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笹川良一
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A級戦犯容疑と「巣鴨日記」
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12月1日に逮捕命令が出て、12月11日に巣鴨プリズンに入獄したが、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後連合国の主要国であるアメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース)[8]、
1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
上記のように、笹川は戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。
また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。
そのため連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された[9]。