/25 17:17:23.75 iC2Ksub2
秀吉葬儀→秀吉主導の信長葬儀

157:名無し曰く、
13/02/25 18:21:33.93 +OPfPtuZ
>>放火による焼死と火葬場の御炊き上げを一緒にするな火葬場の御炊き上げで灰になるのは、現代の技術と火葬場の職員の火加減調整でできる代物、
現代のような炊き上げでなくても人を燃やすくらい楽勝。現代でも火事で死ぬ人くら一杯いるしな
>>信長の遺体がきっちり燃え尽きるまで近習が生きてられるわけないし
近習が信長の放火地点から離れればいいだけだし近習が生きているかどうかなんて関係なし。近習が死んでも信長が燃え尽きれば問題ない
>>本能寺は適当に放火してるんだから温度調節もできるわけがないw
適当に放火した根拠なし。適当でも人が燃えるくらい楽勝。火事でも人は死ぬしな
>>ちなみに人間の体が焼かれて黒こげになり判別不可能になるのは、俗に言う「完全炭化」と言われるものだが
>>現代でもこれが観測されるのは原子爆弾や核施設での熱傷くらいで、普通の放火レベルだとまず起こりえないんだが
現代でも火事で死ぬ人くらいいるし近習が信長の体を切ってバラバラにして油でもかけて燃やせば楽勝。死んで顔がわからなくなれば光秀側としても晒す価値などないしな
大体DNA判定の技術の進んだ現代とそんなもんない中世の死体判定を一緒くたにするとかアホかと
>>根拠なしの妄想乙。
いや、そもそもお前が諸資料で死んだことになっており、その後の登場もない信長が死体がないとかいう理由で生きてるとか主張する妄想への反論なんでまずお前の妄想からして根拠なしなので
妄想に対して反論するなら妄想で十分
>>小姓や身内が逃げられるくらいなら信長も逃げられる。
身内や小姓は直接的に狙われている張本人でもないし信長ほど執拗に追撃くるはずもないので根拠なし
>>そもそも明智軍は信長の首級死体が見つからないのに近江に転進している。
そりゃ信長が火の中で確実に死んだと思ったからじゃね。変起こして本能寺で信長襲ったのに信長死んでなかったら光秀側として意味ないしな。
実際光秀もほかの連中も死んだ事自体にけちつけてるアホはいないし
>>根拠なし。当時の戦争で勝った側が討ち取った首級を晒さない、確認しないなんてまずありえないし、
いくらでもあるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手
滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>光秀の場合信長の首を晒せなかった事が結果的に負けにつながってるのだから致命傷レベル。
信長の首を晒せないことと負けがどう繋がっているのが意味不明。
>>おまえの妄想のために光秀もおセンチな性分にさせられるんだから可哀想なもんだなw
意味不明。光秀は信長を殺したけど信長の死体が出てこなかっただけ。
>>明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
なんで嘘なんだよアホ。普通に考えて本能寺なんてちっぽけな拠点を大軍で取り巻いたら逃げ切れるわけないし光秀も秀吉も柴田も家忠も家康も小早川も毛利も公家も信長は死んだと書いたり
死んだものとして織田家の後継を決めたり行動してるのに死んでないわけないだろアホ
>>事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が信長の首級や死体に関して誰1人
そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね。それか光秀が哀れんで晒さなかっただけ。光秀の場合は謀反人だから世にさらし者にするのは当たり前だし
信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。
>>有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?

158:名無し曰く、
13/02/25 18:22:18.61 j/iKRPHw
誰ぞ読んでくれるとおもってるんだろうな

159:名無し曰く、
13/02/25 18:36:02.57 +OPfPtuZ
>>そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実。
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるから
彼らが逃げられたからといって信長が逃げ切れる根拠には全くならない
>>結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。
根拠なし。ちなみにその価値観とやらはどの史料or論文でどう信長が明らかにしてる価値観なんだ?本能寺なんて小規模拠点を十重ハ十重に囲まれて逃げ切れるわけがない
>>信長に貢物送るのはご機嫌取るためだし
お前のいうように信忠が実権持ってるなら信忠に貢物すればいいだけ
>>信忠は明智や秀吉を傘下に加えて別所松永の討伐も行っている
>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
>>信長はあくまで内政作業や調整をしているだけにすぎない。つか信長が諸将を率いて敵を倒すなんて戦国大名の基礎中の基礎を天正十年には全くやっていないし
>>144-145のようにやりまくってるし武田攻めでも中国征伐でも援軍に行こうとしてた
>>信長自身が織田家の当主信忠に権力移譲させまくってる。
全然してないわけだが。>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>つか方面軍に指示を出すとか天正十年段階では信長の指示がほとんどなくなるし、当の信忠に命令違反されまくっているが。
>>144-145のようにやりまくってる
>>まず信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」 また他の史料でも信長の死と光秀の謀反・本能寺襲撃は繋げて書かれているため
光秀の襲撃により信長は死んだ(殺された)といえる
光秀以外にも秀吉は変を知ってかけつけてるし葬儀もやったりしてるしほかの連中も信長を捜索したとか生きていたとか言ってる気配は全くなく死んだ物として歴史は動いている

160:名無し曰く、
13/02/25 18:36:44.39 +OPfPtuZ
>>ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
やけこげてなくなったんじゃね。普通に生きてたら目撃証言とか生きてるらしい史料があがるはずだし当時の人間が皆生きてるなどとデタラメ書いてるの秀吉の中川宛書状だけだろ
>>つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
そもそも公家や小早川や輝元はともかく秀吉やら柴田やら家忠やら家康やらにどうやって光秀のふかしが伝わるんだよアホ。そんな事伝えている根拠資料はないどころかそんな事したら
討伐に来るタイミングが速まり自分の危険が増えるだけだろ
>>確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ
根拠なし。現場にいあわせた光秀近習の本城すら死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
>>見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。
でも光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
そりゃ皆死んだといっており生きている根拠も姿もなく本能寺なんて小規模拠点を大軍で囲まれて生きられるわけないので死んだと考えるのが普通
>>それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
光秀が公家はまだしも家康や家忠や秀吉なんかに殺害を伝えてどうすんだよアホ。史料ないどうこうのレベルでなく自殺行為としかいえんわw
普通に考えて本能寺みたいな小さな拠点を大軍で取り巻いて逃げられるわけないのだから死んだと判断して討ち果たしたと書いただけ。
そもそも信長が生きてたら光秀側としたらとんでもない事になり本能寺出兵の目的も灰燼と化すのだからもっと必死に捜索している
単に光秀からみて確実に死んでると判断できる状況だからそれをしなかっただけ
>>諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
信長が生きていれば風聞やら姿やらが見つからないわけがない。死の直前記まで国割やら何やら自分で決めようとしまくったり武田を晒しものにしたり
自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない

161:名無し曰く、
13/02/25 18:38:25.75 +OPfPtuZ
>>ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
やけこげてなくなったんじゃね。普通に生きてたら目撃証言とか生きてるらしい史料があがるはずだし当時の人間が皆生きてるなどとデタラメ書いてるの秀吉の中川宛書状だけだろ
>>つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
そもそも公家や小早川や輝元はともかく秀吉やら柴田やら家忠やら家康やらにどうやって光秀のふかしが伝わるんだよアホ。そんな事伝えている根拠資料はないどころかそんな事したら
討伐に来るタイミングが速まり自分の危険が増えるだけだろ
>>確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ
根拠なし。現場にいあわせた光秀近習の本城すら死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
>>見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。
でも光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
そりゃ皆死んだといっており生きている根拠も姿もなく本能寺なんて小規模拠点を大軍で囲まれて生きられるわけないので死んだと考えるのが普通
>>それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
光秀が公家はまだしも家康や家忠や秀吉なんかに殺害を伝えてどうすんだよアホ。史料ないどうこうのレベルでなく自殺行為としかいえんわw
普通に考えて本能寺みたいな小さな拠点を大軍で取り巻いて逃げられるわけないのだから死んだと判断して討ち果たしたと書いただけ。
そもそも信長が生きてたら光秀側としたらとんでもない事になり本能寺出兵の目的も灰燼と化すのだからもっと必死に捜索している
単に光秀からみて確実に死んでると判断できる状況だからそれをしなかっただけ
>>諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
信長が生きていれば風聞やら姿やらが見つからないわけがない。死の直前記まで国割やら何やら自分で決めようとしまくったり武田を晒しものにしたり
自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない

162:名無し曰く、
13/02/25 18:52:09.42 iC2Ksub2
バカすぎわろたwwwww

>>現代のような炊き上げでなくても人を燃やすくらい楽勝。現代でも火事で死ぬ人くら一杯いるしな

火事で死ぬのは一酸化炭素中毒だバーカwwww中毒死だから黒くならねーし
むしろ肌がピンクになったままだから死班で焼死か中毒死か判別できるわけがないw

結局>>154>>155も否定できる根拠なし

信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ

信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。

つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。

信長が明智軍に殺されたというのなら最低でも
・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった

これくらいは証明してもらわないと、俺も暇人じゃないんでおまえの妄想と教養教室にはつきあってらんねーわw

163:名無し曰く、
13/02/25 18:52:48.56 iC2Ksub2
死班で焼死か中毒死か判別できるわけがないw→死班で焼死か中毒死か判別できるのにw

164:名無し曰く、
13/02/25 19:38:33.63 +OPfPtuZ
>>162
相当無知だな
人間の体なんて水分がかなり大部分でありまた油分も多いから火力が強ければ簡単に焼死可能
URLリンク(www7a.biglobe.ne.jp)
大体中毒が直接的原因でもその後燃えて消えてしまえば体はぐしゃぐしゃになるのだから直接的死因は関係なし
>>結局>>154>>155も否定できる根拠なし
>>157-161で論破されています
>>信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
そもそもこれが根拠なし。光秀が公家に一々「俺が信長殺したよ」なんて伝えている資料なんてあったか?
家康家忠秀吉なんかも光秀側から情報もらうわけねぇしw
>>ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
常識的に考えて本能寺みたいな小さな拠点を大軍で囲って火を放ったら逃げる隙間などなくなり逃げたらすぐ捕まるだけだから死んだとしかいえないし
実際光秀も公家も家忠も秀吉も家康も柴田も毛利も小早川もそう考えて書状に死んだと書いたり死んだものとして織田家の後継問題に着手したりして進めてる
>>つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
そもそも公家や小早川や輝元はともかく秀吉やら柴田やら家忠やら家康やらにどうやって光秀のふかしが伝わるんだよアホ。そんな事伝えている根拠資料はないどころかそんな事したら
討伐に来るタイミングが速まり自分の危険が増えるだけだろ
>>確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ
根拠なし。現場にいあわせた光秀近習の本城すら死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
でも光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
そりゃ皆死んだといっており生きている根拠も姿もなく本能寺なんて小規模拠点を大軍で囲まれて生きられるわけないので死んだと考えるのが普通
>>それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を 諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
根拠なし。信長が生きていれば風聞やら姿やらが見つからないわけがない。死の直前記まで国割やら何やら自分で決めようとしまくったり武田を晒しものにしたり
自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない
>>・明智軍の誰かが信長を討ち取った
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>・信長の首級や死体が市中に晒された
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>・信長の首級や死体に言及する史料があった
その後登場しなくなり皆死んだとしており政治も信長亡き後の後継問題に移っているのだから
信長死んでないとかただの妄想。そもそも生きてるなら登場してる気配くらいあるだろうし

165:名無し曰く、
13/02/25 20:30:08.47 iC2Ksub2
>>165
>>人間の体なんて水分がかなり大部分でありまた油分も多いから火力が強ければ簡単に焼死可能
>>大体中毒が直接的原因でもその後燃えて消えてしまえば体はぐしゃぐしゃになるのだから直接的死因は関係なし

自分で引用したサイトも読めないアホwww
おまえが言っている完全炭化は火災による死者の死因4つのうちの1つ「焼死」の中の
熱傷深度(Ⅰ度、浅いⅡ度、深いⅡ度、Ⅲ度、Ⅳ度の5つ)の中で最も深刻なⅣ度のみ。
つまりおまえは本能寺で適当に放火された本能寺の変で、現代の火事の死因でも超稀な「完全炭化」を
信長が引いたと荒唐無稽なことを言っていることに気づかないアホwww

ちなみにおまえは
>>でもその後燃えて消えてしまえば体はぐしゃぐしゃになるのだから

とアホな妄想をほざいているが、熱傷で死んだ場合筋肉が凝固作用を起こして
ぐちゃぐちゃになるどころかきっちり固まってしまうのも知らないアホw

URLリンク(www3.kmu.ac.jp)

多少グロイがこの焼死体の一部を解剖するサイトなんかでも
黒こげの部分はごくわずかで肌色の部分がところどころ見えているのがわかる。
おまえが言うような「真っ黒こげになって、姿かたちもわからない」なんてのは夢物語
現代でも滅多に起こらない症例が適当に放火した本能寺で起こるわけがないw

166:名無し曰く、
13/02/25 20:52:13.41 iC2Ksub2
>>>>157-161で論破されています
>>そもそもこれが根拠なし。光秀が公家に一々「俺が信長殺したよ」なんて伝えている資料なんてあったか?
>>家康家忠秀吉なんかも光秀側から情報もらうわけねぇしw
>> また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
>>他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており
>>皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要

別に全員ではないが明智光秀が通告したケースもあるし、各々が早合点している場合も当然ある。
ただし本能寺の変に際して、後者の場合はあくまで伝聞にすぎない。毛利小早川に至っては
「織田信孝も戦死した」「光秀だけでなく勝家も加担」と適当な情報をリークしまくってる。
一次史料を経る前に伝聞や通告などの二次史料に使われる情報が早い段階で流れている。

で、織田信長が死んでいたとする最も有力な情報根拠が、変当時本能寺を囲んでいた明智光秀や明智軍であるが、
光秀含む明智勢は信長の首級も死体も発見していないし、「織田信長が死んだ」という確たる情報を掴んでいない。

つまるところ、「本能寺の変で織田信長は死んだ」という大前提が
信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで

・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった

信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も
有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。

>>いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、
>>関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で
>>殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる

市中に晒さなくても、明智光秀や明智軍が信長の首級を確認するのは当然だし、
当時の光秀はそれすらしていないわけだがそれはどう説明するんだ?
つか戦場で死んだ場合その死を見届ける敵や味方が必ずいるわけだが信長の場合はそれすらいない
勝家の場合は同様に考慮する必要があるな。

>>その後登場しなくなり皆死んだとしており政治も信長亡き後の後継問題に移っているのだから
>>信長死んでないとかただの妄想。そもそも生きてるなら登場してる気配くらいあるだろうし
>>自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない

織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。


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