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東 批評というのは、ある意味で小説よりもはるかに競争が過酷なところがあって、
一時代に一人しか残らないんですよ。せいぜい二人か三人。同時代にいろんな人が書いていても、
完膚なきまでに忘れ去られる。批評の歴史というのはそういうものなんですよね。
平野 でも、それは環境の変化によって変わるものでもないんですか。
東 いや、そうじゃないと思います。批評もしくは思想というのは、
ある種の時代精神を体現せざるをえない、というか時代精神をむしろ作ってしまうものなので、
決定的な書き手はそんなに共存できないんです。だから、それは必然的にゲームになる。
批評は別にゼロ年代にゲームになったわけじゃない、本質的にそういう部分をもっているんです。
そして僕は、この十年間で比較的そのゲームに勝ったと思うんですが、「三十五歳問題」とも密接に関係する話ですが、 最近いろいろ面倒になってきてしまった。
平野 文学史の場合、戦後は結局、「第三の新人」とか「内向の世代」とか、完全に世代論になってしまいましたが、
明治の頃ってそうじゃなかったでしょう? 耽美派と自然主義は同時代にあったし、
硯友社のように結社的なものもあった。あれは中央集権化される前の藩のイメージを引き摺っている人たちの感覚だったと思うんです。
それが戦後になって世代論的になりましたけど、元々、一時代の多様な作家を同一性の下に一括りに出来るはずないんだし、
「J文学」にいたっては名称は完全に形骸化してしまいました。
僕は今みたいに作家の多様性が確保されているのはいいことだと思うんです。批評の場合、
そういう話にはならないんですかね?
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東スルーしてるけどさりげなく論破されてないか