12/08/03 04:26:34.72 OUyBbQVy
この映画は、普通に見ていると母親の「花」が主役に見える。と言うか、そうとしか見えない。
だから、見ている間は花に感情移入する。花が嬉しければ喜び、花が悲しめば悲しみ、花がピンチに陥ればハラハラする。
ところが、そうやって見ていたら最後にどんでん返しが待っていた。
この映画の主役は実は子供たちで、母親は脇役に過ぎず、しかも主役の子供たちを苦しめる悪役でもあったのだ。
そうして最後は、子供たちに逆襲されて、こらしめられる役なのである。
確かに、タイトルは『おおかみこどもの雨と雪』と子供たちの名前になっているし、
ナレーションも娘の「雪」が担当しているから、子供たちが主役であることは明に暗に示されていた。
だけど、そんなことはすっかり意識の外にあった。だってなにしろ、
この映画は最初から最後まで脇役の花が出ずっぱりなのである。
だけど、そうではなかった。花は、この映画の主人公である子供たちを苦しめる、脇役であり悪役だったのだ。
母親がどうやって子供たちを苦しめるかというと、それはダブルバインド(ダブルスタンダード)でである。
花は、ダブルバインドの使い手なのだ。
子供たちに「差別はいけない」と言っておきながら、
同時に「あなたたちは差別される存在だから、正体を隠しておきなさい」と命ずるのだ。
それで、子供たちは苦しめられる。差別はいいのか悪いのか?
母は「いけない」と言うけど、だったらなぜ自分たちは正体を隠さなければならないのか?
この「悪いことをしているわけではないのにこそこそしなければならない」という状況下に置かれて、
子供たちは板挟みになって苦しめられるのである。
また、自分たちを苦しめているのが、他ならぬ最愛の母であるということにも、
あるいは彼女が悪意からではなく善意によって自分たちを苦しめているということにも、子供たちは苦しめられる。
母親が自分たちを苦しめている元凶だということは薄々分かっているけれども、
それに面と向かって反抗したり、そこから逃れることができづらいからだ。
だから、いつまで経っても苦しみの中で過ごすことになり、やがてストレスは際限なく高まってくる。
しかし、物語の最後、二人の子供はどちらもその苦しみから抜け出すことに成功する。
最愛の母親ではあるけれども、その言いつけに背いたり、あるいはそこから逃れ、
離れて暮らすことを決めるのだ。そうして、ダブルバインドの拘束から逃れることに成功するのである。
これが子供たちの視点で描かれていれば、
母親のダブルバインドに苦しめられていることをハラハラドキドキしながら見守り、
最後にそこから逃れて自由を勝ち得た時、「良かった良かった」とカタルシスを味わえたのに。
それで、なぜそうなっていないのかを考えたのだが、
おそらくは、二兎を追ったからではないかと思う。
つまり、母親も、主人公のように描こうとしたのである。その過ちと成長をも、メインテーマとして描こうとしたのだ。
しかしそれは、喩えていうならば『スター・ウォーズ』のエピソード4から6をルークではなく
ダース・ベイダーを主人公として描くようなものだ。
その戦いと敗北を、ルーク視点ではなくダース・ベイダー視点で描くようなものだ。
やっぱりちょっと無理がある。
また、花のキャラクターやビジュアルが主役然としていることも、混乱に拍車をかけた理由の一つだろう。
確かに「善意がかえって子供たちを苦しめている」という難しいテーマであるため、
悪役然とは描きにくいところがあるのだけれど、
しかしそれでもややこしいのは、母親がいつも笑顔でいることをモットーとしているところだ。
父の教えにより、花はいつも笑顔でいる。
しかしそれゆえ、物語の最後に子供たちに逃げられ自らの過ちに気づいた時にも笑顔でいるから、
自分が悪かったと反省してそれを受け入れているのか、本当は反省などしていなくて
何が悪かったのか分からないけど仕方なく笑顔でいるだけなのか
(つまり人間的な成長を果たしているのかどうか)、今一つはっきりしないのだ。
だから、この映画を見終わった後でも、実は子供たちが主役であったこととか、
彼らが母親のダブルバインドに苦しめられていたという構図に気づけない人は多いと思う。