ジョルジュ・バタイユ Georges Batailleat PHILO
ジョルジュ・バタイユ Georges Bataille - 暇つぶし2ch78:考える名無しさん
10/11/11 23:14:02 0
 一応澁澤龍彦訳で。《聖女》と《遊蕩児》《それらの一方を他方に帰属せしめ》る、言葉のまま
で、“遊び人の一部分としての生真面目”“生真面目の一部分としての生真面目”つまり、
“否定しあうままでない、どこかで肯定しあえる”という意味でしょう。で、《窮極の統一の
可能性》というのは、“否定しあったまま、否定しあうことにより統一性をみる”という意味
。例えば大人ほど、多様な人間性にいちいち意味付け、価値付けをやりたがるでしょう。
“真面目なだけでなく不真面目なところもあり、バランスがとれている”とか。人間性の
一々に価値付けをするわけで、価値付けされることで許容範囲のなかに入る。《窮極の統一
の可能性》という場合には、価値付けされず、否定しあったままである二項が、否定しあう
ことで人間性の深部を指示している、それが《窮極の統一の可能性》ということだと思いま
す。『エロテイシズムの歴史』に、《根源的な意味で、聖なるものとはまさに禁じられたもの
である。(中略)それはもはや軽蔑の対象となる獣性ではない。その相貌はしばしば動物
のままであるが、同時に、神性を帯びたものになっている。》(哲学書房 哲学文庫版 127
頁)ここがバタイユの根幹で、理性に否定された獣性は、次に様々な契機でそれが爆発した
とき、神性を帯びている、とされる。バタイユは矛盾・対立を抱えたものこそ人間性である
、と考えたから、そういった神学を作り上げたと思います。


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch