日本人が哲学を必要としない理由 3at PHILO日本人が哲学を必要としない理由 3 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト50:パレルゴン 10/10/27 09:54:26 0 もう一つだけ述べますと、フクヤマの「歴史の終わり」と言う説ですが、 彼はリベラル民主主義がその終着点としていますので、今のアメリカが ヘーゲル弁証法の終着点=絶対知=理想郷になります。 これ以降は、弁証法的な進展はなく、リベラル民主主義社会では、 民は豊かで安定した社会を謳歌することになりますね。 一方、同じく歴史の終焉については、アガンベンの「開かれ」と言う 本が説いていますね。これは、波平さんと何度か話をした記憶がありますので、 お互いにスムーズに理解できると思いますので、述べますが、コジェーヴ は「歴史の終わりには・・動物として生き続ける」とあり、 この辺は、東氏の「動物化するポストモダン」に引き継がれているのでしょうかね? 私にはよく分かりませんが、波平氏のコメントがあればどうぞ仰ってください。 また、哲学の消滅や革命の消滅、諸原理の変革動機の消滅が説かれ、 芸術、愛、遊びなど、人間を幸福にするものすべては、際限なく継続してゆくと しています。一方のバタイユは歴史の終焉後は「用途なき否定性」 が残るとします。エロティシズム、哄笑(大笑い)、死を前にしての 歓喜と言った中で「残余」として人間の否定性が残るとしています。 つまり、コジェーヴの解釈が、ポストモダン的、ネットワーク型 であるとすれば、バタイユのそれはポスト構造主義的、差異の戯れ と言う事になるでしょう。つまり、デリダの脱構築的な、あるいは ドゥルーズのリゾーム的なものでもあるでしょう。 今日、今感じたことを書いてみましたが、私の立場は、どの思想にも与しない それぞれの集団である、ジェンダー・クイア・マイノリティ等が 共可能的=それぞれが可能性に開かれ、承認される世界を、 ネットワーク型社会として模索していると言う事になろうかと思います。 誰も切り捨てない状態、それは、一つの価値観を規律訓練する国家の消滅後 に生まれるのかも知れませんが、そういう理念を探究したいのですね。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch