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「南京虐殺事件」(1937年12月)
日本軍が首都南京を攻略した際、2ヶ月にわたって多数の中国人捕虜、敗残兵、便衣兵、一般民間人を殺害した事件。
「百人切り」(1937年11~12月)
南京攻略戦において野田少尉と向井少尉が敵兵百人切り競争をし、それを報道した東京日日新聞の記事が証拠とされ、戦後戦犯として処刑された事件。実際は100人も切っていなかったらしいが、0人ではなかったらしい。
「重慶戦略爆撃」(1938年12月~1941年9月)
日本陸海軍航空部隊が首都重慶に対し反復実施した大規模な戦略爆撃で多数の民間人死傷者を出した事件。しかし戦犯として訴追された日本人なし。
「七三一部隊と細菌兵器」(1933年~1945年)
石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的に人体実験を行う。七三一部隊の記録によれば1943年までの検体数は850体。
1940年10月27日に南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。この攻撃後から2ヶ月間の寧波市でのペストによる死者106名。ちなみに、日本は生物兵器を禁止したジュネーブ議定書を批准していない。
「真珠湾奇襲攻撃」1941年12月7日
ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺として原爆投下が正当化された。
「中立国タイとの交戦」1941年12月8日
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の許可前に南部タイへ上陸、タイ軍と交戦し、タイの中立を侵犯する。
「香港戦における英軍捕虜の処分」1941年12月18日
香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件。
「バリスト・スロン捕虜殺害事件」1942年1月22日
近衛師団長西村琢磨中将が、バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜の処分を命じ150名が処刑されたとされる事件。
事件自体でっち上げの説あり。しかし西村中将はこの事件の責を負わされ戦犯として処刑される。
「アレクサンドラ病院事件」1942年2月14日
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサンドラ病院を襲撃。軍医、看護婦、患者を殺害。被害者数200名