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溝下秀男が死んだ。
工藤組と草野一家を和解、統合した1987年には、年長であり、かつては草野高明の親分であった工藤玄治は引退しており、草野高明が総裁となった。
旧工藤組系では、田中組が構成員数、資金力ともに群を抜いていたが、若頭には旧草野一家系極政組長の溝下が就任した。
溝下が組長をしていた極政組は、工藤組と草野一家が抗争を繰り返していた頃、工藤組の若頭(田中組の組長)であった田中新太郎を射殺した組織である。
田中新太郎のあとを継いだ田中組組長の野村悟は、溝下から次期の総裁への就任を約束されて、溝下の風下に甘んじることになるが、田中組の内部には、極政組への遺恨が脈々と引き継がれていたのだ。
溝下が全国的な人望を集めていたため、存命中に野村悟は動けなかったが、溝下が死ぬと野村悟工藤会四代目は、すぐに行動を起こす。
溝下が死に、野村が四代目を継いだ頃、当時の極政組の組長は溝下子飼いで、八幡西区萩原1に住む江藤允政であった。
江藤は、知人の傷害事件に絡んで、被害者を脅迫して処罰を望まない内容の上申書を作らせたとして強要罪に問われ、懲役2年の服役中であった。
ところが、野村は、江藤が服役中に極政組長を若頭の今田雄二に代える工作をし、江藤を極政組から追放した。
さらに、極政組と同じく旧草野一家の主力組織であった篭縞組の元組長で溝下の警備隊長であった徳本敏が殺害され、溝下の舎弟で篠塚組の組長であった篠塚一雄も射殺されている。
旧草野一家系の徳永組、氷室組、園田組は解散させられた。
こうして、工藤会の内部から旧草野一家の実力者が次々と消えていった。