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>>25>>46>>386>>451>>492>>497ほか鉱山・工場労務管理関連
常磐炭鉱の人々から慕われた山代吉宗とは?(2007年8月29日(水)「しんぶん赤旗」)
URLリンク(www.jcp.or.jp)
〈問い〉 福島県出身で戦前、獄死した山代吉宗という人はどんな人ですか?(福島・一読者)
・・・終戦の年1945年1月14日、44歳で広島刑務所で獄死した山代吉宗(やましろ・よしむね)も、そんな一人です。
吉宗は1901年、福島県石城郡磐崎村(現・いわき市)の炭鉱に生まれ、明治大学を卒業後、父の後を継いで小野田坑の飯場頭(かしら)
になります。相次ぐ坑内事故と低賃金にあえぐ炭鉱労働者をみて、吉宗は、子どもたちを集めての少年会や青年労働者たちの勉強会をして、
労働者の生活を守るために奔走、27年の健康保険組合の委員選挙で労働者の支持を集めて当選します。しかし、会社は吉宗を解雇し、
労働者に温情的だった山代飯場を解散させようとしました。これを契機に、労働者は「山代解雇撤回、飯場制度廃止、賃金値上げ」を掲げ、
争議日数35日間、争議参加1039人、解雇者15人、検束300余人となった「磐城・入山炭鉱大争議」を起こします。争議は、
右派幹部の妥協で終わり、吉宗は炭鉱を追われます。
吉宗は同年9月、普通選挙による最初の県議選に労農党から立候補(県当局の策謀で立候補を無効とされ、得票もヤミにほうむられた)、
翌28年3月には伊達郡内の製糸場争議を支援中に逮捕されます。その後、茨城県に移り、日立製作所や日立鉱山で活動。29年3月ころ、
日本共産党に入党しました。しかし、同年4月16日に吉宗は検挙され、秋田刑務所に6年間、投獄されます。35年、出獄した吉宗は、
京浜工業地帯に行き、春日正一らとともに、「労働雑誌」の普及や男女の青年労働者たちの啓蒙(けいもう)活動をします。
40年5月、また検挙され、広島刑務所に送られます。寒い独房のなかで、極度の衰弱により死去する4日前、妻の山代巴(『荷車の歌』
などで知られる作家)にあてて、「もうすぐ春です。元気で、元気で春を待ちましょう」と手紙を書いています。(つづく)