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一応澁澤龍彦訳で。《聖女》と《遊蕩児》《それらの一方を他方に帰属せしめ》る、言葉のまま
で、“遊び人の一部分としての生真面目”“生真面目の一部分としての生真面目”つまり、
“否定しあうままでない、どこかで肯定しあえる”という意味でしょう。で、《窮極の統一の
可能性》というのは、“否定しあったまま、否定しあうことにより統一性をみる”という意味
。例えば大人ほど、多様な人間性にいちいち意味付け、価値付けをやりたがるでしょう。
“真面目なだけでなく不真面目なところもあり、バランスがとれている”とか。人間性の
一々に価値付けをするわけで、価値付けされることで許容範囲のなかに入る。《窮極の統一
の可能性》という場合には、価値付けされず、否定しあったままである二項が、否定しあう
ことで人間性の深部を指示している、それが《窮極の統一の可能性》ということだと思いま
す。『エロテイシズムの歴史』に、《根源的な意味で、聖なるものとはまさに禁じられたもの
である。(中略)それはもはや軽蔑の対象となる獣性ではない。その相貌はしばしば動物
のままであるが、同時に、神性を帯びたものになっている。》(哲学書房 哲学文庫版 127
頁)ここがバタイユの根幹で、理性に否定された獣性は、次に様々な契機でそれが爆発した
とき、神性を帯びている、とされる。バタイユは矛盾・対立を抱えたものこそ人間性である
、と考えたから、そういった神学を作り上げたと思います。