12/08/02 01:41:29.34 ZRDFEQ4n
サマウォは「荒唐無稽な漫画映画」のひとつだからケチをつけようと
思えばいくらでも粗は見つかる。でもそこにしか目が行かない人は
やっぱりこの作品を誤読してるんじゃないかと思う。
前スレにも書いたけど、サマウォは観客が主人公に自分を投影して
その活躍を楽しむタイプの作品ではなく、逆にそれを禁じた作品なんだな。
だから主人公の活躍を同じ視線で楽しむカタルシスは得られないし、
観客は「健二の側にいるけど健二ではない」者、つまり陣内一族に
近い立場で彼の行動を追わされることになる。
たとえば後半の健二が急に気骨のある人間になるのは健二が作中で
成長したからではなく、もともとそういう人間だったからであって、
観客は陣内一族と一緒にそれを「発見」させられるわけね。
観客はもちろん健二が最後に活躍することを予期しているだろうけど
終盤まで正体を知らされずに来た主人公がいきなり葵の印籠を出しても
老人の正体を知っていた人のようなカタルシスは得られない。
主人公と一体化してヒーローになった気分を味わえることを
期待してサマウォを見ても楽しめないわけ。
一般的な活劇作品ではクライマックスにおける主人公の活躍を
観客に存分に楽しませるために主人公を一度挫折させることが多い。
挫折を克服する過程を見せることで成長した主人公が最後に見せる
活躍を主人公と同じ視線で楽しめるように。でも30分で挫折して
30分でそれを克服する主人公を見てもポップコーンを食べながら
イスに座っている観客まで成長できるわけじゃない。だから
細田さんは主人公と観客をあえて切り離したのでしょう。
映画館の外でも効果が残る魔法を作りだすために。