12/03/10 00:41:08.96 rm7ERUFd
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
714:名無し曰く、
12/03/10 00:41:47.08 rm7ERUFd
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、 此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで、悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
715:名無し曰く、
12/03/10 00:42:37.43 rm7ERUFd
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を西美濃国衆の安藤と竹中に半年にわたり占領される(龍興とその寵臣東美濃衆追放劇)
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
六角義秀が主導する義昭上洛戦を反故にした信長を龍興が「臆して天下の笑い者になった」と嘲笑し
逆キレした信長による河野島の織田敗戦劇により三好の反撃を受け義昭は若狭へ逃亡。
この信長ビビリ事件により上洛計画が崩壊し六角義秀が失脚してしまい
三好の後援を受ける六角義治による国人弾圧の結果、観音寺騒動が勃発し六角氏が弱体化。
ちなみに六角義治に対抗して六角重臣達が奉じる六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書六角重臣三雲宛て和田惟政披露状)
その話に西美濃の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功しているなど上洛成功までのシナリオは六角義秀によるもの。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたし、上洛成功も信長独力でのことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(義秀の死に絶句して義治らが帰国するのを憂慮してる信長の書状があり、
この後に浅井長政も離反しているのが確認できる)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに義秀の後継者の義堯も信玄西上戦に合わせて信長から離反。
716:名無し曰く、
12/03/10 00:44:18.27 rm7ERUFd
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない
何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
717:名無し曰く、
12/03/10 00:45:18.81 Nd0+Isyd
バーカ
718:名無し曰く、
12/03/10 00:48:40.70 V9VB96AG
関東厨subは池沼
719:名無し曰く、
12/03/10 01:28:30.08 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全国 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4井伊直政 1571年 0,4万石 23万石 50倍
5本多忠勝 1540年 0,4万石 21万石 49倍
6榊原康正 1532年? 0.3万石 18万石 48倍
7松平康国 1583年 0.3万石 15万石 47倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
720:名無し曰く、
12/03/10 01:31:10.03 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最大勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
721:名無し曰く、
12/03/10 01:33:12.72 nBZK7lDJ
>>720
死亡時0万石になったとしても最大勢力圏は30万石なんじゃ?
722:名無し曰く、
12/03/10 01:37:21.56 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
723:名無し曰く、
12/03/10 01:44:21.45 rm7ERUFd
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると
信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として差し出し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎配下の蒲生の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で
北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし
伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと織田側は通報してる。
(弟を近江へ派遣するなど伊勢長島一揆を支援し長政と兵力融通していた日根野弘就に協力してた
北伊勢の自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
724:名無し曰く、
12/03/10 02:01:49.46 lUGVJVIJ
勢力拡大率なら隆信公のすごさは忘れられんだろ
725:名無し曰く、
12/03/10 02:18:28.84 mQpLfvTs
>>711
ぶっちゃけそんなんディベートの基本じゃなくて思考停止の基本でしかない
726:名無し曰く、
12/03/10 02:41:03.62 rm7ERUFd
織田厨はwikiしか読まない無知の上に妄想しかいえん馬鹿
死んでくれ
727:名無し曰く、
12/03/10 02:41:47.74 rm7ERUFd
織田厨死ね
728:名無し曰く、
12/03/10 02:42:43.23 rm7ERUFd
織田厨死ねクソカス
729:名無し曰く、
12/03/10 02:44:29.91 rm7ERUFd
織田厨の好きな武将は有名なだけの雑魚武将しかいない
織田厨の嫌いな武将は地味だけど実力のある地方大名や武将
730:名無し曰く、
12/03/10 02:45:19.75 rm7ERUFd
織田厨死ねカス
731:名無し曰く、
12/03/10 04:16:30.13 tF5ayZt8
わしが織田厨です
732:名無し曰く、
12/03/10 04:21:04.92 kWKdbcu2
いえいえわたしが織田厨です
733:名無し曰く、
12/03/10 05:06:52.42 oXpT2Dp6
いえいえ私が織田厨ですから斎藤新五すら過小に見えます
734:名無し曰く、
12/03/10 05:40:15.22 6ui7OJTf
登場すら出来ないのは確かに過小だな
735:名無し曰く、
12/03/10 05:56:24.01 HN51rm8P
北条氏繁 統72 武78 知66
謙信の関東侵攻軍を撃退した武将としては評価低すぎじゃね?
各+10でもいいと思うんだが
736:名無し曰く、
12/03/10 06:13:18.78 ujAHB/aP
過大親父に吸われてんだろ
737:名無し曰く、
12/03/10 07:54:34.07 pfgBs7Nt
>>725
ディベートに強いってそう言うことなんだけどな
738:名無し曰く、
12/03/10 08:16:42.09 XB/08lUy
そんなん日本でしか通用しないよ
それをディベートだと思ってるならびっくりだ
739:名無し曰く、
12/03/10 08:21:26.35 pz8kZ03V
もう信長は全能力MAXでいいよ
このスレ見てわかっただろ?
740:名無し曰く、
12/03/10 08:33:09.61 xPDJKrZv
昔、信長の野望にハマってる奴がいて、ソイツのあだ名を
信長って勝手に名付けて笑いの対象にしてたよw
741:名無し曰く、
12/03/10 11:03:35.43 rm7ERUFd
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
742:名無し曰く、
12/03/10 11:04:35.69 rm7ERUFd
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍w
743:名無し曰く、
12/03/10 11:06:01.81 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
744:名無し曰く、
12/03/10 11:06:29.24 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全国 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4井伊直政 1571年 0,4万石 23万石 50倍
5本多忠勝 1540年 0,4万石 21万石 49倍
6榊原康正 1532年? 0.3万石 18万石 48倍
7松平康国 1583年 0.3万石 15万石 47倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
745:名無し曰く、
12/03/10 11:06:48.60 pz8kZ03V
などと妄想し新作が出る度に発狂するだがであった
746:名無し曰く、
12/03/10 11:39:23.85 pfgBs7Nt
>>738
日本人じゃないのか?
俺はそのつもりで話してるんだけど
747:名無し曰く、
12/03/10 12:31:52.03 cp4wMVQQ
>>746
ディベートはそういうもんじゃないのは確か
748:名無し曰く、
12/03/10 12:33:10.39 cp4wMVQQ
上げちゃった
749:名無し曰く、
12/03/10 12:49:56.78 aUCA5LtF
信長叩いてる奴がいかに群像の影響受けてるかわかるな
創作と史実は違うんだよ
750:名無し曰く、
12/03/10 13:41:39.50 ubcz8260
信長が本能寺で自害した瞬間に織田家がなくなったわけじゃなかろうに
のちに滅んだのは武田家とかも同じなのに信長だけ最終勢力圏0にされてる理由が素人の俺にはさっぱりわからん
751:名無し曰く、
12/03/10 13:50:25.35 ZxY9vlYu
謙信がミュウツーってのはおかしい
752:名無し曰く、
12/03/10 14:11:25.28 rm7ERUFd
信長が死んだ途端、信長の家臣は織田家として機能せず皆好き勝手に行動しまくるだけ。
神戸北畠は分家であって織田とは別物。織田家ではない。秀信は幼すぎて実権なし。
現に織田武将達は信雄信孝秀信を当主として機能していないから実質織田家は信長の死と同時に崩壊。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
753:名無し曰く、
12/03/10 14:13:54.99 aUCA5LtF
↑これ全部嘘ですから本気にしないよう
残念ながらソースくさいのも捏造です
754:名無し曰く、
12/03/10 14:18:05.14 i0PfEUju
水谷蟠龍斎とかでてもこないだろ
755:名無し曰く、
12/03/10 14:22:42.47 rm7ERUFd
まともな学者が書いた書物も読んでない馬鹿無知織田厨にとっては嘘にみえるだけ
wikiとコーエー本しかソースなしだからな
756:名無し曰く、
12/03/10 14:30:04.81 rm7ERUFd
徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
北条氏康は過小
信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。
信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
家康、氏康>>>>>>>信長
757:名無し曰く、
12/03/10 14:30:46.67 rm7ERUFd
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50~60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50~60倍以上なら被害差も2500~3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50~60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
70 羽柴秀吉
758:名無し曰く、
12/03/10 14:31:51.80 rm7ERUFd
信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
759:名無し曰く、
12/03/10 14:34:25.07 rm7ERUFd
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。志賀の陣でも朝倉軍3万に織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
760:名無し曰く、
12/03/10 14:36:48.85 rm7ERUFd
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない
何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから