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日本労働組合総同盟(戦後の総同盟) Wikipediaより
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日本労働組合総同盟(にほんろうどうくみあいそうどうめい)は、かつて存在した日本の労働組合のナショナルセンター。略称は総同盟(そうどうめい)。
<概要>
戦前の流れ
戦前の労働運動は、鈴木文治が明治時代末期に結成した友愛会を発展的に解消した日本労働総同盟(総同盟、略称は同じ)が中心になり推進された。
友愛の名が示す通り、キリスト教社会主義者が主導しており、共産主義には批判的であった。政治的立場は、安部磯雄を指導者とする社会大衆党に近かった。
戦時体制が強化されると、労働組合も社会主義中間派が近衛文麿の新体制運動に賛同しながら戦争協力体制に組み込まれる。1939年に産業報国会に組み込
まれた左派の全労にひきづられるかたちで、1940年に大日本産業報国会に合流した。
成立からの流れ
1945年に第二次世界大戦が終結し、労働運動が復活する。その流れの中で、日本労働総同盟(戦前の総同盟)の後身として、1946年に日本労働組合総同盟が
結成される。結成当時の勢力は、組合員数が約86万人。
総同盟は当初から労使協調路線をとり、共産主義色の強い全日本産業別労働組合会議(産別会議)と対立。だが1947年の二・一ゼネスト後、産別会議などと
共に全国労働組合連絡協議会(全労連)を組織した。しかし、GHQが占領政策を転換して反共産主義色を強めると、総同盟と産別会議の対立が再び激化し、
1948年に全労連を脱退する。
1950年、組織内の主流左派が主導となって日本労働組合総評議会(総評)の結成に参加、これに反発した右派と分裂する。このため、総同盟は右派色をさらに
強めることとなった。
1954年、総評からの脱退組と共に全日本労働組合会議(全労会議)を組織、さらに紆余曲折を経て全日本労働総同盟(同盟)を結成する。
<政策>
1.労使協調
2.反共産主義、対産別会議