▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼at SOCIOLOGY
▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼ - 暇つぶし2ch256:名無しさん@社会人
11/03/07 20:41:46.21
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。それと同時に、
小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社会性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、
もちろん無記名ではあるが、リスト・アップされる義務を負ふことになる。社会秩序の隠密な再編成に同意する
ことになるのである。
このやうな同意は本来ならば、きびしい倫理的決断である筈だが、小説の読者は、同意によつて何ら倫理的責任を
負はないですむといふ特典を持つてゐる。その点は芝居の観客も同様だが、小説が芝居とちがふ点は、もし単なる
享受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、
芝居よりもずつと長時間にわたつて、読者の人生を支配するので、(あらゆる時間芸術のうちで、長篇小説は
いちばん人生経験によく似たものを与へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、
つひに自分の人生に対するのと同じ倫理的関係を、小説に対して結ぶにいたることがないではない。

三島由紀夫「小説とは何か 一」より

257:名無しさん@社会人
11/03/07 20:44:23.48
世間一般では、小説家こそ人生と密着してゐるといふ迷信が、いかにひろく行はれてゐることだらう。何よりも
それを怖れて小説家になつた彼であるのに! 私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、
新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
人生に対する好奇心などといふものが、人生を一心不乱に生きてゐる最中にめつたに生れないものであることは、
われわれの経験上の事実であり、しかもこの種の関心は人生との「関係」を暗示すると共に、人生における
「関係」の忌避をも意味するのである。小説家は、自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する人種で
あつて、一方を等閑視することを許さないから、従つて人生に密着することができない。人生を生きるとは、
いづれにしろ、一方に目をつぶることなのである。

三島由紀夫「小説とは何か 二」より

258:名無しさん@社会人
11/03/07 20:48:33.09
一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、
打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことは
できない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに
描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみで
あらう。神は熱帯の泥沼に居すわつた河馬のやうだ。
「お前の母親は泥沼の中でしか落着けないのよ」
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その「本心」こそ、バタイユのいはゆる「エロティシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの
遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か 七」より

259:名無しさん@社会人
11/03/09 13:09:53.79
バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られてゐるが、作家はしばしばこの二種の現実を
混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも
本質的な方法論であつた。(中略)
私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の
自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、
いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづける
ことができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい
選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて
「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、
私は到底耐へられない。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

260:名無しさん@社会人
11/03/09 13:11:02.48
「暁の寺」を脱稿したときの私のいひしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであつた。何を大袈裟なと
言はれるだらうが、人は自分の感覚的真実を否定することはできない。すなはち、「暁の寺」の完成によつて、
それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の
現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私に
とつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、
二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、
私の選択でもない。作品の完成といふものはさういふものである。それがオートマティックに、一方の現実を
「廃棄」させるのであり、それは作品が残るために必須の残酷な手続である。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

261:名無しさん@社会人
11/03/09 13:12:17.08
私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することが
ないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。この完結は、狐につままれたやうな
出来事だつた。「何を大袈裟な」と人々の言ふ声が再びきこえる。作家の精神生活といふものは世界大に大袈裟な
ものである。
(中略)
しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて
最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することが
イヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、
一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。唯一ののこされた自由は、その
作品の「作者」と呼ばれることなのであらうか。あたかも縁もゆかりもない人からたのまれて、義理でその人の子の
名付け親になるやうに。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

262:名無しさん@社会人
11/03/09 13:13:33.84
(中略)
吉田松陰は、高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、
「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」
と書いてゐる。
この説に従へば、この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家はさうあるべきだが、
心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、肉体が死んでも、作品が残る。
心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことであらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、
なほ心が生きてゐたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、
生きてゐても死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら
魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪はれた人生もあるまい。
「何を大袈裟な」と笑ふ声が三度きこえる。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

263:名無しさん@社会人
11/03/09 19:50:17.54
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあつた。
「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けてをり、「赤と黒」から
「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の数は却つて少ないくらゐである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、といふ思惑が
働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条の
ヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらゐなら
警察の権道的発言に同調したはうがまだしもましである。
さて、犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合つてゐる。
なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でてゐなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を
超越したところにのみ求められるからである。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

264:名無しさん@社会人
11/03/09 19:51:30.95
法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかつて、人間性といふ地獄の劫火の上の、餅焼きの網の比喩を
用ひたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになつた餅であり、芸術は適度に
狐いろに焼けた喰べごろの餅である、と説いたことがあつた。いづれにしても、地獄の劫火の焦げ跡なしに、
芸術は成立しない。
(中略)
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。きはめて孤立した、
きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の
染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたと
いふ記事を読んだとき、戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

265:名無しさん@社会人
11/03/10 00:03:59.71
文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。ヘルダーリンの狂気も、ジェラアル・ド・
ネルヴァルの狂気も、ニイチェの狂気も、ふしぎに昂進するほど、一方では極度に孤立した知性の、澄明な高度の
登攀(とうはん)のありさまを見せた。何か酸素が欠乏して常人なら高山病にかかるに決まつてゐる高度でも、
平気で耐へられるやうな力を、(ほんの短かい期間ではあるが)、狂気は与へるらしいのである。
(中略)
分裂病の進行が、往々あるやうに、殺人や自殺に終つても、それを厳密な意味でクライマックスと呼ぶことは
できないであらう。こちら側から見れば、危険な反社会性の現実化であり、一つの社会事件としてのクライマックスで
あつても、向う側から見れば、さらに進行する経過の上の偶発的事件であるにすぎないからである。
(中略)
しかるに、狂気は、その進行過程において、つひに必然的クライマックスを持たない。必然的クライマックスとは
「物化」「自己物質化」であつて、常人の側からは「死」と同じことである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

266:名無しさん@社会人
11/03/10 00:05:09.14
狂人の自殺は二重の意味を持つ。すなはち、自己物質化を狂気が達成しうるのに、さらに死によつてその達成を
助けることだからである。一方、狂人の殺人は、その反社会性によつて社会とは一見対立関係に立つやうだけれども、
法も亦責任能力を免除してゐるやうに、厳密な一対一の対立関係は成立しない。「きちがひに刃物」とはよく
言つたもので、狂人に殺された人間は、社会の用語によれば「事故死」なのである。
このやうな偶然性の体現、自己の行為を偶然化されること、そのこと自体が、自己物質化の進行と浸潤を意味する。
なぜなら、偶然とは「物」の特質だからである。これを宗教の用語で言へば、偶然とは「神」の本質であらう。
すなはち人間的必然を超えたところにあらはれる現象は、神の領域に他ならないからである。
(中略)
狂気と正常な社会生活との並行関係乃至離反のプロセスだけが、小説の題材になりうる。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

267:名無しさん@社会人
11/03/10 00:06:23.30
狂気の困つた特色は、その本質が反社会性にあるのではなくて、狂気の論理自体にしか本質がないのにもかかはらず、
狂人の幻想には社会生活の残滓が、(もつとも低俗なものをも含めて)、横溢してゐるといふことなのである。
このことは、前回の犯罪の問題と比べてみるとよくわかるだらう。犯罪的素因を先天性のものと考へるロムブロゾオ
などの諸説はともかく、犯罪はその本質を反社会性に持つてゐる。なぜなら犯罪を正当化する最高の論理は、
政治的犯罪と非政治的犯罪とにかかはらす、われわれが自己の社会を正当化する論理と同じ次元に立つてゐる
からである。このことが、小説の題材として、古来、狂気よりも犯罪が親しまれてきた一因であらう。
われわれが殺人を許容しない社会に住んでゐることは、一種の社会契約によつて、われわれ自身の殺人をも
許容されないものにしてしまつてゐるわけだが、狂気はあくまで病気の一種であり、人間の自由意志とは関係が
ないから、いかに狂気が危険でも、われわれ自身が発狂することは許されてゐるのである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

268:名無しさん@社会人
11/03/10 00:07:40.29
これは一見ヘンな論理だと思はれるであらう。しかしここには小説の大切な問題がひそんでゐる。
なぜなら、小説も芸術の一種である以上、主題の選択、題材の選択、用語の選択、あらゆるものに、作者の意志が
かかり、精神がかかり、肉体がかかつてゐる。われわれはそれを不可測の神の意志、あるひは狂気の偶然の意志に
委ねるわけには行かないのである。なるほどソクラテスはその哲学をデエモンの霊感によつて得た。しかし、
ソクラテスは狂気には陥らなかつた。
選択それ自体が自由意志の問題を抱へ込んでをり、小説は、「自由意志」といふ信仰の極限的実験であつたとも
いへる。この社会の要求する社会契約も、倫理的制約も、すべて自由意志自身の責任において乗り超え踏み
破らうとする仮構であつた。
ひとたびここへ狂気の問題を導入すると、この根本的なメカニズムにひびが入つてしまふのである。自由意志が
否定されたところで、どうして小説世界の構築性といふ、自由意志の精華のやうなものが具現されるであらうか。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

269:名無しさん@社会人
11/03/10 00:08:58.04
小説とは何か、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。小説自体が無限定の鵺(ぬえ)のやうな
ジャンルであり、ペトロニウスの昔から「雑俎(サテュリコン)」そのものであつたのだから、それはほとんど、
人間とは何か、世界とは何か、を問ふに等しい場所に連れて行かれる。そこまで行けば「小説とは何か」を
問ふことが、すなはち小説の主題、いや小説そのものになるのであり、プルウストの「失はれし時を求めて」は、
そのやうな作品だつた。概して近代の産物である小説の諸傑作は、ほとんど「小説とは何か」の、自他への
問ひかけであつた、と云つても過言ではない。小説はかくて、永久に、世界観と方法論との間でさまよひつづける
ジャンルなのである。その彷徨とその懐疑とを失つた小説は、厳密な意味で小説と呼ぶべきでないかもしれない。
そこで小説とは、小説について考へつづける人間が、小説とは何かを模索する作業だ、と云つてしまへば、
技術的定義に偏して、重要な何ものかを逸してしまふ、といふところに、又、小説の怪物性がある。

三島由紀夫「小説とは何か 十四」より

270:名無しさん@社会人
11/03/10 12:38:16.89
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の
第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に
自分の姿なのであらうか? 私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるに
ちがひない。さうとしか考へやうがないのである。
自意識といふものは全然男性的なもので、そこには精神と肉体の乖離が前提とされ、精神が肉体を離れてフラフラと
浮かれ出し、その浮かれ出した地点から、自分の肉体を客観的に眺め、又、自分の精神を以て自分の精神自体をも、
客観的に眺めるといふ離れ業を演じるのが、すなはち自意識である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

271:名無しさん@社会人
11/03/10 12:39:30.80
もちろんこんな離れ業は、いつも巧く行くと限つたわけではないが、自意識とは、さういふ離れ業をともすると
演じようとする、精神の不可思議な衝動である、と定義してよからう。
しかるに、女の精神は、子宮が引きとどめる力によつて、男の精神ほど自由にふらふらと肉体を離れることが
できない。男には上部構造である頭脳と、下部構造である生殖器とが、全然関係のない別行動をとることも
できるけれど、女にはどうも、古代の爬虫類のやうに、頭と下半身と両方に脳があるらしいのである。脳と言つて
わるければ、女の精神を支配する中枢は二つあつて、一つは頭脳であり、もう一つは子宮であつて、この二つが
実に密接に共同して働くから、精神はいつも、この二つに両方から引つぱられてゐて、肉体から離脱できない。
ヒストリーの語源が子宮にあることは周知のとほりである。
簡単に言ふと、男性の精神構造は、一つの中心点をもつ円であり、女性の精神構造は二つの中心点をもつ楕円で
あるらしい。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

272:名無しさん@社会人
11/03/10 12:40:24.56
女の精神はかくて存在に帰着し、男の精神はともすると非在に帰着するが、自意識とは、非在に関する精神の、
もつとも生粋な、もつとも非在的なものである。
女の精神とて、もちろん自意識に似たものは持つことができる。しかし、自意識が自意識を生み、みるみる無数の
合せ鏡の生む鏡像のやうに増殖する、自意識の自己生殖は、決して女性のものではない。自意識が彼女を本当に
喰ひつぶすまでに行かないならば、それは結局、「擬自意識」の部類に属するだらう。女のもつ「自意識めいたもの」
には、肉体(子宮)といふ安全弁がついてをり、男の自意識のやうに、ブレーキが利かなくなつて暴走して、
崖から真逆様に顛落するといふやうな事態は起りえない。(さういふとき、奇妙にも、その男の自意識の暴走車は、
彼自身の自意識の海の中へ顛落するのであるが……)。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

273:名無しさん@社会人
11/03/10 12:41:30.85
ここではじめて、私には、自然が、女に対して、彼女の本当の顔を見せまい見せまいとしてゐるその配慮の理由が
呑み込めるやうに思ふ。それは明らかに生物学的要請であり、女の妊娠の責務を守るためであらう。
鏡とあんなにしよつちゆう深く附合つてゐる女が、みんな鏡の中へ投身して破滅してしまつたのでは、人類は
絶滅してしまふ。そこへ行くと、妊娠のつとめを持たない男はさうなつても一向構はない。水鏡に映るおのが
美貌に惚れ抜いて、水へ身を投げて死ぬナルシスが、決して女でなくて、男であることは、ギリシア人の知恵と
言へるであらう。ナルシスは、どうしても男でなければならないのである。
かくて、女たちが、鏡の中に見つめてゐる像が、彼女自身の姿でないことは、ほぼ確実になつた。自分でないものの
姿に見とれることを、ナルシシズムと呼ぶのは、言葉の誤用である。私見によれば、女にはナルシシズムは
存在しえないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

274:名無しさん@社会人
11/03/10 23:20:27.41
女が自分のことを語るときの拙劣さには定評があり、どんなにえらい女でも、彼女が自分の正確な像をつかんで
ゐると感じられることはめつたにない。どんなに苦労し、どんなに世間智を積んでも、女は自分のこととなると
概して盲目で、不可避の愚かしさが、背中の糸屑みたいに必ずついてゐる。そして知的な女ほど、己惚れも
ひがみも病的にひどくなつてゐる場合が多い。彼女の理性にはえてして混濁したものがつきまとひ、論理は決して
泉の水のやうに明らかに澄み渡ることがない。どうしてであらうか? 私が女と議論することが死ぬほどきらひ
なのはそのためなのだ。
(中略)
精神が肉体から分離されなければ、そこに客観性といふものも生じえず、従つていかなる意味の自己批評も
生じえない。そして自己批評こそ、他に対する批評の唯一の基準であるから、そこには真の公正な批評が
成立しないことになる。女性の盲点はこのやうな自己批評の永遠の欠如であり、又、他に対する永遠の不公正な
批評癖である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

275:名無しさん@社会人
11/03/10 23:21:43.66
「A子さんつて、自分のバカさにどうしても気がついてゐないのね」
といふ批評が成立するためには、さういふ御本人が自分のバカさに気がついてゐなければならない。しかし女が、
「ええ、どうせ私はバカだわよ」
と言ふときには、彼女は決して自分のバカさをみとめてゐないのである。それは、すなはち、「あなたのやうな
不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ意味である。
「私つて目が小さいでせう」
と女に言はれて、
「ああ、小さいね」
と答へる男は、完全に嫌はれる。
もう少し思ひやりに富んだ男でも、同様に嫌はれる。それは、
「私つて鼻ペチャだから」
と言はれて、
「でも、とんがつた鼻より魅力があるよ」
と答へるやうな男である。
私がかうして徐々に、女性の内面的な顔から外面的な顔へと移行してゆくところに、注意していただきたい。
思ふにそこには確たる境界線がないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

276:名無しさん@社会人
11/03/10 23:23:18.45
「私つてどうせバカだわよ」といふ言葉と「私つてどうせ不美人よ」といふ言葉との間の懸隔を、たとへば、
男の同じやうな発言、「俺はどうせバカなのさ」と「俺は二枚目ぢやないからな」といふ二つの言葉の間の懸隔と
比べてみれば、前者の懸隔はほとんどゼロに等しくなるであらう。つまり、男の発言には、自嘲のなかに必ず
アイロニーと批評が含まれるのが通例で、それが自意識の表徴なのである。
さつきも言つたやうに、女が「どうせ私つてバカだわよ」といふ場合、「あなたのやうな不公正な目から見れば、
どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ風に、判断の主体が故意にぼやかされてゐる。判断の主体及び
基準が自分にあるかのやうに一応装はれてゐるが、実は、相手に半ば判断の主体が預けられてゐる。男が「俺は
どうせバカなのさ」といふときは、自分の判断によつて自分のバカさ加減が痛烈に意識されてゐるのと同時に、
自らがその判断の主体であつて、他人の判断はゆるさないといふ強烈な自負がある。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

277:名無しさん@社会人
11/03/10 23:24:22.63
次に、女が「私つてどうせ不美人よ」といふ場合は、判断の主体が故意にぼかされてゐる点において、「私つて
どうせバカだわよ」といふ場合と、ほとんど径庭がないが、男が「俺は二枚目ぢやないからな」といふときには、
明らかに、判断の主体は、痛恨を以て、遠い遠い、見えざる第三者の手に全的に預けられてゐるのである。
なぜなら男は、人間の顔、容姿等の外観は、もともと社会的な価値であつて、他人の判断によつてしか評価されない
といふ苦い知恵を、(自意識の鍛練によつて)、夙(はや)くから自得してゐるからである。ここに男の、
劣等感や優越感の早い形成が見られるので、男は比較対照による客観的価値判断を早くから身につけてしまふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

278:名無しさん@社会人
11/03/10 23:25:37.40
もちろん男といへども、少女が最初の男に愛されてはじめて自分の美に目ざめるやうに、最初の女に愛されて
はじめて自分の魅力を知ることも多い。しかし、彼の内面性は、それによつて鼓舞され、あるひはそれによつて
歪められることがあつても、決して彼の外面性と一直線につながらないのである。
かくて、男が鏡を見てゐるとき、何を見てゐるかが明らかになる。すなはちそこに見てゐるものは、彼の顔、
彼の純粋な外面に他ならない。女のやうに、内面から外面へ、さらに、化粧によつて変容した第二の外面へ、
一つながりにつながる複雑なイマジネーションの複合としての顔ではない。彼は髭は剃るが、化粧をする必要はない。
このやうに、純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体は、純粋自意識として作用するとき、
そこにはじめてナルシシズムが、ナルシスの神話の恋が成立するのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

279:名無しさん@社会人
11/03/15 12:09:38.53
鏡はそもそも、客観に奉仕するものなのであらうか? それとも主観に奉仕するものなのであらうか?
世にはさまざまな鏡がある。純粋客観としての鏡は、自意識の鏡であり、男の鏡である。純粋主観としての鏡は、
自意識の欠如した鏡であり、女の鏡である。前者はナルシシズムの鏡であり、後者は、化粧のための、変容の
ための鏡である。
自分の外面が自分であるといふ発見は、まづ一種の社会的発見であつた。そこに映つてゐる像こそ、正しく
自分自身でありながら、自意識とは劃然と分離された純粋存在であるといふ発見が、ナルシスの恋の端緒であつた。
もし鏡像と精神との間に、このやうに隔然たる分離がないならば、鏡像と意識、外面と内面とは一つながりの
ものとなり、そこには容易に妥協が生れ、馴れ合ひが生れ、つひには不自然な化粧が必要となるであらう。
女の友である鏡とはこのやうなものであり、鏡は女にとつては本質的に「油断ならない友」であり、男にとつては、
「敵あるひは恋人」である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

280:名無しさん@社会人
11/03/15 12:10:54.13
鏡を敵として、一日中その顔を見ずにゐたければ、男にはそれも可能である。朝は、手さぐりで電気髭剃り器で
髭を剃り、鏡を見ずに顔を洗ひ、手さぐりでネクタイを締め、出勤の電車に乗ればよいのだ。
それではさういふ男が男らしい男かといへば、さうとも言ひきれないのである。自分の写真を見るのをきらひ、
鏡を見るのをきらひな男たちには、深いニューロティック(神経症的)な劣等感を持つた人間が多く、又その多くは、
別の知的優越感や社会的優越感で補償されてゐる。そしてこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな
反応を呈する場合が多い。鏡をきらふ男を、バンカラで豪傑肌の男と勘違ひすると、とんでもないまちがひに陥る。
彼らは、ただ、鏡を怖れてゐるのである。
もともと鏡は、純男性的世界の必需品であつた。むかしの海軍兵学校や機関学校には、階段の下に必ず大鏡があつて、
軍装の威儀を正すために用ひられた。ラフなプルオーヴァーのスウェーターをひつかぶるのとちがつて、端正な
軍装の、四角四面な外観を維持するためには、どうしても鏡が必要とされる。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

281:名無しさん@社会人
11/03/15 12:12:10.65
軍人の世界は、男性的外観が厳密に規定され、その外観によつて、内面の自意識を規正し、自意識の暴走を抑圧し、
以て、劃一化され単純化された自意識のエネルギーを、超自我(スーパー・エゴ)に従属せしめる世界である。
従つてそこは男にとつては、自意識の永遠の休暇が約束される世界なのだ。
しかし、外部から軍人の世界へあこがれる少年の心理には、明らかにナルシシズムが含まれてゐたことを、私は
戦時中の経験によつてよく知つてゐる。海軍士官の軍服と短剣にあこがれて、海軍兵学校へ入つた少年は数知れぬ
ほどをり、それによつて戦死した若者は、ナルシスの死を死んだのだつた。(中略)
そしてこの種の少年のナルシシズムは、英雄類型への同一化の傾向を強く持つてをり、ひいては彼自身が英雄と
なるための原動力となる。アレキサンダー大王は、少年時代から叙事詩中のアキレスにあこがれ、アキレスとの
同一化を策して、アレキサンダー大王その人になつたのであるが、彼のナルシシズムは後年まで色濃く残つてゐて、
決して自分の三十歳以上の肖像彫刻は作らせなかつた。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

282:名無しさん@社会人
11/03/15 12:13:33.56
私はナルシシズムが、決して偏奇な知的一傾向ではなく、おどろくほど普遍的な衝動であることを、ボディ・
ビルディングのジムで学んだ。そこには多くの鏡があるが、鏡の前は大てい混雑してをり首をさし出してネクタイを
結ぶのも容易ではなかつた。(中略)青年たちが、自分の育成した二頭膊筋や大胸筋を鏡に映して、その光り
かがやく新しい筋肉に、時の移るのも忘れて見とれてゐるのを見て、私はナルシシズムが、男のもつとも本源的な
衝動であり、今まで社会的羞恥心から隠蔽されてゐたにすぎないのではないか、といふ考へをいよいよ強めた。
ボディ・ビルディングは、いかにもナルシシズムの範例的形態である。その自己完結性にはあらゆる逆説が
ひそんでゐて、鏡に映る自分の新しい逞しい筋肉は、自分でありながら純粋な「他者」であり、考へられるかぎりの
純粋な外面であるのと同時に、しかもそれは自分の意志とエネルギーによつて創造したものなのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

283:名無しさん@社会人
11/03/15 12:15:05.80
鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を
蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、すなはち自己破壊の衝動が、
ふしぎなほど欠けてゐる。ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、
ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

284:名無しさん@社会人
11/03/16 11:12:15.09
純粋ナルシシズムの本当の姿は、他人の賞讃を必要としないことであるが、ここには美のきはめて微妙できはめて
難しい問題がひそんでゐる。
なるほどナルシスは美しい。他人の目から見て美しいのである。そしてナルシスが、他人の目から見て客観的に
美しくなければ、あの神話の美しさ自体が成立しないのであるが、一方ナルシスが絶対に排他的であり、彼が
他人の賞讃を一切必要としないほど、自意識の客観性に絶大の自信を持つてゐなければ、同様に、あの神話は
意味がなくなつてしまふ。ナルシスは己れを知つてゐなければならず、自己批評の達人でなければならず、
そしていかなる容赦ない自己批評も破砕できぬほどに美しくなければならないのである。してみるとこの神話の
恋には、二つの、いづれ劣らぬ大切な要素があることがわかる。一つは彼の絶対的美貌であり、一つは彼の
自意識の絶対的客観性である。この二つが揃はなければ、ナルシスの恋は成立しない。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

285:名無しさん@社会人
11/03/16 11:13:23.54
しかし、いかにして自意識はそのやうな絶対的客観性に到達するであらうか? 決して他人の賞讃を必要と
せぬほどの境地に達しうるであらうか? 自意識の構造自体が、このやうな客観性を常に志向してゐることは
前にも述べたが、純粋ナルシシズムが、「他人の賞讃を必要としない」からと言つて、その逆は必ずしも真ではない。
ナルシスが他人を排斥するのは、他人を全く必要としないほど美しいからだが、醜い者も、同じやうに他人を
排斥する。彼は他人の賞讃を得る自信がないからである。世間でナルシシズムといふ言葉を口にするときに、
多くの嘲笑が含まれるのは、たとへば、アラン・ドロンがナルシストであつても少しも滑稽ではないが、客観的に
見て全然美しくないものがナルシシズムに陥つてゐるのは滑稽に見えるからで、このことは、男性一般の本源的
衝動であるナルシシズムの普遍性と、微妙に噛み合つてゐる。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

286:名無しさん@社会人
11/03/16 11:14:31.65
そこで他人の賞讃を期待できぬナルシシズムは、滑稽に見えることをおそれて地下に沈潜し、そこに「秘密の
ナルシシズム」「抑圧されたナルシシズム」が鞏固に形成される。これが、他人のナルシシズムへの嘲笑の
大きな原動力になるのである。
一方、嘲笑される側は、その醜さのためではなく、自意識の絶対的客観性の不足乃至欠如のために、笑はれるのだ。
このことが、社会全般におけるナルシシズムの捕捉を実に困難にする。
もとより他人の賞讃を全く必要としないほどの純粋ナルシシズムとは、絶対真空と同様に、一つの仮定としての
絶対値にすぎず、一つの究極の観念、一つの神話にすぎぬ。誰しも他人の賞讃を必要とするが、それは他人こそ
「物言ふ鏡」であり、その賞讃こそ、肉体を離脱した非在の観念としての自意識の、何ら目に見え手にとることの
できない絶対的客観性を、傍証してくれるからである。
ナルシスの水鏡を、ナルシシズムの純粋な無言の鏡とすれば、「他人」こそは、二次的でありながらはなはだ
力強い、物言ふ鏡と言へるであらう。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

287:名無しさん@社会人
11/03/16 11:15:37.38
自意識がその客観性を確認するために、どうしても他人の賞讃を必要とするのは、ナルシシズムの客観的要件を、
できるだけ多く自分のはうへ引寄せようとする自然な志向である。すなはち、すでに水鏡をではなく、「他人の
鏡」を相手にするときには、嘲笑が返つてくるか、賞讃が返つてくるかに、彼の自意識の客観性が賭けられてをり、
思ひどほり賞讃が返つて来たところで、彼の客観的要件は、本来減りもせず増しもしない筈であるけれど、
その結果、自意識の客観性は他人の賞讃によつて保証されること多大であるから、そこであたかも、彼の客観的
要件自体が増しでもしたやうな外見を呈する。それはあくまで一つの擬制であるが、水鏡ではなく「他人の鏡」を
相手にした以上、ナルシシズムは悉く相対主義に陥り、いはば相対性の地獄に落ちることが避けられない。
純粋ナルシシズム以外のあらゆるナルシシズムにとつて、かくて本質的な様態は「不安」Sorge なのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

288:名無しさん@社会人
11/03/16 11:16:38.90
さてこの際どい賭に勝つために、彼が自分の最良のものを賭けようとすることは自然であらう。肉体的ナルシシズムに
よつてこの賭に勝つ自信がなければ、知的精神的ナルシシズムによつて勝たうとするのは当然であらう。ナルシスの
神話は、あのやうに素朴に、人間の肉体的ナルシシズムの純粋性、絶対性を謳ひ、自意識の純粋形態を象徴して
ゐるのに、古代ギリシアにすら、やがてソクラテスの近代がしのび込み、知的精神的ナルシシズムが覇を制する。
知的精神的ナルシシズムは、純粋ナルシシズムの見地からすれば明らかに倒錯であるが、二つの絶対の利点を
持つてゐる。一つはそのナルシシズムが不可見のもの(知性・精神)に関はつてゐることであり、もう一つは、
従つて、普遍妥当性において、純粋ナルシシズムをはるかに凌駕してをり、ごく稀な天然真珠よりも、はるかに
一般的な養殖真珠に相当するからである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

289:名無しさん@社会人
11/03/16 11:22:14.53
のみならず、人々は安心してこのやうなナルシシズムを許容することができる。誰にも機会は均等に与へられてをり、
努力によつてそれに達することができ、しかも不可見であるからごく秘密裡に、男性全般のナルシシズム的衝動を
満足させることができる。
かくて男の世界における肉体蔑視がはじまり、近代社会の多くの知的弊害がそこから生れてきた。
男は不可見の価値に隠れ、女は可見の世界へ押し出された。男は見る側になり、女は見られる側へ廻つた。
男女の服装を見ればわかることだが、男は渋い色の劃一的な背広に身を包み、もはやきらびやかな緋縅の鎧を
着ることはなくなつた一方、女はますます肌をあらはに、さまざまなファッションに身をやつすやうになつた。
女のナルシシズムといふ観念は、男性から移植され注入された観念のやうに思はれるが、もし女にとつて、
一般的普遍的に肉体的ナルシシズムが許容されるとなれば、そこに自意識の規制が働かないことは明らかであるから、
別な方法が案出されなければならない。それが化粧である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

290:名無しさん@社会人
11/03/16 11:23:16.31
化粧こそ、一般的肉体的ナルシシズムを、滑稽さから救ふ唯一の方法である。この方法が特に女に普及したのは、
女の自意識の欠如の代償作用であつて、顔に白粉や紅を塗つて美しく作りかへることによつて、肉体的ナルシシズムは、
はじめからまつしぐらに、その不純性へ飛び込むのである。純粋ナルシシズムには、決して化粧の原理を
導入することはできない。
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をする習慣は、美女と醜女を問はないが、それが醜女だからと言つて、
人は決して笑はうとはしない。そこで問はれてゐるのは、自意識の客観性の問題ではなく、いかに美しくなるか
といふ問題だけであつて、化粧をしない醜女よりも、化粧をした醜女のはうが幾分でも美しく見えれば、それは
社会の志向するところと一致してゐるからである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

291:名無しさん@社会人
11/03/16 11:24:21.00
他人の賞讃が、しかし、女の場合には、肉体的賞讃にとどまるやうに、女自身も要請し、社会も亦これを要請して
ゐるのは、男の世界が守つてゐる知的精神的ナルシシズムの縄張りを、女に犯されないための用心であらう。
そのためにこそ、男は、古代の男の肉体的ナルシシズムの不安(ゾルゲ)の地獄を、女のために開け渡したのである。
しかし、さうして開放された世界が、女に果して不安(ゾルゲ)を与へたかどうかは疑はしい。鏡の前にゐるとき、
女は明らかに幸福に見える。その幸福を見て、男は又しても不可解なものにぶつかるのである。
どうして化粧をしてゐるときの女は、そんなにも幸福なのであらうか? ナルシシズムが幸福であらう筈がない。
それならば、それはきつと、何かわからぬ、何か別のものにちがひない。とまれかくまれ、「幸福」とは、
男にとつてもつとも理解しがたい観念であり、あらゆる観念の中で、もつとも女性的なものである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

292:名無しさん@社会人
11/03/18 12:50:18.59
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。

三島由紀夫「言ひがかり」より

293:名無しさん@社会人
11/03/21 12:09:52.58
私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。

三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より

294:名無しさん@社会人
11/03/21 12:11:28.90
外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで
進むことができる。
北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも
十分にありうる。
アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの
(上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を
描いた映画で、皆さんもご承知であらう。
結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、
結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の
ちがひにすぎぬことが多い。
見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで
あらうと思ふ。

三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より

295:名無しさん@社会人
11/03/26 11:44:57.04
男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人として断言します。ただ世間の男のまちがつてゐる点は、
自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせようとすることです。


「何くそ! 何くそ!」
これが男の子の世界の最高原理であり、英雄たるべき試練です。


「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。


子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の不潔さよりも、女性の好評を
得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて
現はれてゐる。


動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。


男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。

三島由紀夫「第一の性」より

296:名無しさん@社会人
11/03/26 11:45:26.44
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。なぜなら男が、
「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概して
その前に美人ではないけれどといふ言葉が略されてゐると思つてまちがひないからです。


「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとるといふことと、「愛する」と
いふこととはちがふ。


相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます相手から嫌はれる羽目になる。


愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。


小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。


男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、どの恋愛読本にも
書いてないのはふしぎなことです。

三島由紀夫「第一の性」より

297:名無しさん@社会人
11/03/26 11:46:03.29
変り者の変り者たる所以は、その無償性にあります。世間に向つて奇を衒ひ、利益を得ようとするトモガラは、
シャルラタン(大道香具師)であつて、変り者ではありません。


変り者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からは
どう見ても無意味なものに対して、頑固に忠実にありつづける。


男の性慾は、ものの構造に対する好奇心、探求慾、研究心、調査熱、などといふものから成立つてゐる。


男には謎に耐へられない弱さがある。
男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、現実と人生の謎を、
カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、男は耐へられない。


人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。……こればかりは、どんなにえらい御婦人たちが
矯正しようとかかつても、永久に治らない男の病気の一つであります。

三島由紀夫「第一の性」より

298:名無しさん@社会人
11/03/26 11:46:35.59
スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。


政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにあるのでせう。


俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色がひそんでゐると云つても
過言ではない。


宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。そこでは余分の男がギュウギュウ抑へつけられ、身内に溢れて
ゐるからです。


宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、指導者、組織者としての一面と、
三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、キリストも釈迦も、男でありました。

三島由紀夫「第一の性」より

299:名無しさん@社会人
11/03/26 19:53:49.88
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の生きてゐる時代を
「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。その呼びかけは、時代の理想主義的な思想と対蹠的な
ものとなるところの、いはば「もう一つの・暗黒の理想主義」から発せられる叫びである。あらゆる改革者には
深い絶望がつきまとふ。しかし改革者は絶望を言はないのである。絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な
力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の根絶に向けられてゐるからである。一方、暗黒の理想主義から
発せられる「悪時代」といふ呼びかけも絶望をいはない。絶望はおそらく自明の理、当然の前提で、いふに値ひ
しないからである。この一点で両者は、第三者には理解しえないフリー・メイソン的な親密な目くばせをする。
より良き時代を用意するための準備段階として、現代は理想主義者にとつては完全な悪時代ではありえない。
何らかの意味で上昇しつゝある段階である。しかしかういふ可能性において一時代を見てゐる人間は、その時代を
全的に生きてゐるとはいへない。

三島由紀夫「美しき時代」より

300:名無しさん@社会人
11/03/26 19:56:42.38
是認は非歴史的な見地で行はれる。この種の是認が一種の生の放棄を意味することは見易い道理である。また一方、
現代を悪時代と規定する人間は、否定を通しての生き方においてもなほ、その時代を全的に生きてゐるとはいへない。
なぜならこの否定は、「悪時代」と呼びかける根拠それ自身を否定することはなく、当然の前提である絶望は、
その実決して否定によつて現実的なものにまで持ち来されないからである。ここにもまた放棄がありそれは
前者の放棄と同種のものである。
この間にあつて、「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に生きようと
する欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられたものではなく、偶発的なものである。
なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く
必然的に生きさせるのである。彼らにとつては、偶発的な絶望によつて現代が必然化されてをり、いひかへれば、
絶望の対象である現代は、彼らにとつて偶然の環境ではない。

三島由紀夫「美しき時代」より

301:名無しさん@社会人
11/03/26 19:58:55.31
この偶然的な絶望は、それが時代を全的に生きようとする欲求であることを通して、生の一面である。決定論的な
前提を全く控除した生の把握がそこにみられる。ここではどのやうな意味でも生の放棄はありえない。
終戦後の思想界のおほよその傾向は、以上の三つに分類されるやうである。理想主義はヒューマニズムの立場であり、
絶望主義はその偶然性によつてヒューマニズムを乗り越えようとする立場であり、あとに残る一つのものは
純然たる反ヒューマニズムの立場である。第一のものが宗教的傾向との間に次第に協調をみせ、第二のものが
「生の哲学」に由来してゐることはとうに興味を惹く事実である。第三のものはまだ確乎たる立場を持つてゐるとは
いへない。私は現在の最も若い青年層の間にある漠たる虚無的な傾向といはれるものをこれに包括したのである。
私自身の思考も最もこれに隣接してゐるにちがひない。

三島由紀夫「美しき時代」より

302:名無しさん@社会人
11/03/26 20:02:50.80
それは理想主義がさうであるやうな意味において、すなはち生の放棄といふ意味において、虚無的であるにすぎない。
この暗黒の理想主義は、一定の理想像を信ぜぬほどに純粋なのである。しかも彼は懐疑に逃避するでもない。
懐疑の偶発的な構造が、彼の置かれた環境の偶発性に溶解されてしまふ懐疑がないために、普通いはれる意味での
信仰もありえない。すこぶる日常的な、生理的ですらある絶望が彼を支配し、彼の偶発的な環境が、彼の生を
運命化するのである。今自ら生きつつある時代を「悪時代」と呼ぶこと、それは彼のうちの何ものをもジャスティファイするわけではない。
彼には現代が良くなりつつある時代であるといふ理念的な確信に生きることができず、さりとて当然の前提である
絶望を偶然化してそれによつて没理想的に生きようとすることもできないので、彼は自己の生のただ一つの
確証として「悪い時代だ」と呟きを洩らすのである。

三島由紀夫「美しき時代」より

303:名無しさん@社会人
11/03/29 10:48:19.84
一フランス人が面白いことを言つた。日本は極東ではなくつて、極西である。中華民国から極東がはじまるのだ、
と言つたのである。ヨーロッパは多くの日本人が想像してゐるよりはずつと遠い。ヨーロッパ的世界にとつて、
極東よりも極西のはうが遠いのである。好むと好まざるとにかかはらず、北米大陸の存在は今後の日本にとつては
宿命的で、ヨーロッパにとつて、日本はアメリカの向う側に位する。


技術も文学や絵と同様に、風土の質や量(ひろさ)と深い関係があり、アメリカの技術は日本の風土に適しない。
それはさうである。しかしヨーロッパの精神文明と、日本の精神文明は、全く対蹠的なものである。(中略)
ある意味において、アメリカの文化は、ヨーロッパ文化の風土を無視した強引な受継であつて、そこでは微妙な
ものも見失はれた代りに、ヨーロッパに堆積してゐるあのおびたゞしい因襲の引継も免れたのである。
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。フランスのアメリカぎらひは、
自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 日本は極西」より

304:名無しさん@社会人
11/03/29 10:49:22.28
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は疑り深くて、新聞に
書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。しかし或る非常の事態にいたると、
知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは
自分の生活の場に立つて、蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうなあの民衆の本能的不信は、
古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と
考へられたのには、理由がある。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 大衆の触角」より

305:名無しさん@社会人
11/03/30 19:29:51.56
羽田のインタビューが感じがわるかつたとしても、(事実相当に感じがわるかつたと想像されるが)、新聞記者の
心証をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が、
何で英雄気取りになつてはいけないのか。かういふことをした青年が、凡庸な世間の要求するイメージに従つて、
頬をポッと赤らめて頭を掻いたりする「謙虚な好青年」でなければならぬ義務がどこにあるのか。又世間が
どうしてそんなものを彼に要求する権利があるのか。……考へれば考へるほど、腑に落ちないことだらけである。
大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。ヨットで九十日間、
死を賭けた冒険ををして、それでいはゆる「人間ができる」ものなら、教育の問題などは簡単で、堀江青年は
この冒険で太平洋の大きさは知つたらうが、人間や人生のふしぎさについて新たに知ることはなかつたらう。
そんなことは当たり前のことで、期待するはうがまちがつてゐる。

三島由紀夫「堀江青年について」より

306:名無しさん@社会人
11/03/30 19:30:59.56
のみならず堀江青年に、テレビや映画のまやかしものの主人公のやうな、出来合ひの「好青年」を期待するはうが
まちがつてゐる。そんな好青年は、決してたつた一人で小さなヨットで太平洋を渡らうなどとはしないだらう。
かういふ孤独な妄執は、平均的な「好青年」などから芽生える筈もない。たとへばこのごろの「カッコいい
若者たち」の六尺ゆたかの背丈と、五尺そこそこといはれる堀江青年の背丈とを比べてみるだけでもいい。
ラスウェルは「政治」の中で、リンカーンの情緒的不安定や、ナポレオンの肉体的劣等感について詳さに述べてゐる。
今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又一つわれわれに示した。それは社会的イメージの
強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認された
ものである。これは一堀江青年のみならず、芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。

三島由紀夫「堀江青年について」より

307:名無しさん@社会人
11/03/31 21:17:58.03
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦死者たちは
生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは
否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。

三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より

308:名無しさん@社会人
11/04/03 00:18:25.91
宝塚滞在のための目算は立つてゐたが、大阪へ到着当夜の宿に困つた私は、親戚のものの紹介状をさし出して、
一夜の宿の世話を駅長に懇望した。(中略)
ホテルは土地に不案内の私にもすぐに見つかつた。四階建の小ぢんまりしたビルである。
入口は日本映画に出てくるセットの安ホテルによくあるやうな奴である。入るとすぐ右にフロントがある。
靴のまま上らうとした私はたしなめられた。
「靴はね、御自分でもつて上つて下さい」
破れたスリッパが、海老いろの絨氈とは、一応不似合である。
私はうけとつた鍵をポケットに入れ、二つの鞄と一足の靴を持余して三階へゆく階段の途中で一休みした。
『靴つて奴は、手に持つとなると、何て不便な恰好をしてゐるんだらう』
私はかう考へて、靴紐を解いて一緒に結んで、その結び目の輪を指にかけた。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

309:名無しさん@社会人
11/04/03 00:20:19.12
空のビール罎と残肴の皿を盆にのせて下りて来た女中が、私にぶつかりさうになつて、アレエといふ古風な悲鳴を
口の中で叫んだ。私はひがみではないが、この女中の目つきにも、何となく自分が客扱ひをされてゐないのを感じる。
故なくしてダブルベッドを一人で占領する私のやうな客は、汽車の坐席に横になつて二人分の空間を占領する
乗客のやうに社会的擯斥に会ふものらしい。私は昇りがけに、上から盆を見下ろしたが、不味さうに残つた
メンチボールらしいものの皿は二つある。そのちぎれて残つたメンチボールは、何かとてもいやらしい喰べ物の
やうに思はれる。
三階の廊下は森閑としてゐた。つきあたりの窓の空が駅近傍のネオンサインのために火事のやうに紅い。
私の部屋は三一四号である。入ると、六畳にしてはひろい八畳にしては狭い殺風景な全景があらはれる。(中略)
床は安つぽい紋様の緑いろのリノリュームで張つてある。壁紙は臙脂(えんじ)と白の花もやうであるが、別段
色あせてゐるやうにも見えないのは、一日中日光の射しこまない部屋だからであらう。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

310:名無しさん@社会人
11/04/03 00:22:06.64
見上げると、天井から、裸電球が臆面もなく下つてゐて、部屋のなかで今しがた何かが動いたやうな気がしたのは、
揺れてゐる電灯のおかげで、私の影が揺れたのである。
早速顔を洗はうとすると、部屋の一方の壁をおほふ薄汚れたボイルのカーテンが目に入る。そのカーテンの
万遍ない汚れ方といふものは、人工的に汚れを染めたとしか思はれない。その片方をあけると、鏡と洗面器があり、
片方をあけると真鍮の棒から洋服掛が下つてゐる。
私はたつた一つの三等病室のやうな窓をあけた。
その硝子といふのがまた、厚い緑がかつた磨硝子の中に金網を仕込んだ奴である。
午後九時だつた。窓の下の錯雑した家の二階の窓には目かくしがない。薄暗い部屋のなかでほつれ毛をしきりに
掻き上げながら、ミシンを踏んでゐる女のすがたが見える。横顔が妙に骨ばつて、尖つてみえる。狐かもしれない。
……空の遠くには大小さまざまのネオンサインがいそがしく活動してゐる。ここからは中の島の方角が見えるの
かしらん。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

311:名無しさん@社会人
11/04/03 00:23:45.30
忽ち扉がノックされた。
女中が入つてくる。ひどくだらしのない風態で、はらわたのはみでた桃いろの草履を引きずつて歩いてゐる。
手には土瓶と茶碗をのせた盆を持つてゐるが、すすめられた茶碗から呑まうとすると、御丁寧に縁が大きく
欠けてゐる。
お茶をのむ。無言の対峙。呑みをはる。
「御勘定!」
間髪を容れずしてかう言はれては、いくら私が剛胆でも好い加減おびやかされる。
「いくらだい」
茶代の催促かと考へて私はたづねた。
「七百五十円!」
ずいぶん高い番茶もあるものである。呆気にとられてゐると、重ねてかう言つた。
「朝食とコミで七百五十円」
つまり彼女は、このホテルの合理的な慣習に従つて、宿泊料・茶代・食費を含むお会計全額を前金で請求して
ゐるのである。

女中が行つてしまふと私は退屈した。廊下へ出た。
(中略)
……私は緑いろのリノリュームの上を巡査のやうに何となく歩いた。
『案内人のないホテルといふのは洒落れたものだなあ』と私は考へた。『前金制、……案内人なし、……その他に
どんな規約があるのかしらん』

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

312:名無しさん@社会人
11/04/03 00:28:12.38
私は壁に不細工に貼られてゐる注意書を丹念に読んだ。
(中略)
余談になるが、かういふ注意書に興味をもつのが私の道楽である。
学士会館の喫煙室の椅子の背には、いちいち札がぶら下つてゐて、その札にどんな馬鹿なことが書いてあつたかを
おぼえてゐるのは、この道楽のおかげである。覚えてゐる人もあるかもしれないが、椅子毎にぶら下つてゐた
木札にはかう書いてあつた。
「この椅子の位置を動かした方は、お忘れなく元の位置に戻しておいて下さい」

また余談になるが、東京大学法学部の厠には、磁器の板に刷つたこんな文句が壁にはめてあつた。
「この便所は水洗便所で、特別の装置をもつたものですから、固い紙類、異物、セルロイド等を投下すると、
パイプが梗塞状態になり故障を惹起すことになりますから、十分注意の上、使用して下さい」
六法全書をめくると、こんな法律がある。
「動物の占有者は其動物が他人に加へたる損害を賠償する責に任ず。但し動物の種類及び性質に従ひ相当の注意を
以て其保管を為したるときは此の限に在らず。占有者に代はりて動物を保管する者も亦、前項の責に任ず」

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

313:名無しさん@社会人
11/04/03 00:30:14.63
……たまたまこんな馬鹿らしいことを私が思ひ出したのには理由がある。椅子に下つたあの妙な木札は、椅子の
上での安楽な休息と別物であるやうに、便所の掲示は生あたたかい糞尿と、法律の規定はよく跳びまはる元気な
フォックステリヤと、一応別物でありながら、そこには何かしら「ありうべき場合」を網羅しようとして陥つた
抽象の中に、異様に生々しいものが横たはつてゐる。生きてとびはねてゐる現実の犬よりも、もつと生々しい
抽象的な犬がそこに想定される。
ホテルの規定は、いふまでもなく馬鹿らしいものの一つである。しかしこの注意書のおかげで、この殺風景な
部屋には、妙に生々しい実質が与へられてゐるやうに思はれる。連れ込みのお客も部屋へ入つた以上、こんな
規定に則つて行動し、その限りではみんな劃一的な、身も蓋もない存在になつてしまふ。その限り……、それが
生活といふものだ。それなしには誰も実質を失つてしまふ場所で、この注意書が「生活」の教訓を垂れてゐるのだ。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

314:名無しさん@社会人
11/04/03 00:31:45.97
朝の食事には規定に従つて地下室の食堂がアベックで溢れるだらうと考へた私の目算は外れた。行つてみると、
タイル張の冷え冷えとした部屋に、タイル張の大きな柱がいくつも立つてゐる。タイルの柱はあらかた剥げてゐて
汚ならしい。配膳机のやうな長方形のテーブルが並んでをり、椅子がひつそりと並んでゐる。
「何番さん?」
と出て来たコックがたづねた。
「三一四番」
と私は答へた。私はこんな取扱には一向平気だ。
渦巻の凸凹のあるアルミニュームの丸盆に満載した朝食が運ばれて来て、盆ごと私の前に置かれた。
日向水のやうな味噌汁をすすつてゐると、疲労困憊したスリッパの足音がして、着流しの老人がやつて来て、
私の目の前のテーブルに背を向けて坐つた。
坐りかけて右方の柱のかげへ、やあ、おはやう、と嬉しさうに挨拶した。今まで見えなかつたが、そこには
もう一人食事をしてゐる人があるらしい。私のところからは依然見えにくい。
間もなく柱のかげの人は立上つて、コックに、おつさん、ごちそうさん、と声をかけてゐる。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

315:名無しさん@社会人
11/04/03 00:34:02.09
見ると、四十を越したか越さないかの荒んだ肌の女である。寝間着に伊達巻ならまだしものこと、細紐一本が
ゆるゆると浴衣の胴中を締めてゐる。細紐はぬるま湯のやうにほどけてしまひさうで、もしかするとこんな
着こなしは、寝起きに水おしろいを刷いた衿元を見せようためかもしれない。女は立つたまましばらく楊枝を
使つてゐたが、煙草に火をつけると、一吹きしては、大袈裟に指さきであたりの煙を払ふやうにしながら食堂を
出て行つた。
あとには老人の入歯の歯音が、人気のない朝の食堂できかれる唯一の音である。
『全くへんな旅行の振出しだ』と私は考へた。
『早く逃げ出さなくてはいけない』
こんな風変りな宿に永くゐたら、予測することもできない不幸に引止められて、あの老人の年まで居つづけなければ
ならぬやうにならないとも限らない。朝飯をすませたら、すぐ出てしまはう』
……さうして私は地上へ向けられた地下室の天窓を見上げるが、こいつも例の金網入りの青い磨硝子である。
硝子を透して来る光は明るいけれども、その上をひつきりなしに流れてゐる淡緑色の水の影は、今朝になつて
降りだした雨らしかつた。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

316:名無しさん@社会人
11/04/05 10:46:21.57
尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

317:名無しさん@社会人
11/04/05 10:47:46.65
―むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありませんでした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

318:名無しさん@社会人
11/04/05 10:48:57.98
お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

319:名無しさん@社会人
11/04/05 10:50:05.72
実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

320:名無しさん@社会人
11/04/05 10:51:23.09
(中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

321:名無しさん@社会人
11/04/05 10:54:36.39
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

322:名無しさん@社会人
11/04/06 11:44:37.16
三月といふ月は、季節的には、何だか落着かない、いらいらした月である。何度か冴え返る寒さ、目つぶしを
喰はす埃と突風、木々の芽生えのじれつたさ、それから不規則な雨、……ものごとの成長の季節がかういふものなら、
われわれの青春時代も愉快なものであらう筈がない。
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を感じるときには、
もう衰退の中にゐるのだ。
(中略)
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして青春は思ひ出の中でのみ
美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春が
こんなに人をいらいらさせるのは、この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。
あの春先のまつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられないのである。

三島由紀夫「春先の突風」より

323:名無しさん@社会人
11/04/07 20:50:20.65
そもそも推理小説とは欧米でも売れて売れて困るもので、売れない推理小説は、そもそも推理小説の資格がない
やうなものだ。


純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。(中略)小説の中に、ピストルや
ドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を
扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。


純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、
危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたとき
その幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

324:名無しさん@社会人
11/04/07 20:51:29.44
(中略)
人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、
もう、しやにむに生きるほかはない。
室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。
老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。殊に肉体芸術やスポーツの分野では、
東西の差が顕著で、先代坂東三津五郎丈は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せたが、セルジュ・リファールは
もうすでに舞台姿は見るに堪へぬ。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、
七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。室生氏などは
世阿弥のいはゆる「珍しき花にて勝」つた人であらう。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

325:名無しさん@社会人
11/04/07 20:52:48.02
(中略)
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

326:名無しさん@社会人
11/04/07 20:53:46.17
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
―かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

327:名無しさん@社会人
11/04/10 12:07:17.46
外国へ行つたら、日本のことをとやかくきかれるかと思つて、それなりの心づもりをして行つたら、大まちがひで
あつた。どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。講演会で、
中学生が講師に質問して、
「先生はサルトルについてどうお考へですか」などと訊くのは日本だけである。
なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は支那に似てゐる。
(中略)
アメリカでは、はうぼうで、日本に関する歯の浮くやうなお世辞を云はれたり、「原子爆弾を落してすまなかつた」と
隣家の窓ガラスに野球の球をぶちこんだ時のやうな真顔の詫び言を云はれたこともあつたが、アメリカ人の
いふことには、概して政治的な臭味があつて人の心を打たない。それだけ、アメリカ人は正直なのであらう。

三島由紀夫「日本の株価―通じる日本語」より

328:名無しさん@社会人
11/04/10 12:09:08.64
一つ快い思ひ出はギリシアである。
(中略)バスが故障して何度も停つたので、その間に伯父さんにつれられて田舎へ遠足にゆく、二人のかはいらしい
小学生と知合になつた。かれらは英語を勉強してゐるので、私と英語で話すことが得意なのである。(中略)
「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬してゐるんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、他ならぬギリシアの子供に
かう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に
残つてをり、しかもわが日本が、(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの
競技会に参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、いかに世界を
おほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。事実、われわれの精神の仕事も、
もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るかとかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。

三島由紀夫「日本の株価―通じる日本語」より

329:名無しさん@社会人
11/04/11 20:59:47.16
最近ウェイドレーの「芸術の運命」といふ本を面白く読んだが、この本の要旨は、キリスト教的中世には
生活そのものに神の秩序が信じられてゐて、それが共通の様式感を芸術家に与へ、芸術家は鳥のやうに自由で、
毫も様式に心を労する必要がなかつたが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以後、様式をうしなつた芸術家は方法論に
憂身をやつし、しかもその方法の基準は自分自身にしかないことになつて、近代芸術はどこまで行つても告白の域を
脱せず、孤独と苦悩が重く負ひかぶさり、ヴァレリーのやうな最高の知性は、かういふ模索の極致は何ものをも
生み出さないといふことを明察してしまふ、といふのである。著者はカソリック教徒であるから、おしまひには、
神の救済を持出して片づけてゐる。
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。しつかりした
共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ共通の判断で、あれを善い、これを悪い、
あれは正しい、これは正しくない、といふ。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

330:名無しさん@社会人
11/04/11 21:03:18.26
それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに
善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャのやうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と
道徳的感覚は一つものになるであらう。
最近、汚職や各種の犯罪があばかれるにつれて、道徳のタイ廃がまたしても云々されてゐる。しかしこれは
今にはじまつたことではなく、ヨーロッパが神をうしなつたほどの事件ではないが、日本も敗戦によつて古い神を
うしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、神が
支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふそのことではないのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

331:名無しさん@社会人
11/04/11 21:06:26.63
今世紀の現象は、すべて様式を通じて感覚にぢかにうつたへる。ウェイドレーの示唆は偶然ではなく、彼は様式の
人工的、機械的な育成といふことに、政治が着目してきた時代の子なのである。コミュニズムに何故芸術家が
魅惑されるかといへば、それが自明の様式感を与へる保証をしてゐるやうに見えるからである。
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。かういふ方法で
政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきたことを意味する。我々は今日、自分の
モラルの感覚を云々することはたやすいが、どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、
明言することはだれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に従ひがちに
なるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

332:名無しさん@社会人
11/04/11 21:09:00.44
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。文明のさまざまな
末期的錯綜の中から生れたもつとも個性的な思想が非常な近道をたどつて、もつとも民族的な未開な情熱に結びつく。
ブルクハルトが「イタリー・ルネッサンスの文化」の中で書いてゐるやうに「芸術品としての国家や戦争」が
劣悪な形で再現してをり、神をうしなつた今世紀に、もし芸術としてなら無害な天才的諸理念が、あらゆる
有害な形で、政治化されてゐるのである。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて来てをり、もしモラルの
感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に抗して、芸術家が己れの感覚の誠実を
うしなはないことが大切になるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

333:名無しさん@社会人
11/04/13 12:05:39.56
科学的見地から見れば、素人のわれわれにも、フロイトのユダヤ的夢判断よりもハヴロック・エリスの夢の研究の
はうが妥当なやうに思はれる。しかしフロイトの魅力はもとよりその妥当さに在るのではない。フロイトの強引な
仮説は今日われわれの社会生活の常識にまでしみ入りおくればせに北米合衆国を風靡して、おかみさん階級までが
アナリシスに熱中してゐる。古典的合理主義の支配してゐる米国では、性慾その他の非合理的世界がいつも
恐怖の対象になつてゐるので、フロイトはもつぱらその合理的側面から、DDTみたいに愛用されてゐるのである。


「芸術論」を再読してみて、カントが芸術にぶつかつて「判断力批判」で失敗したやうに、フロイトも芸術で
つまづいて、ここで最もボロを出してゐると思はれるところが多い。極度に反美学的考察のやうにみえながら、
実はフロイトが陥つてゐるのは、美学が陥つたのと同様の係蹄である。芸術の体験的把握を離れた分析の図式主義と、
芸術を形成する知的な要素と官能的な要素との相関関係の解明にとどまつて、「鶏が先か卵が先か」といふ
循環論法に終始してゐる。

三島由紀夫「フロイト『芸術論』」より

334:名無しさん@社会人
11/04/14 11:14:29.90
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。蛍光灯の下では美人も幽霊の
やうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、あまり美味しくもなささうな色の
料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、臘燭が用ひられだした。磨硝子の円筒形のなかに臘燭を点したのが卓上に
置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した女は、周囲の暗い
喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した目の煌めきまでが
いきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も臘燭に如くものはないらしい。そこで今度は古来の提灯が
かへり見られる番であらう。
子供のころ、こんな謎々があつた。
「火を紙で包んだもの、なあに」
この端的な提灯の定義は、今日でも外国人の好奇心を誘ふものであらう。
私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。

三島由紀夫「臘燭の灯―今月の表紙に因んで」より

335:名無しさん@社会人
11/04/14 11:15:06.72
内玄関の鴨居には、家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、
それらが一家の避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。江戸時代の
庶民の発明した紙のシャンデリアである。
花灯籠、絵灯籠、灯籠流し、といふのはもう言葉ばかりで、正直のところ、私の都会生活で、ゆらめく臘燭の灯に
接する機会は、レストランか、さもなければ停電の夜だけになつた。

三島由紀夫「臘燭の灯―今月の表紙に因んで」より

336:名無しさん@社会人
11/04/16 11:15:20.76
張り合ひのない女ほど男にとつて張り合ひのある女はなく、物喜びをしないといふ特性は、愛されたいと思ふ女の
必ず持たねばならない特性であつて、かういふ女を愛する男は、大抵忠実な犬よりも無愛想な猫を愛するやうに
生れついてゐる。
(中略)
冷たさの魅力、不感症の魅力にこそ深淵が存在する。
物理的には、ものを燃え立たせるのは火だけであるのに、心理的には、ものを燃え立たせるものは氷に他ならない。
そしてこの種の冷たさには、ふしぎと人生の価値を転倒させる力がひそんでゐて、その前に立てば、あらゆる価値が
冷笑され、しかも冷笑される側では、そんな不遜な権利が、一体客観的に見て相手にそなはつてゐるかどうかを、
検討してみる余裕もないのである。
こんないら立たしい魅力も、しかし心を息(やす)ませないから、実は魅力の御本尊の自負してみるほど、
永続きはしないものである。

三島由紀夫「好きな女性」より

337:名無しさん@社会人
11/04/16 11:16:46.29
(中略)
ありがた迷惑なほどの女房気取も、時によつては男の心をくすぐるものである。かういふ女性の中には、どんなに
知識と経験を積んでも、自分でどうしても乗り超えられない或る根本的な無智が住んでゐて、その無智が決して
節度といふことの教へを垂れないから、いつも彼女自身の過剰な感情のなかでじたばたしてゐるのである。
(中略)
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。しかし計量できない天文学的
数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。
それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目を
つぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。
私は時には、さういふ催眠剤的な女性をも好む。
これはさつきの議論と矛盾するやうでもあるが、一方、認識慾のつよい男ほど、催眠剤を愛用する傾きも強く、
その必要も大きいといふことが云へるだらう。

三島由紀夫「好きな女性」より

338:名無しさん@社会人
11/04/16 11:18:38.74
この世にはいろんな種類の愛らしさがある。しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であらう。
美しいと謂はれてゐる女の人工的な計算された可愛気は、たいていの場合挫折する。実に美しさは誤算の能力に
正比例する。
(中略)
可愛気は結局、天賦のものであり天真のものである。
そしてかういふものに対してなら、敗北する価値があるのだ。
ほんのちよつとした心づかひ、洋服の襟についた糸屑をとつてくれること、そんなことは誰しもすることであるが、
技巧は、かういふ些細なところでいつも正体をあらはしてしまふ。
私は小鳥を愛する女の心情の中にさへ、暗い不可解な無意識の心理を、忖度せずにはゐられない不幸な人間であるが、
たまには、(時には気候の加減で)さういふ時の女にかけがへのない天真さを発見する。
何かわれわれの庇護したい感情に愬へるものは、おそらく憐れつぽいものではなくて、庇護しなければ忽ち
汚れてしまふ、さういふ危険を感じさせる或るものなのであらう。ところが一方には何の危険も感じさせない
潔らかさや天真さといふものもあり、さういふものは却つて私を怖気づかせてしまふから妙である。

三島由紀夫「好きな女性」より

339:名無しさん@社会人
11/04/18 10:43:01.66
私の主義としては、匿名の原稿は一切引受けない。これは匿名批評を否定するから引受けないのではなく、
ウィスキーは決してストレイトで呑まないとか、飛行機には決して乗らないとか、(中略)さういふことを
力んで主義にしてゐる人のやうに、私も力んで主義にしてゐるにすぎない。健康上の理由のほか、大した根拠は
ないのである。
一般的に匿名批評は是が非かといふことになると、人のやることにはあまり口を出したくないから、勝手にやつて
もらつたらいい。ただ困るのは、匿名批評といふものは、人のやることにいちいち口を出したがる立場だから、
こつちがかういふ態度でゐれば、おのづと火の粉はこちらの身にかかり、無防禦の受身になつたも同様である。
事実私も、匿名といふ匿名で、袋叩きに合つた経験があり、さういふときはどうして覆面同士の気がピタリと
合ふのか、面白いほどである。
自分がやらないから、匿名家の心理といふものはわからぬが、一年もつづけてやると、自己中毒症状に陥るのでは
ないかと思はれる。ミスティフィケイションの心理には、永続性がなく、必ず地獄のやうな倦怠に陥る。

三島由紀夫「匿名批評是非」より

340:名無しさん@社会人
11/04/18 10:44:12.78
一生ミスティフィケイションをとほして平気だつた文学者といふものもあるが、それは実はミスティフィケイションと
見えたものが、その人の素顔だつたのである。野暮な議論だが、およそ文筆活動といふものは、自我の拡張の
喜びであつて、署名はその最低限度のあらはれである。できることなら、私、私、私、私、と百万べんも書きたいのだ。
一方、匿名の趣味は、覆面の英雄を喜ぶ民衆の趣味に支へられるから、それを読む民衆ははじめから、公平な
最大公約数的意見だなどと思つて読みはしない。(中略)さうすると、匿名作家は、おしのびの快楽にいつしか
熱中し、署名附文筆よりももつと絶対な自我の拡張のよろこびを味はつてゐるかもしれないのである。かういふ
心理が自家中毒を起すと私は言ひたいのだが、しかしそれも私のひがみの一種であらう。
結論をいふと、現代の匿名批評には、批評される対象にとつての害悪、および読者にとつての害悪はほとんど
みとめられず、ただ(余計なお節介であらうが)匿名家自身の健康に害悪がありはしないか、と憂慮されるのみである。

三島由紀夫「匿名批評是非」より

341:名無しさん@社会人
11/04/18 11:12:39.70
>>339-340
これはおもしろいね

342:名無しさん@社会人
11/04/20 10:59:31.64
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、透明な抽象的構造を
いつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。(中略)
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

343:名無しさん@社会人
11/04/20 10:59:51.63
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

344:名無しさん@社会人
11/04/20 11:00:25.87
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが紙一重であると
いふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。
私は女をだます気がないから、かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、
欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」の
ヴァルモン子爵は、(中略)女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を
総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、
そのへんがおぼこなのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

345:名無しさん@社会人
11/04/20 11:05:28.96
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な
文化の母胎であつた。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

346:名無しさん@社会人
11/04/20 11:05:53.79
したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を味はふことができぬのである。文化の進歩につれて、この孤独の意識を
先天的に持つた者が、芸術家として生れ、芸術の専門家になるのだ。私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと
首をひねらざるをえない。
あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教へてもらつてゐる始末である。教師的趣味の男が
いつぱいゐるから、それでどうにか持つてゐるが、丁度眼鏡を額にずらし上げてゐるのを忘れて、一生けんめい
眼鏡をさがしてゐる人のやうに、女は女性といふ眼鏡をいつも額にずらして忘れてゐるのだ。(時には故意に!)
こんな歯がゆい眺めはなく、こんな面白くも可笑しくもない、腹の立つ光景といふものはない。私はそんな明察を
欠いた人間と附合ふのはごめんである。うつかり附合つてごらん。あたしの眼鏡をどこへ隠したのよ、とつかみ
かかつてくるに決つてゐる。
もつとも女が自分の本質をはつきり知つた時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであらう。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

347:名無しさん@社会人
11/04/21 12:59:19.86
中世における世界像の縮小とコロンブスのアメリカ発見による再拡大、近世における植民地の争奪による世界像の
終局的拡大、……かういふものを通じて、前大戦後の失敗にをはつた国際連盟あたりから、世界国家の理想が
登場してくる。第二次世界大戦後にもこの理想は、国際連合の形で生き延びてゐる。
そこで問題は、原子爆弾と国際連合との宿命的なつながりに帰着する。
われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、
個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることは
できないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及に
よる世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、おそらく
大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と同等の
ものなのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

348:名無しさん@社会人
11/04/21 13:00:02.93
小さな封建国家の滅亡は、世界の滅亡と同様の感覚的事実であつた。われわれの原子爆弾に対する恐怖には、
われわれの世界像の拡大と単一化が、あづかつて力あるのだ。原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、
国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を
貸し合つてゐるのである。
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を明確に
見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。まづ個人が復活しなければならないのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

349:名無しさん@社会人
11/04/23 11:24:19.72
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。

三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より

350:名無しさん@社会人
11/04/24 11:27:14.75
六月二十五日(土)
人間のやつたことは、自然力から、人間生活に役立つ効用を発見し、機能を引出すことだつた。道具や機械に
とつては、物の究極の構造などはどうでもよいのだ。自然の一機能が、ただグロテスクに誇張されてゐればよいのだ。
科学が誕生した。科学の目的は、宇宙的法則および宇宙構造の認識に在るとしても、それを模写し、その雛型を
つくることに在るのではない。そんな全的なことは、何の役にも立たないのだ。
(中略)
原子力時代が到来して、科学の人間的要請、つまり自然の効用と機能を盗むことが、いひしれぬ非人間的な結果に
おちいり、逆に、非人間的要請から出発した芸術が、唯一の人間的なものとして取り残されたのは、逆説的な
ことである。しかし原子力研究が発見したやうな物の究極の構造へ、芸術は新らしい方法によつて達するべきで
あらうか? あくまで可視的な自然にとどまることが、芸術の節度であり、倫理でもあるのではないか? 
原子爆弾は、人間の作つたもつともグロテスクな、誇張された自然である。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

351:名無しさん@社会人
11/04/24 11:28:09.28
六月三十日(木)
私が太宰治の文学に対して抱いてゐる嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二に
この人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と
心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし弱点をそのまま強味へ
もつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思はれる。どうにもならない自分を信じるといふことは、
あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押しつけるにいたつては!
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。
生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには
本当の病人の資格がない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

352:名無しさん@社会人
11/04/24 11:28:35.92
七月二日(土)
青年の自殺の多くは、少年時代の死に関するはげしい虚栄心の残像である。絶望から人はむやみに死ぬものではない。
私は青年期以後、はじめて確乎とした肉体的健康を得た。かういふ人には、生れつき健康な人間とは別の心理的
機制があつて、自分は今や肉体的に健康だから、些事に対して鈍感になる権利があると考へ、そんなふうに自分を
馴らしてしまふのである。

七月四日(月)
典型的な少年は、少年期の犠牲になる。しかしこれは少年期ばかりではないかもしれぬ。典型的な青年は、青春の
犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、
フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

353:名無しさん@社会人
11/04/24 11:29:28.25
七月六日(水)
学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート的文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけて
ゐても、下には健康な筋骨が、見え隠れしてゐなくてはならない。
ところで最近私は、「太陽の季節」といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、
一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、
書かれてゐたことであつた。

七月十日(日)
極度にまで理性に蝕まれた感情が、しかも強力に観客に作用して、観客を引きずつてゆかねばならないとは、劇の
逆説的要請であるが、感情のかういふ逆説の可能になる場所が、まさに俳優の肉体なのだ。そして媒体である俳優は、
白(せりふ)を諳んじ、ある白のあとで退場するといふやうなこまごました理性の統制に服しながら、同時に
その生理的機能をあげて、顔を紅潮させて怒り、あるひは時には本物の涙を流して嘆くのである。
しかし俳優の作品は極度に抽象的で、芸術家のなかでもつとも肉体(可視的)でものを言ふ俳優なるものが、
実はもつとも抽象的(不可視的)な作品をもつてゐる。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

354:名無しさん@社会人
11/04/24 11:39:10.70
七月十日(日)
肉体が宿命的であるならば、精神も宿命的でないとはいへない。俳優における肉体の宿命は、あらゆる芸術家に
おける精神の宿命と、相似のものでないとはいへない。小説家の作品にも、作曲家の作品にも、画家の静物画にも、
われわれは俳優の肉体と相似のもの、まるで肉体の宿命のやうにはつきりした精神の宿命を見ないだらうか? 
これらの芸術家が素材を可塑的(プラスチック)だと思つてゐるのは、単なる妄信ではなからうか?
かう考へてゆくと、私には、俳優なるもののグロテスクな定義が思ひうかんで来るのである。私は仮りに、
(あくまで仮りにだが)、かう定義したい誘惑にとらはれる。
「芸術家としての俳優は、内面と外面とが丁度裏返しになつた種類の人間、まことに露骨な可視的な精神である」と。
(中略)彼があんなにも次々と、他人の精神に身をまかせながら、(この点では俳優は批評家に似てゐる)、
批評と別の方向を辿るのは、彼にとつてはつきりした外面、はつきりした肉体があるおかげではないか。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

355:名無しさん@社会人
11/04/24 11:39:34.96
七月十一日(月)
扇が射落されたとき、(那須の)与市のその行為は、彼の現実認識と一つものになつてゐた。それがそのまま
認識たりうるやうな稀な行為。与市はその行為の体験によつてのみ認識に達し得たのであり、その瞬間、認識と
行為とはまつたく同一の目的、すなはち現実を変革するといふ目的に奉仕した。
さて、われわれは、かういふ一瞬のために生きれば足り、爾余の人生は死にすぎない。与市がそれによつて
生きたやうな一瞬こそ、まさに純粋な生、極度に反芸術的なもの、芸術不要の一点だ、と私は言ふのである。
芸術をここへもつてくれば、芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地のよいことをのぞまず、むしろ
つねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、
芸術を押しつぶしてしまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?

三島由紀夫「小説家の休暇」より

356:名無しさん@社会人
11/04/24 21:06:42.29
七月十二日(火)
われわれの目に映る範囲では、女性的特色をもつた男色家はたくさんゐる。熾烈な女装の欲望を抱いた男もあれば、
男の言葉を使ふことにゆゑしらぬ困難を感ずる男もある。しかし無智な人間ほど、面白いことには、男色の
本質的特異性がつかめず、世俗的な異性愛の常識に犯されてしまふのである。その結果、どうなるかといふと、
自分が男のくせに男が好きなのは、自分が女だからだらうと思ひ込んでしまふ。人間は思ひ込んだとほりに
変化するもので、言葉づかひや仕草のはしばしまで、おどろくほど急激に女性化してくる。田舎出の少年などは、
ひとたびこの風習に染まると、それが都会のハイカラな流行だと思ひちがへて、たちまち女言葉に習熟してくる。
それはあたかも外国人が日本へ来て、女からばかり日本語を習つて、女の言葉づかひしか出来なくなつた場合に
似てゐる。これらの変化は生理的な変化といふよりも、支配的な異性愛文化の影響下にある一種の社会的変化とでも
云つたはうが適当であらう。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

357:名無しさん@社会人
11/04/24 21:07:07.50
七月十九日(火)
例のビキニ実験における補償問題でも感じたことであるが、その実験を非人間的といひ、反人道的といふときに、
われわれの人間なる概念は、すでに動揺を来してゐる。私は政治的偏見なしに言ふのであるが、水爆の実験を
した国の人間が、被害国の人間に補償を提供するといふこの行為には、国際間の問題とか、人種的偏見の問題とかを
超えて、人間の或る機能が、人間の別の機能に対して、慈悲を垂れてゐるといふ感を与へる。「知的」な概観的な
世界像に直面してゐる人間が、自分の一部分であるところの、さういふ世界像と無縁な部分に、慈悲を垂れるとは
何を意味するか。私は人間相互の問題といふよりも、人間一般の内部の出来事、といふふうに理解するのである。
たとへばわれわれは、水爆を企画する精神と無縁ではない。われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用する
ことと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。科学はさういふ風に発達して来て、精神の歴史にも関はつて
来たのであり、火薬の発明と活字の発明は、かつて手をたづさへて、封建制を打破したのであつた。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

358:名無しさん@社会人
11/04/24 21:07:40.99
現代の人間概念には、おそるべきアンバランスが起つてゐる。広島の原爆の被災者におけるよりも、あの原爆を
投下した人間に、かうしたアンバランスはもつと強烈に意識された筈であつた。被災者は火と閃光と死を見た。
それを知的に概観的に理解する暇はなかつた。相手が原爆であらうと、大砲であらうと、小銃であらうと、被害者は
いつも原始的な個体に還元され、死がさらに彼を物質に還元してしまふ。しかし原爆投下者はどうだつたか? 
彼は決して巨人の感受性にめぐまれてゐたわけではなかつた。彼の肉体は小刀にも血を流し、うすい皮膚の下には、
こはれやすい内蔵が動いてゐた。しかし彼には距離があり、はるか高みから日本の小さな地方都市を見下ろしてゐた。
人間の同一の条件についての意識は隠蔽された。むしろ彼はそれを押しかくした。おそらくいくばくの技術と
科学知識にめぐまれてゐた投下者は、巨大ならざる自分の感受性を、あの知的な概観的な世界像の下に押しつぶす
ことを知つてゐたのである。そしてかういふ小さな隠蔽、小さな抑圧が、十分あの酸鼻な結果をもたらすに足りた。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

359:名無しさん@社会人
11/04/25 11:48:21.46
ところがかうした投下者の意識は、今日われわれの生活のどの片隅にも侵入してゐて、それが気づかれないのは、
習慣になつたからにすぎないのである。われわれは、新聞やラヂオのニュースに接したり、あるひは小さな
政治問題にひそむ世界的な関聯に触れたり、国際聯合を論じ世界国家を夢想したりするときのみならず、ほんの
日常の判断を下すときにも、知的な概観的な世界像と、人間の肉体的制約とのアンバランスに当面して、一瞬、
目をつぶつて、「小さな隠蔽」、「小さな抑圧」を犯すことに馴れてしまつた。瞬間、われわれは巨人の感受性を
持つてゐるやうな錯覚におそはれる。私が諷して巨人時代といふのは、このことを斥すのだ。
かくて例の水爆実験の補償は、私の脳裡でふしぎな図式を以て、浮んで来ざるをえない。いづれも人間の領域で
ありながら、一方には、水爆、宇宙旅行、国際聯合をふくめた知的概観的世界像があり、一方には肉体的制約に
包まれた人間の、白血病の減少があり、日常生活があり、家族があり、労働があるのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

360:名無しさん@社会人
11/04/25 11:48:50.84
この二つのものをつなぐ橋が経済学だけで解決されようとは思はれぬ。この二つのものは、現代に住む人間の
条件であり、アメリカの富豪にあつても、焼津の漁夫にあつても、程度の差こそあれ、免れがたい同一の条件
なのである。(中略)
そして慈悲を垂れることが侮蔑を意味するなら、この現象は、人間が人間を侮蔑し、人間の或る価値が他の価値を
おとしめつつあることに他ならぬ。人間内部の問題だと云つたのはこのことである。
さて、かうした「巨人時代」が来てから、巨人的な精神といふものは、徐々に必要でなくなり、半ば衰減してをり、
政治の領域でさへ、四巨頭会議といふ用語は、首をかしげさせることになつた。世界の国々をめぐつて飛行機旅行を
した人には、実感のあることであるが、そのひどく無機的な旅の印象には、われわれの統一や綜合をめざす精神の
動きは入りこむ隙のない感を与へられる。

三島由紀夫「小説家の休暇」より


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