12/03/06 17:20:50.36 Kx0MCSxr
人口の概念はあった方がいいと思うんだけどな
658:名無し曰く、
12/03/06 17:24:37.44 kHqwui51
信望か名声システムを導入して京で大量獲得できるようにするしかないな
CIVみたいにNPC海賊が上陸してくるか、三国志みたいに蛮族が侵略してくるシステムでもいいけど
あれはあれで面倒だしな
659:名無し曰く、
12/03/06 17:41:24.80 kHqwui51
>>657
戦国期はそこまで大差ないからなあ
660:名無し曰く、
12/03/06 18:20:50.43 x07TClYt
>>659
差じゃなくて徴兵限度って意味だろ
甲信だけで300万とかアホかって思ってるよ
661:名無し曰く、
12/03/06 18:23:53.33 OCHErku6
おおよそは太閤検地の石高に基づけばいいんじゃないの?
662:名無し曰く、
12/03/06 18:53:05.86 OUZrTubM
※兵力の単位は人ではありません
663:名無し曰く、
12/03/06 23:01:11.22 1+Bz0qPe
(棒
664:名無し曰く、
12/03/08 13:00:15.37 CmJ0UXJp
>>653
瀬戸内以外では大隈から鹿児島に急襲ってのはあったな。300人程度だったと思うけど。
まぁ錦江湾も内海だからね。
当時は沿岸航法で風待ちに湊を使ったりするから、多くの軍船で遠隔地を急襲するなら
風待ち湊ごとにそこを管理する勢力と誼を通じとかなくちゃならない。
そんな面倒くさいことまでして急襲するメリットがあるかどうか。風待ちすると軍船が来た
情報も伝わるから急襲にはならないしね。
急襲ではないけど大浦為信みたいに少人数での遠隔地との外交とかなら結構あるけど。
665:名無し曰く、
12/03/08 20:36:34.56 4cuNxljp
なんかいつもより画面がくらいな
666:名無し曰く、
12/03/08 20:37:18.04 4cuNxljp
誤爆すいません
667:名無し曰く、
12/03/08 21:17:27.43 Ki1tp6xk
統率過小武将3傑
水野勝成、山田長政、乃美宗勝
他に誰かいる?
668:名無し曰く、
12/03/08 21:19:46.78 iYF3+M7V
富田将監
669:名無し曰く、
12/03/08 23:42:43.81 8VVAMWEE
過大武将一覧(統率とは限らない)
蒲生氏郷 福島正則 加藤清正 細川藤孝 藤堂高虎 小早川隆景 安国寺恵慶 島津義久
北条綱成 武田勝頼 大谷吉継 斉藤朝信 真田幸村 長野業正 北条氏邦 佐竹義宣
過小武将一覧
蜂谷頼隆 金森長近 河尻秀隆 生駒親正 依田信蕃 金上盛備
葦名盛氏 結城晴朝 壬生義雄 水野勝成 柴田勝政 佐久間盛政
原田直正 赤井直正 須田満親 南条元続 宇喜多忠家 日根野弘就
朝比奈信置 岡部元信 岡部正綱 及見宗勝 木造具政 相馬盛胤
関盛信 那須佑晴 宮部継閏 北条氏直 池田輝政
670:名無し曰く、
12/03/09 18:46:12.89 lB4tq7UM
及見宗勝じゃなくて乃美な。「の」と「うつくしい」だ
671:名無し曰く、
12/03/09 20:05:41.45 YcOnl2bU
武田・上杉の過大評価は数百年の重みがあるからなw
武田遺臣団が徳川に取り込まれたことで信玄時代が称揚
↓
それが気にいらない徳川内の連中が謙信称揚。
で、双方が軍学とかでっち上げ競争してw
(所詮、空論軍学だから孫子みたいに今でも実践的な研究がされる、とかなくて消えたも同然だが)
だが、ゲームや漫画でちょっと出た程度の連中が過大とかはなぁ……。
前田慶次なんか過大の極みだろう。
672:名無し曰く、
12/03/09 20:25:59.80 YhLFV8gG
つまり島左近も過大だな
673:名無し曰く、
12/03/09 20:27:48.41 yh27nv6q
くみかわしつづけた
674:名無し曰く、
12/03/09 20:28:49.22 jJmLV7Ps
榊原康政
知勇兼備とか智将と呼ばれる人を猪武者にするのはやめてくれ
675:名無し曰く、
12/03/09 20:44:50.91 ynTUCjDI
>>674
もうそういう二つ名から能力値決めようとするのやめようぜ
676:名無し曰く、
12/03/09 20:46:50.27 +rCn8RSn
剣豪系の馬鹿の面子を考えれば
前田慶次郎利益はそんなに過剰でもない。
他の戦場の勇者も 評価されてるわけだから。
数値で差がつく事自体が意味がない。
つまり このスレ自体が不要
677:名無し曰く、
12/03/09 20:50:22.71 YcOnl2bU
森長可はあんだけ戦場で(戦場以外でもだけどw)大暴れしたのに、二流武将の下だぞ……
678:名無し曰く、
12/03/09 21:38:08.33 UipRqFXG
>>670
武田上杉が過大なら織田雑魚軍団なんて鼻糞レベルだろ
一時的に大勢力だっただけなのにあたかも天下人みたいに徳川時代の講談ででっちあげたから
糞過大評価されただけだろカス
679:名無し曰く、
12/03/09 21:40:41.28 UipRqFXG
>>670
毎回痴呆症のように同じ妄想してんじゃねえよカス
680:名無し曰く、
12/03/09 21:41:19.43 UipRqFXG
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
681:名無し曰く、
12/03/09 21:42:05.75 UipRqFXG
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名~2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
682:名無し曰く、
12/03/09 21:42:40.31 UipRqFXG
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
683:名無し曰く、
12/03/09 21:43:10.58 UipRqFXG
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50~60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50~60倍以上なら被害差も2500~3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50~60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
70 羽柴秀吉
684:名無し曰く、
12/03/09 21:44:52.01 UipRqFXG
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000~17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2~3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
685:名無し曰く、
12/03/09 21:47:33.77 UipRqFXG
織田信忠と蒲生氏郷が過大
前者はわずか3000そこそこで長篠敗戦後士気がガタガタな秋山勢に大苦戦し
半年かけても騙し討ちでしか勝てず武田攻めでは50~60倍の圧倒的大軍で
仁科勢相手に絶対的に数が物をいう城外戦でもって仁科より多い損害だして一門の1人討ち取られた雑魚
後者は圧倒的大軍で寡兵の滝川や信雄に大敗して醜態晒しまくった雑魚
二人とも全能力マイナス20くらいが妥当
686:名無し曰く、
12/03/09 21:48:55.97 UipRqFXG
神流川では上野衆が奮戦して氏邦を退けたにもかかわらず
実戦経験がかなり乏しい北条氏直に完膚なきまでにやられた滝川
加賀平定に四年も費やし手取川でボロクソに負け内乱で相当疲弊し
新発田の乱が起き蘆名も介入してる状態の上杉も滅ぼせない柴田
信玄にボロクソに負ける家康に大軍で挑んで緒戦で負け長久手でボロ負けし
本多忠勝500に足止め喰らいその後の攻防も終始苦戦する秀吉
家康にあっけなく討ち取られる森、池田
国内が疲弊してる上に勢力的にさほど大きくなく多方面に敵がいる上杉に
魚津を取り返され越中に釘付けにされる佐々
本能寺前ですら寡兵の上杉にボコボコにされて長沼奪われ、本能寺後寡兵の上杉に信濃から追いされる森
甲斐の一揆で殺される川尻
わずか3万石程度の赤井に敗戦した光秀
こんな雑魚が織田家トップクラス(笑)
687:名無し曰く、
12/03/09 21:49:31.17 UipRqFXG
徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
北条氏康は過小
信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。
信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
家康、氏康>>>>>>>信長
688:名無し曰く、
12/03/09 21:54:43.40 mqVQy7YL
そうだよね、そんな信忠に滅ぼされた武田家なんてもっと雑魚でいいよね
689:名無し曰く、
12/03/09 21:59:20.46 +kroTmb/
いよいよポケモンが発売間近だ
市があの扱いで長政がどうなるかとか色々不安はあるがお前らちゃんと過大過小の判定してくれよ
690:名無し曰く、
12/03/09 22:04:26.17 yh27nv6q
ポケモンだけでなく武将にまで性能差があるんなら判定してやってもいい
691:名無し曰く、
12/03/09 22:08:04.29 +kroTmb/
>>690
公式見たところによると武将も進化するらしいから安心してくれ
692:名無し曰く、
12/03/09 22:10:52.46 UipRqFXG
信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
693:名無し曰く、
12/03/09 22:13:25.04 UipRqFXG
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない
何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
694:名無し曰く、
12/03/09 22:15:16.87 UipRqFXG
政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
695:名無し曰く、
12/03/09 22:16:18.38 UipRqFXG
幼君斎藤龍興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
696:名無し曰く、
12/03/09 22:22:17.55 UipRqFXG
島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
697:名無し曰く、
12/03/09 22:23:57.23 UipRqFXG
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた
加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど
翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし
岐阜陥落後に佐藤は用済みとばかりに隠居を強制され
加治田城は養子名目で送り込まれた
斎藤新五郎により乗っ取られちゃうし。
稲葉山を信長が奪ったあと
戦乱で失われてしまった名物の壺を義龍妻に
絶対に隠し持ってるだろ!さし出せと執拗にいびる信長に
無いものは無い・・・と義龍妻がもう自害するより仕方ないと決意したが、
信長に冷遇されている面目丸潰れの濃姫や
その親類、一族、美濃有力国人たち17人が結束し
失業していた佐藤紀伊守も参加し、
これ以上嫌がらせを続けるなら美濃国衆共みんなで自害するといって
信長に抵抗した話が言継日記に佐藤紀伊守から聞いた話として出ている。
朝廷の高位にいる殿上人の言継に佐藤紀伊守が
さびしい身の上についてグチって憤懣をブチまけているほど信長は冷酷。
そもそもその後の佐藤忠能は史料上では行方不明扱いで抹消されてる・・・
三次史料の堂洞軍記によると伊深村でひっそり野たれ死んだみたいだが。
ちなみに伊深村は織田軍の佐藤信則の領地だから
完全に領地を奪われて追放されてる…可哀想に。
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
斎藤って野戦では信長に全勝無敗なんだよな。
明らかに稲葉山城乗っ取り以降の
家臣離反が滅亡原因だよな。
西美濃衆と東美濃衆の対立を調整できる人材がいなかったのが痛い。
龍興の寵愛が東美濃衆に偏っていたのと、
西美濃衆が六角勢の協調しての
近江浅井衆との戦役で負担過大だったこともあるんだろう。
佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、
義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。
義景が六角出身の養子で、
六角義秀死去後に
義景が花押を六角氏様に変更してるし。
六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、
義景の後見人として振舞っていたり。
698:名無し曰く、
12/03/09 22:40:39.13 UipRqFXG
徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
武田信玄はその家康を2.5倍の兵力比とはいえ
壊滅的被害を与えて滅亡寸前に追い込んだから統率や知略は150くらいが妥当
699:名無し曰く、
12/03/09 22:41:45.71 UipRqFXG
雑魚織田武将以外が朝鮮出兵の采配振るってたら半島を瞬殺してたのは間違いない
朝鮮人も明も運が良かったな
信長は勝頼や義景、龍興みたいな馬鹿や子供が相手だから助かっただけ
700:名無し曰く、
12/03/09 22:45:03.37 UipRqFXG
伝令が遅れただけかもしれないし
どちらにしても大軍と陣地に無謀に突っ込んで大打撃を受けた状態でも
長篠から無傷で退却してる部隊が存在するから
砦どうこうは大して重要ではない
勝頼の発狂で皆が死んだだけ
701:名無し曰く、
12/03/09 22:48:37.11 ynTUCjDI
ダラダラ長くて読む気しねえ。3行以内で人の肺腑を衝くような鮮やかなレスをしろや
702:名無し曰く、
12/03/09 22:53:15.42 UipRqFXG
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
703:名無し曰く、
12/03/09 22:53:59.39 X+joEwuz
今日未明から漫画に噛みつき夜はゲームに噛みつく
キチガイとして生きていくのは大変だねえ
704:名無し曰く、
12/03/09 23:10:28.43 yTi9v2hx
2chは運営、削除人がちゃんと仕事してたらこんなキチガイ荒らしとっとと永久アク禁で平和になってたのにねえ。
警察からの犯罪書き込み削除要請も無視して放置してたから強制捜査受けてやがんの。
705:名無し曰く、
12/03/09 23:17:41.79 UipRqFXG
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
小笠原貞慶 1582年 0万石 13万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全土 ∞
4徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
5結城晴朝 1558年 1万石 23万石 23倍
6佐竹義重 1570年 8万石 150万石 17倍
7上杉景勝 1578年 8万石 120万石 15倍
8菅沼定利 1562年 1万石 13万石 13倍
9武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
10上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
706:名無し曰く、
12/03/09 23:19:41.99 UipRqFXG
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。志賀の陣でも朝倉軍3万に織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
707:名無し曰く、
12/03/09 23:25:08.89 UipRqFXG
禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視して籠城をした教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候
5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候
然者予(蓮如)当寺に残り
可相持思立如此候
天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も
然処内輪逆意之賊
しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押)
一色駿河守殿
真木嶋玄蕃頭殿
加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。
神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人
関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。
織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。
鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。
708:名無し曰く、
12/03/09 23:27:15.69 UipRqFXG
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
709:名無し曰く、
12/03/09 23:42:03.20 yTi9v2hx
2chはさ、運営は無能の役立たずってことが明らかになったんだから
荒らされたら荒らし返したらいいんだよ。
お前ら思う存分荒らしまくれ!
710:名無し曰く、
12/03/10 00:34:02.58 V9VB96AG
関東厨subはゲイ
711:名無し曰く、
12/03/10 00:37:02.48 pfgBs7Nt
>>701
それが目的だから
即ち読む気無くさせて、スルーされたのを批判できないと認識して、天狗になる
ディベートの基本だ
この手は相手にしないのが一番
712:名無し曰く、
12/03/10 00:39:56.70 rm7ERUFd
織田厨は長文を読む読解力も知識もない馬鹿
織田厨のレスの答えは全てその長文の中に含まれているというだけ
結局反論できず長文の内容どおり織田はカスだっただけ
戦国一過大評価
713:名無し曰く、
12/03/10 00:41:08.96 rm7ERUFd
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
714:名無し曰く、
12/03/10 00:41:47.08 rm7ERUFd
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、 此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで、悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
715:名無し曰く、
12/03/10 00:42:37.43 rm7ERUFd
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を西美濃国衆の安藤と竹中に半年にわたり占領される(龍興とその寵臣東美濃衆追放劇)
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
六角義秀が主導する義昭上洛戦を反故にした信長を龍興が「臆して天下の笑い者になった」と嘲笑し
逆キレした信長による河野島の織田敗戦劇により三好の反撃を受け義昭は若狭へ逃亡。
この信長ビビリ事件により上洛計画が崩壊し六角義秀が失脚してしまい
三好の後援を受ける六角義治による国人弾圧の結果、観音寺騒動が勃発し六角氏が弱体化。
ちなみに六角義治に対抗して六角重臣達が奉じる六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書六角重臣三雲宛て和田惟政披露状)
その話に西美濃の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功しているなど上洛成功までのシナリオは六角義秀によるもの。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたし、上洛成功も信長独力でのことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(義秀の死に絶句して義治らが帰国するのを憂慮してる信長の書状があり、
この後に浅井長政も離反しているのが確認できる)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに義秀の後継者の義堯も信玄西上戦に合わせて信長から離反。
716:名無し曰く、
12/03/10 00:44:18.27 rm7ERUFd
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない
何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
717:名無し曰く、
12/03/10 00:45:18.81 Nd0+Isyd
バーカ
718:名無し曰く、
12/03/10 00:48:40.70 V9VB96AG
関東厨subは池沼
719:名無し曰く、
12/03/10 01:28:30.08 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全国 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4井伊直政 1571年 0,4万石 23万石 50倍
5本多忠勝 1540年 0,4万石 21万石 49倍
6榊原康正 1532年? 0.3万石 18万石 48倍
7松平康国 1583年 0.3万石 15万石 47倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
720:名無し曰く、
12/03/10 01:31:10.03 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最大勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
721:名無し曰く、
12/03/10 01:33:12.72 nBZK7lDJ
>>720
死亡時0万石になったとしても最大勢力圏は30万石なんじゃ?
722:名無し曰く、
12/03/10 01:37:21.56 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
723:名無し曰く、
12/03/10 01:44:21.45 rm7ERUFd
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると
信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として差し出し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎配下の蒲生の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で
北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし
伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと織田側は通報してる。
(弟を近江へ派遣するなど伊勢長島一揆を支援し長政と兵力融通していた日根野弘就に協力してた
北伊勢の自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
724:名無し曰く、
12/03/10 02:01:49.46 lUGVJVIJ
勢力拡大率なら隆信公のすごさは忘れられんだろ
725:名無し曰く、
12/03/10 02:18:28.84 mQpLfvTs
>>711
ぶっちゃけそんなんディベートの基本じゃなくて思考停止の基本でしかない
726:名無し曰く、
12/03/10 02:41:03.62 rm7ERUFd
織田厨はwikiしか読まない無知の上に妄想しかいえん馬鹿
死んでくれ
727:名無し曰く、
12/03/10 02:41:47.74 rm7ERUFd
織田厨死ね
728:名無し曰く、
12/03/10 02:42:43.23 rm7ERUFd
織田厨死ねクソカス
729:名無し曰く、
12/03/10 02:44:29.91 rm7ERUFd
織田厨の好きな武将は有名なだけの雑魚武将しかいない
織田厨の嫌いな武将は地味だけど実力のある地方大名や武将
730:名無し曰く、
12/03/10 02:45:19.75 rm7ERUFd
織田厨死ねカス
731:名無し曰く、
12/03/10 04:16:30.13 tF5ayZt8
わしが織田厨です
732:名無し曰く、
12/03/10 04:21:04.92 kWKdbcu2
いえいえわたしが織田厨です
733:名無し曰く、
12/03/10 05:06:52.42 oXpT2Dp6
いえいえ私が織田厨ですから斎藤新五すら過小に見えます
734:名無し曰く、
12/03/10 05:40:15.22 6ui7OJTf
登場すら出来ないのは確かに過小だな
735:名無し曰く、
12/03/10 05:56:24.01 HN51rm8P
北条氏繁 統72 武78 知66
謙信の関東侵攻軍を撃退した武将としては評価低すぎじゃね?
各+10でもいいと思うんだが
736:名無し曰く、
12/03/10 06:13:18.78 ujAHB/aP
過大親父に吸われてんだろ
737:名無し曰く、
12/03/10 07:54:34.07 pfgBs7Nt
>>725
ディベートに強いってそう言うことなんだけどな
738:名無し曰く、
12/03/10 08:16:42.09 XB/08lUy
そんなん日本でしか通用しないよ
それをディベートだと思ってるならびっくりだ
739:名無し曰く、
12/03/10 08:21:26.35 pz8kZ03V
もう信長は全能力MAXでいいよ
このスレ見てわかっただろ?
740:名無し曰く、
12/03/10 08:33:09.61 xPDJKrZv
昔、信長の野望にハマってる奴がいて、ソイツのあだ名を
信長って勝手に名付けて笑いの対象にしてたよw
741:名無し曰く、
12/03/10 11:03:35.43 rm7ERUFd
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
742:名無し曰く、
12/03/10 11:04:35.69 rm7ERUFd
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍w
743:名無し曰く、
12/03/10 11:06:01.81 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
744:名無し曰く、
12/03/10 11:06:29.24 rm7ERUFd
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全国 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4井伊直政 1571年 0,4万石 23万石 50倍
5本多忠勝 1540年 0,4万石 21万石 49倍
6榊原康正 1532年? 0.3万石 18万石 48倍
7松平康国 1583年 0.3万石 15万石 47倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
745:名無し曰く、
12/03/10 11:06:48.60 pz8kZ03V
などと妄想し新作が出る度に発狂するだがであった
746:名無し曰く、
12/03/10 11:39:23.85 pfgBs7Nt
>>738
日本人じゃないのか?
俺はそのつもりで話してるんだけど
747:名無し曰く、
12/03/10 12:31:52.03 cp4wMVQQ
>>746
ディベートはそういうもんじゃないのは確か
748:名無し曰く、
12/03/10 12:33:10.39 cp4wMVQQ
上げちゃった
749:名無し曰く、
12/03/10 12:49:56.78 aUCA5LtF
信長叩いてる奴がいかに群像の影響受けてるかわかるな
創作と史実は違うんだよ
750:名無し曰く、
12/03/10 13:41:39.50 ubcz8260
信長が本能寺で自害した瞬間に織田家がなくなったわけじゃなかろうに
のちに滅んだのは武田家とかも同じなのに信長だけ最終勢力圏0にされてる理由が素人の俺にはさっぱりわからん
751:名無し曰く、
12/03/10 13:50:25.35 ZxY9vlYu
謙信がミュウツーってのはおかしい
752:名無し曰く、
12/03/10 14:11:25.28 rm7ERUFd
信長が死んだ途端、信長の家臣は織田家として機能せず皆好き勝手に行動しまくるだけ。
神戸北畠は分家であって織田とは別物。織田家ではない。秀信は幼すぎて実権なし。
現に織田武将達は信雄信孝秀信を当主として機能していないから実質織田家は信長の死と同時に崩壊。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
753:名無し曰く、
12/03/10 14:13:54.99 aUCA5LtF
↑これ全部嘘ですから本気にしないよう
残念ながらソースくさいのも捏造です
754:名無し曰く、
12/03/10 14:18:05.14 i0PfEUju
水谷蟠龍斎とかでてもこないだろ
755:名無し曰く、
12/03/10 14:22:42.47 rm7ERUFd
まともな学者が書いた書物も読んでない馬鹿無知織田厨にとっては嘘にみえるだけ
wikiとコーエー本しかソースなしだからな
756:名無し曰く、
12/03/10 14:30:04.81 rm7ERUFd
徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
北条氏康は過小
信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。
信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
家康、氏康>>>>>>>信長
757:名無し曰く、
12/03/10 14:30:46.67 rm7ERUFd
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50~60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50~60倍以上なら被害差も2500~3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50~60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
70 羽柴秀吉
758:名無し曰く、
12/03/10 14:31:51.80 rm7ERUFd
信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
759:名無し曰く、
12/03/10 14:34:25.07 rm7ERUFd
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。志賀の陣でも朝倉軍3万に織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
760:名無し曰く、
12/03/10 14:36:48.85 rm7ERUFd
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない
何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから