10/10/16 18:18:18 0
夫婦だああああああああああああああ????????
お前の脳みそが最初っから腐ってるんだろがあああああああああああ
279:考える名無しさん
10/10/16 18:40:09 0
いや、切実な話、師弟のうちの弟子となるよりは、
夫妻のうちの妻(雌雄のうちの雌)になるほうが、向いてそうだ。
おたくには東洋教学は向いてない。
280:考える名無しさん
10/10/16 18:55:06 0
東洋教学は儒教ばかりじゃない。
281:考える名無しさん
10/10/16 19:05:05 0
坂本“龍馬”の名でも言葉ばかりは有名だが、
「易経」乾卦と坤卦の動物での卦像がそれぞれ「龍」と「牝馬」。
龍のほうは場合によって地に伏せていたり(諸葛孔明の隠遁時のあだ名も「伏龍」だった)、
逆に一気に天上まで昇り詰めたりの、能動的な威厳の持ち主である一方で、
牝馬のほうは、「牛馬のようにこき使われる」という慣用句にもある通り、
目上の者などに受動的にこき使われる中でこそ、その能力を発揮する。
雌雄を決して、自分が牝馬となることで、牝馬ならではの本領が発揮される。
万事万物にはそうあるべき個別性があり、龍であることが相応しいものもあれば、
牝馬であることが相応しいものもある。確かに身分の上下などの差別も生じるが、
それはことに、易の卦爻表記などに基づいた場合には、完全に平等に扱われる。
282:考える名無しさん
10/10/16 19:34:32 0
師匠が弟子に教育上の序列を徹底さすのは、弟子を自分並みの境地にまで
上って来させるため。名刀を鍛え出すためにこそ、玉鋼も何度も何度も打ち固められる。
そもそも名刀になる素質もないくず鉄や非鉄金属のうちで、拵えの金具などに
する上では上質な材料などが、相応の加工を受けて美麗な姿ともなる。
そのようにして、妻や匹夫であるなりに相応の役目を果たすものであれば、
師匠に付いていく弟子ほどにも峻厳な仕打ちを被らなくても済む。
一生を妻や匹夫として終えるのならば、それでもいいのであり、
わざわざ上を目指そうとしない中にも、確かにそれなりの生き方がある。
名刀の鞘となれた拵えなどは、名刀ゆえに刀身の実用も憚られるために、
納刀された状態で人目に付くことのほうが多いから、名刀それ自体以上にも
人々の眼福を満たす素質が必要ともされるのである。
283:考える名無しさん
10/10/16 19:39:50 0
名刀は刀ではない。
284:考える名無しさん
10/10/16 20:10:47 0
実際論と比喩の区別も付かない。
285:考える名無しさん
10/10/17 19:17:55 0
妻となることと、弟子となることは別だ。
耶輸陀羅も仏弟子となった時には、すでに釈迦の妻ではなかった。
などという、高尚過ぎる例を挙げるまでもなく、家庭と教学は別だ。
教学部と婦人部を並べたりすることもなく、家庭のほうが上だ。
286:考える名無しさん
10/10/18 19:16:19 0
家庭と学問は、全くの別物。少なくとも儒家においては。
林羅山も、妻を亡くした時には多くの哀歌を詠ったほどの愛妻家だったが、
学問の峻厳さについては一歩も譲らず、ハビアンのような邪教徒を相手に
滅多打ちの論破を加え、自信喪失の後の棄教に追い込んだものだった。
スウェーデンの女王などとホクホクの講義生活を送ったデカルトのような、
学問面での遊びは一切許さない代わりに、家庭関係は師弟関係よりも大切にする。
それでこそ、一般名詞としての「儒者(学者)」の理想的な姿でもあるのであり、
利権や情愛などのために曲学阿世に及んだりするのでは、鶏鳴狗盗の食客止まり。
287:考える名無しさん
10/10/19 14:25:22 0
ハビアンが地動説を唱え、ラザンが天動説を唱えたと言うのは、矛盾してるのだ。
いい加減なことをいわないように。まして、ハビアンを打倒したという様な事はありえないこと。
288:考える名無しさん
10/10/19 18:55:48 0
打倒されてシクシク泣いてりゃいいじゃん。
そのほうがよっぽどかわいいよ。
289:考える名無しさん
10/10/24 18:42:56 0
「それ自身の光によって〔統覚機能の〕諸観念を照らし、その諸観念を対象と
している認識主体を、統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは、愚者だけである」
(岩波文庫「ウパディーシャ・シャーハスリー」一・一五・二七より)
「認識というアートマンの光輝に照らされて、統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他には認識主体は存在しない、と考える。これこそじつに統覚機能にある錯乱である」
( 同 一・一六・六〇)
「認識はアートマンの本性であるから、認識は、統覚機能に対して、
〔用いられるとしても、それは〕つねに譬喩的に用いられるのである」
( 同 一・一六・六一より)
「識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の
なにものも〔輪廻〕ではない。解脱とは、正しくその〔識別智の欠如を〕止息することである」
( 同 一・一六・六一-六二より)
これらの記述の意味するところが分かるか?
290:考える名無しさん
10/10/27 22:05:35 0
分からないから答えられないのか、分かっても答えられないのか知らないが、
一応答え合わせをしてみようか。
「それ自身の光によって〔統覚機能の〕諸観念を照らし、その諸観念を対象と
している認識主体を、統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは、愚者だけである」
→イデア論(概念論)の否定
「認識というアートマンの光輝に照らされて、統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他には認識主体は存在しない、と考える。これこそじつに統覚機能にある錯乱である」
→コギト(我れ思う、故に我れ有り)の否定
「認識はアートマンの本性であるから、認識は、統覚機能に対して、
〔用いられるとしても、それは〕つねに譬喩的に用いられるのである」
→グノーシズム(認識主義)の否定
「識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の
なにものも〔輪廻〕ではない。解脱とは、正しくその〔識別智の欠如を〕止息することである」
→ソフィズム(智識主義)の否定
291:考える名無しさん
10/10/28 15:17:08 0
本流のインド哲学って、西洋哲学をことごとく否定した内容になってるんだな。
バラモン・ヒンズー教系のインド哲学に異を唱えている、仏教だけを見ても気づかないが。
292:考える名無しさん
10/10/28 17:44:52 P
シャンカラは唯名論だから仏教に近いし、カントにも近い。
293:考える名無しさん
10/10/28 19:38:55 0
近いもんかよ。カントとは真逆のことを言ってんよ。
自性(物自体)が経験や認識によって把捉することが不可能であるとするカントの主張とは違い、
シャンカラ含むヴェーダーンタ学派は、「そうではないそうではない(ネーティネーティ)」の積み重ねという
知識的な経験によって、あらゆる感覚的な現象を超えた所にある自性、アートマンが捉えられるとしている。
自性を肯定否定織り交ぜた構造的な論及によっていじくった挙句、「自性は捉えられない」と断じたカント。
徹底的な現象構造の否定の重畳によって、自性を捉えることによる統覚機能の解脱を可能としたシャンカラ。
否定の重畳の先にアートマンと呼ばれる主体的な自性が実在することを説いたのがヴェーダーンタ哲学で
あるのに対し、否定の重畳の先に一切皆空という真理を見出したのが般若哲学。これらもまた異質である
部分を持つのは確かだが、否定の重畳が解脱などの結実を可能とする点では一致しており、そもそも
否定の重畳を試みることも、それにより自性の実在を追い詰めきることもなかったカント哲学こそは、
ヴェーダーンタ哲学とも般若哲学とも相容れない、片手落ちの要素を持ち越したままでいる。
294:考える名無しさん
10/10/28 19:55:45 0
ヘーゲルの精神現象学も、原題は「Phanomenologie des Geistes」。
精神が現象構造であるという立脚は、構造的な思考が自我の根拠であるとするコギトにも依っているし、
自性の把捉が不可能であるとしたカントの主張にも即している。シャンカラに言わせれば、
そんなものは愚者の錯乱に過ぎないのであり、統覚機能が感覚的な把捉の対象とする
構造現象が「自性」や「精神」であるわけがないのであり、せいぜいそれは右脳が司る
感情的な意志である程度のもの。もちろん、意志を物自体と同一視したショーペンハウアーも
あまり高尚なことをしたとは言えず、西洋哲学はことごとくそのいずれもが、純粋精神アートマンの
把捉にまで到達できない範囲での、精神だと思い込んだ感情の分析に終始してしまっている。
295:考える名無しさん
10/10/28 20:29:58 P
『純粋理性批判』におけるカントのデカルト、プラトン、ライプニッツ批判は、立場は違うが
、理性の越権行為を禁じているという意味でシャンカラと同じ手続きを踏んでいる。
ただ、同じ批判が自己にも適用されるという部分がカントを近代的哲学にしている。
296:考える名無しさん
10/10/28 20:39:55 P
無論カントは西欧文明特有の二元論の欠点を抱え続けており、その点は指摘しなければならないが、
自己は世界外存在と考えた点は特筆されるべきだ。
297:考える名無しさん
10/10/28 20:48:02 0
>>295
そもそも、統覚機能が情報処理構造上に創造想像しようとする
概念(イデア)が理性であることからシャンカラは認めていない。
ならずならずの重畳、万事万物の現象的な構造を否定し尽くした先にある
認識主体たるアートマンこそは、自性であると共に理性の本源でもある。
理性が概念を本拠地としていることを論拠に、カントは理性を批判したが、
そもそも概念が理性であることから認めていないシャンカラの意見に基づくなら、
理性を概念に付与したプラトンがマッチであり、そういう意味での理性を
批判したカントがポンプであるだけの、無味乾燥としたマッチポンプ劇が
西洋において繰り広げられていただけにしかならない。
理性ではないことを根拠に概念論を否定したシャンカラと、
理性であることを根拠に概念論を批判したカントを同列に扱ってはいけない。
298:考える名無しさん
10/10/28 21:10:52 0
>>296
自己が世界外や宇宙外の存在であることを、シャンカラが認めたわけでもないのだ。
脳内の概念論などによって、真理(ブラフマン)とも同一であるアートマンが捉えられないように、
形而上に構造的な自己が存在する余地などもないのだから、構造的な自己を完全否定
し尽くした先にこそ、ブラフマンなるアートマン=理性でもある真我を見出している。
自性の把捉可能性を否定し、自性としての理性を批判したカントが、自己を世界外や
宇宙外の存在と捉えたのなら、それは、可能な限りでの上達に至らないままの自己を、
到達不可能な領域である形而上に仮託して、己れの至らなさを慰めただけであるといえる。
結局、西洋人のやっていることは、キリスト教を全廃でもしない限りは、
娼婦の私生児のカルト教義と同等であり続けるのである。