世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察at WHIS
世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察 - 暇つぶし2ch465:世界@名無史さん
11/06/15 12:53:25.76 0
>>462
>明軍の反攻までに間に合わず、沿岸部に撤退することになった

妄想で話を進めるなよw まず落ち着いてこれを見ろ。
慶長の役で南原城を攻略した日本軍左軍が全羅道井邑で軍議を開き、その結果を連署状として秀吉に送っている。

「一、先度全州より御使い衆へ申し上げ候如く、青国へ相働き、国中過半発向仕り、それより赤国のうち、相残るこほりこほり、
おのおの割府致し、発向仕る半ばに御座候、隙明き申し次第、御仕置きの城々、御普請に取り掛かり申すべき分に候事」
・・・全州会議で決まった通り、赤国(全羅道)と青国(忠清道)の掃討が終わり次第、仕置きの城々の普請に取り掛かるよ。

「一、御仕置きの城々、おのおの惣談相定まりし申し候、其れに就き、小西摂津守城の儀、最前はしろ国の内と御諚なられ候へども
、赤国順天郡内、所柄見合わせ候て、取り出し申すべく候事」
・・・小西行長の仕置きの城については全羅道の順天郡内に築く予定だよ。

言うまでもないけど、この時の日本軍は朝鮮水軍を殲滅して制海権を握り、南原・黄石山の両城を落として全州に無血入城するなど破竹の勢いの状態
つまり「明軍の反攻」を受ける前から、すでに仕置きの城は沿岸部に構築する方針だったということ
>>455で出した書状にある、秀吉の「海辺に付いて然るべき所を見計らい、城々普請丈夫の申し付くべく候」
という方針が慶長の役でも継続されていたことがわかる。なので>>420の書状にある「仕置きの城々」も
沿岸部の城を指していると解釈するのが自然。沿岸部への撤退とそこでの城郭郡構築は当初からの予定であり
「内陸部に仕置きの城を築け」なんて指示が出されたことは一度もないし、あるというのなら是非資料を見せていただきたいw


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