10/09/16 21:58:51 0
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3:考える名無しさん
10/09/16 22:15:56 0
サーバ落ちが復旧されないかしばらく見守っていたが、どうやら復旧不能のようなので、新たに立て直した。
アメリカに2chのサーバ所有権が完全に移ってから、欧米に都合の悪いことを書いただけでこの始末。
テネシー州のキ○○イ牧師も911にコーランを焼いたようだが、今どき焚書坑儒の目などに遭わされるとはな。
秦代の焚書坑儒時に、家の壁中に「書経」を塗り込んでその一部を保全した伏生にもならって、過去ログも
個人的には保存している。どうしても読みたい人間がいるのなら、アップロードなり何なりしてやってもいい。
同名のスレが別人の手で立てられているようだが、番数もない上、自分たちで勝手な物言いをしてるだけ
のようなので、完全に無視の対象とする。「正統」な論議のしたい者は、必ずこちらに来て議論するように。
4:考える名無しさん
10/09/16 22:36:06 P
インド哲学相関年譜(宮元啓一『インド哲学七つの難問』24頁↓)
URLリンク(pds.exblog.jp)
5:考える名無しさん
10/09/16 23:07:43 0
重要なのは~学派であることでも~論であることでもない。
その先に捉えられている真理の真贋や捉え方の巧拙だ。
6:考える名無しさん
10/09/17 00:12:29 P
『先達は何れの事にもあらま欲しき事なり』徒然草
7:考える名無しさん
10/09/17 00:38:09 0
欲するのは墓穴を掘り下げる先達ではなく、
墓穴を埋め立てて山を登り行く先達だがな。
・・・・
/
(より優良化) 大乗仏教
↑ /
……無学……………………小乗仏教・道家………
\ ↓ /
洋学 (より劣悪化) 儒学
\ /
ユダヤ 浄土教・イスラム
\ /
キリシタン
8:考える名無しさん
10/09/17 10:34:35 0
夏桀・殷紂・秦始皇・ナザレのイエス・・・
墓穴を深く掘り下げる愚行の面での先達も数多い。
しかし、それらはあくまでそのまま見習うべき存在ではなく、
「そうあってはならないもの」としての、反面教師にこそすべき存在。
「徒然草」は、日本古典の中でも道家的な側面の色濃い古典なので、
なんでもかんでも的なことも書いてあるんだろうが、やはり隠遁や
出家といった社会的退避の実践に基づいて書かれている。
何もしない立場から「なんでもアリ」とするのは高尚でも、
自分自身が本当に悪行に手を染めたのでは、一概な善人にも劣る。
9:考える名無しさん
10/09/17 10:54:19 0
一概な悪行に邁進<一概な善行に邁進<何もしないで善悪を諦観
というのが、弘法大師の「三教指帰」や「十住心論」などからもうかがえる、普遍的な序列。
「一概な悪行」のうちには、悪行が善行の分量を大幅に上回る善悪みそくそ行も含む。
何もしないでいるからこそ善悪全般を諦観している、道家や仏教などの論及に色めきだって、
一概な悪行に邁進している愚人どもが、道家や仏教の教義を自己正当化の材料にしようとする。
それこそは東洋教学における禁忌中の禁忌であり、東洋教学がカルト利用される黄金比でもある。
実践から何もしないでいてこその道家だし、乞食行などの超俗的な修行にのみ邁進してこその自力仏教でもある。
実践が金融強盗であったり、権力や財力の貪りであるのなら、道家や自力仏教の徒であることを自認して
いいはずもなく、俗世での善行や他力往生を追い求める儒家や浄土教にも及ばない、ただの犯罪カルトに過ぎない。
10:考える名無しさん
10/09/17 11:28:12 0
最高権力者だったカエサルやアレクサンドロスからして、
儒家で劣等扱いされる覇道を突き進んだきりでそれでよしとしている。
政治面からの本格的な実践など皆無だった洋学のペースに基づいて
道家や仏教の教義をも研究対象にしようとする。全く意味のないことだ。
武道の教則本を読んでああだこうだとわめき立てながら、
自分たちが本当に武道をすることは絶対にない。
ただ読むだけ、頭で考えるだけで済ませるのではなく、確かな実践を目的としているからこそ、
諸子百家の文言なども、ギリシャ古典などと比べて素朴で飾り気がない。孔子や孟子といった
思想家たちも、実際に政治家や政治顧問として大いに活躍もしていたために、本人たちの
著作がそんなに体裁を整えられた形で残されているわけでもない。そうであることをいいことに、
文飾豊かな西洋古典などと比べて東洋古典を劣等扱いしたりするのでは、全くの本末転倒であり、
東洋古典が素朴なのは、それが実践と密接に関わっていた証拠でこそあり、故にこそその
文言が、自分たち自身の本格的な実践材料とする上での確かな効能を持っているのでもある。
象牙の塔にひた隠された餅の絵ではなく、天下万民に食える餅を供する指南書であればこそ。
11:考える名無しさん
10/09/17 11:38:57 0
>>9
>一概な悪行に邁進<一概な善行に邁進<何もしないで善悪を諦観
>
>というのが、弘法大師の「三教指帰」や「十住心論」などからもうかがえる、普遍的な序列。
>「一概な悪行」のうちには、悪行が善行の分量を大幅に上回る善悪みそくそ行も含む。
>
>何もしないでいるからこそ善悪全般を諦観している、道家や仏教などの論及に色めきだって、
『十住心論』で説かれるのは、「何もしないで善悪を諦観」といっても凡人がなにもしないで、ボーっと何も考えない、何もしないで見てるだけということじゃないですから。
そりゃ現代語の「諦観」であって本来仏教でいう「諦観」ではないですから。
仏教でいう「諦観」は少なくとも三昧に入れる集中力が前提とされるものですので、そういった現代人の現状肯定のために仏教を使っているなら、やめてくださいね。
12:考える名無しさん
10/09/17 11:58:54 0
「史記」大宛列伝には、すでに既出の身毒(現インド)の他にも、西方の国名として
康居、大夏、安息、奄蔡、黎軒などが出てくる。康居は現キルギス、大夏は現北アフガニスタン、
安息は現イラン、奄蔡は現シリアと、一応かなりの知識的な地理把握が行き届いている。
そして黎軒が、ヨルダンのペトラだとの説もある一方で、エジプトのアレキサンドリアか、
はたまたローマだったとの説もある。「史記」の時点で、すでにローマの把握にまで行き着いていたと。
ギリシャ以東の世界を未だ「アジア」の一言で片付けようとする西洋と比べて、なんと見識の広いこと。
西南夷や大宛といった西方の隣国とも国交を開くことで、未だ自分たちが赴いたことのない西方の遠国にまで
把握だけは行き届かせている。知識としての把握があったから、無闇な恐怖感なども抱かずにいたので
あって、逆にアレクサンドロスの東征などは、東方への無知ゆえの恐怖感がけしかけたものでこそあった。
中国こそは世界の中心であるとする中華思想が、さも覇権主義的な性格までをも帯びていたかのように
思われがちだが、北方の匈奴などの特に悪辣な蛮族を除いて、隣国との国交はそれなりに親密なものであった。
自国の文化が中華的な色調を帯びる漢化も、隣国の側から自主的に取り入れていった場合が多く、日本も
そのうちに入る。他国を征服して強制的に文化を挿げ替えるようなことも、漢文化に関しては例外的なことで、
蛮族匈奴との外交もなるべく自粛するなどの措置がとられている。漢民族が伝統的に征服主義を重んじてきた
事実などはないのであって、征服主義一辺倒だった西洋史との混同がそんな誤解を生じてしまっている。
13:考える名無しさん
10/09/17 12:05:39 0
>>11
道家の「何もしない(無為自然)」は本当に何もしないことで、さも赤ん坊のごとくであると弘法大師も述べられる。
自力仏教の場合は「俗世において何もしない」という意味での「出家」のもとに、超俗での厳しい修行に励む。
道家の教理は何もしないだけの現代人にもそのまま適用できるが、自力仏教がそのまま適用できないのは確か。
ただ何もしないだけの現代人が、重犯罪者などよりはまだ仏教の境地に近いということは言えても、
決して仏教を会得できているなどとは言えない。聖道門の自得者となるのは、出家や受戒から先の話。
14:考える名無しさん
10/09/17 13:05:36 0
>>13
ぐちゃぐちゃな上に私見混入してるぞ
もうちっときっちり読めよ。
15:考える名無しさん
10/09/17 13:11:23 0
仏教って葬儀屋の一種だろ? 偉そうなこと言ってんじゃねえよw
16:考える名無しさん
10/09/17 13:29:39 0
>>15
いやいや、そりゃ勘違いも甚だしいぞ
現在の日本仏教が仏教を逸脱してバラモン教かシナの道教みたいな、
祖霊祭官みたいになってるってだけだ。
例えばシェークスピア原作の学芸会を見て、シェークスピアはマンガみたいなもんだろって言ってるようなもん。
本物の仏教はビルマとチベットにある。
その国の本物の僧侶を見て言ってくれ。
あの中共でさえ本物のチベット僧には敬意を払って収容所内で自由にさせていたんだよ。
そういう本物を見みてね。
17:考える名無しさん
10/09/17 13:30:05 0
廃仏毀釈後の、世襲制でなんとか系統を保っている今の仏門は、実質どれも浄土教止まり。
室町時代の蓮如のころから、浄土教だけは本尊をも商売道具扱いする俗人気質。ただ、
それにしたって、念仏に即して商売してるぶん、基づいてすらいない今の犯罪労働者よりはマシ。
労働者が誰も彼も凶悪強盗殺人犯と化したに応じて、仏門のほうもその程度を下げている。
犯罪労働者が軒並み檻の中に入るに応じて、仏門のほうもまた元の聖道門を活性化させる。
18:考える名無しさん
10/09/17 13:42:48 0
チベット仏教はボン教由来の呪術とか使いそうだから、
迷信深い中共の下っ端公務員脅してやりたい放題してたんじゃね?
それが威張れた話か?
19:考える名無しさん
10/09/17 13:51:39 0
ビルマとかチベットとか仏教の支配力が強く多くの利権を抱えている国の方が、
退廃振りはひどいんじゃねえの? そりゃ、卓越した個人はいるかもしれないが。
20:考える名無しさん
10/09/17 13:52:56 0
一般に、人類文化は東方に行くほど優良化し、西方に行くほど劣悪化している。
中国や日本などの東方へと伝播した仏教が、相当な変質を果たしたのも確かだが、
それはそれで独特の加味がなされており、特に道教や神道との混交が、独特の文化としても隆盛した。
そういうことは、西方への伝播としてはあり得ない。仏教と拝火教とキリスト教の混交宗教だった
マニ教に帰依していたアウグスチヌスが、小乗仏教の無賊害心(法句経)の教義を剽窃して
自殺しまくりだったキリスト教徒に自殺の禁止を布令したなど、確かに伝播がなかったわけではないが、
その伝播の仕方が姑息であり、異文化を直接受け入れる寛容さなどが全く見られない。
ヴォルテールやミュラーによって学術的に儒家や仏教が研究対象とされて以降も、
西洋で儒家や仏教が本格的な実践対象とされることはなく、孟子の易姓革命論がひどい曲解を
介しつつフランス革命の参考とされたり、座禅やヨガがエクササイズの一種として取り入れられたり
するに止まる。かつての中国や日本が仏教を取り入れたり、日本が儒学を取り入れたりした場合のような
本格的な実践込みの東方文化の受け入れというものが西洋には全くない。それは、東方文化のほうが
優良で西方文化のほうが劣悪だから、東方が西方の文化を取り入れて実践することなどできないから。
シェイクスピアを漫画化することはできても、漫画をシェイクスピア化することもできない。
何しろ漫画のほうがまだシェイクスピアよりもマシだから。優良なほうは劣悪なほうを取り入れることが
できても、劣悪なほうは優良なほうを模倣することもできないのも、文化の非可換性の一つである。
21:考える名無しさん
10/09/17 13:54:18 0
重複
東洋教学総合スレ
スレリンク(philo板)
こっちへ移動
スレ削除依頼予定
22:考える名無しさん
10/09/17 13:57:11 0
>>21
スレ番も付いておらず、テンプレなどの体裁も整えられていない、
そっちのスレのほうが、どちらかといえば削除されるべきだ。
別に自分は削除依頼しないが、どちらかを削除するというんなら。
23:考える名無しさん
10/09/17 14:00:51 0
>>20訂正:
×東方が西方の文化を取り入れて実践することなどできないから。
○西方が東方の文化を取り入れて実践することなどできないから。
24:考える名無しさん
10/09/17 14:10:02 0
削除出しました
以降東洋教学総合スレ
スレリンク(philo板)で
天プレは次回より
25:考える名無しさん
10/09/17 14:10:48 0
>>18-19
想像とか伝聞で語るなよ。
>>20
妄想レヴェルだな。
ミュラーってマックス・ミュラーか?
そこら辺の西洋人の仏教理解はたかが知れてるよ。
オルデンブルグにしてもフラウワルナーにしても、
文献学は緻密だが、本質は分かってない。
ヒンドゥーと同じだと解釈してる。
それでは縁起・空・無我が分からないと告白してるのに等しい。
26:考える名無しさん
10/09/17 14:28:10 0
文字文化的にも、難解さの順位では明らかに
漢字>梵字>アラビア文字>ギリシャ文字>アルファベット
だからな。書道すらない、簡易な文字の扱いばかりに
慣れてきた連中が、東方に行けば行くほど難しくなる文字文化を
判読する努力をする気すら起きなくなるのも当然だろう。
難解な文字の理解度は、本人の精神力に比例する。
難解な文字ほどその理解により強靭な精神力を要し、
簡易な文字ほどその理解に薄弱な精神力しか要しない。
簡易な文字を理解するレベルの精神力しか養ってきていない人間は、
難解な文字を理解することには気が遠くなるような絶望感を抱かされる。
逆に難解な文字の判読に慣れてきた人間には、アルファベット級の
簡易文字を今さら本気で読む気にすらなれない。そこ込められている
意味が、精神薄弱者なりのものでしかないことが見るに明らかだから。
27:考える名無しさん
10/09/17 14:31:24 0
>>26
あんたもいいかげんスレチ。スレタイ偽装で削除が出てもいいくらいなのに
ちょっとは空気嫁
28:考える名無しさん
10/09/17 14:38:28 0
日出ずる東方を目指してそこに居ついた東洋人は、実際に光を欲していたわけで、
北半球では南側に太陽が昇ることから、中国の皇帝も南面(南を向く)することが正しい居座り方だとされる。
東西の違いによって日当たりの強さが変わるわけじゃないが、東を目指していた人々は
日当たりを欲して、明るみの中に文字も読み書きしようとしていたから、暗がりでは読みにくいような
複雑で難解な文字文化を醸成させた。逆に日当たりを忌んで西方や北方に逃避し、
暗がりの中での生活を欲した西洋人は、暗がりでも読み書きできるような簡易な文字文化に終始した。
東方にいくほど文字文化が複雑で難解となり、西方にいくほど文字が安易で簡略となるのにも、
こんな理由が備わっていたからだろうと思われる。日当たりへの好悪が、文字の難易度に比例したのだと。
29:考える名無しさん
10/09/17 14:41:56 0
東洋教学ってのはつまりト印空想のことなのか?
30:考える名無しさん
10/09/17 14:45:30 0
再度誘導
東洋教学総合スレ
スレリンク(philo板)
31:考える名無しさん
10/09/17 14:46:37 0
>>26
おいおい、複雑な文字なら高度なのか?
漢文とサンスクリット読み比べると明らかに論理性や明解さで、
サンスクリットの方が上に思える。
漢文は、伝承や解説がないと分からないようになっているが、
サンスクリットは、かなりのレヴェルで解釈可能。
しかも、パーニニという現代言語学が驚愕した勝れた文法がある。
一方、漢文はサンスクリットの影響でも文法は成立せず、
西洋文化が入ってからやっとしょぼいものが成立した。
まあ、詳細に比較すれば漢文も勝れた面も多いが、
サンスクリットの方が圧倒的だという印象をオイラは持つね。
32:考える名無しさん
10/09/17 14:49:11 0
>>31
その人はおかしい人だからかまわないように
33:考える名無しさん
10/09/17 14:54:41 0
げ、ネタにマジレスかよ(○_○)
34:考える名無しさん
10/09/17 14:56:15 0
うわw冗談かと思ったらマジで削除出てる
対応早すぎw
>>26井上さんでしょ?今はおとなしくしてたほうがいいよ
それが兵法。
35:考える名無しさん
10/09/17 17:13:07 0
>>31
高度さにもいろいろあるが、東方の複雑な文字ほど精神的に高度な一方、
西方の簡易な文字ほど精神的には低劣だ。ただ、精神的に低劣な連中ならではの
独特の文化文明を生み出したのも確かで、アルファベットやギリシャ文字で
構築された数式やプログラムを、すべて漢字や梵字に置き換えるのもなかなか難しい。
ただ、その数理情報科学などの面でも、東洋人による大きな貢献があり、
西洋がキリスト教支配で暗黒時代に突入していた頃に、科学知識を温存していた
中東の代表的な科学者の一人がフワーリズミであったりする。決して科学や数学も
西洋の専売特許ではなく、特に重大な部分において多くの東洋人による協力があった。
スレッド名が「東洋教学」だからといって、論題を東洋宗教などに限定する必要もない。
もちろんここは哲学板なので、あからさまな科学や数学の議論は避けるが、
東洋教学と科学文明との連関なども、一つの論題とするのはありだろうと思われる。
36:考える名無しさん
10/09/17 18:33:58 0
コーラン焼却すら「言論の自由」を根拠に是認したアメリカが、
自国内のサーバに書き込まれる聖書批判や欧米批判には制裁を加える。
そういう二枚舌姿勢が、資本主義社会の根本的な腐敗をも露呈している。
こちとらただ、考えうる限りで最も粗末なコミュニティへの書き込みをしているだけなので、
削除されようがサーバ落とされようが痛くもかゆくもない。むしろネットストーカーどもの
見苦しい横槍レスも見なくなって済むんだから、より精神衛生上健全になるぐらい。
わざわざ相手をしてやってるのは、おまえらじゃなくてこっちなのだから。
「おまえの意見なんか見聞きもしたくない」ってんなら、それでも全く結構なわけだが。
37:考える名無しさん
10/09/17 19:31:18 0
表音文字を用いるアラビアの、それもギリシャの科学を受け継いだ
科学者を取り上げ、それを「東洋人」の例として挙げるかね?
もう西洋をけなし東洋を褒め称えられれば、何でもありだな。
一昔前のヨーロッパ中心主義を裏返しただけのこういう偏見の吐露は
もううんざりだ。
38:考える名無しさん
10/09/17 21:12:08 0
スレの趣旨と違う内容は削除対象だから
続くようだったらスレ削除と同時にレス削除も出します。
39:考える名無しさん
10/09/17 22:14:34 0
>>37
まさにその、欧米中心主義の裏返しであり、欧米中心主義によって掘り下げられてきた
墓穴を埋め立てて、全欧米社会がムスリムあたりに禁治産処分を受けたあたりから、
もういちいち欧米なんかを引き合いには出さなくなる。
地球人類の2割以下の人口で、8割以上の地球資源を独占し続けている強盗集団の分際で、
矢面に立たされることなくひっそりとしていられるなどと考えるほうが大間違い。
その強盗行為の道具となっている近代科学の基礎も、この前アメリカが侵略を行った
イラクの大科学者などによっても温存されていたからこそ、今にまで伝えられている。
恩をあだで返す所業にも手を染めておいて、えらそうな口を利くほうがおかしいのであって、
何一つとして自分たちから積極的に意見すら述べず、完全に従順なままでいるぐらいでちょうどだ。
40:考える名無しさん
10/09/17 22:29:10 0
「こんな鬼畜集団が管理しているサーバーの、便所の落書きに
わざわざ意見を書き込んでいただいて、まことにありがとうございますぅ~」と、
どぶの底で素っ裸でボウフラにまみれて土下座しながらでも感謝すべきところだ。
まだチラシの裏にでも意見を書いて、タンスの奥にでもしまっていたほうが
マシなほどにもしょうもない反応しか返ってこない、自意識過剰の精神薄弱者の溜まり場で、
水面の上に返しもなくまっすぐな釣り針をぶら下げて魚が釣れるのを待つ太公望ほどにも
実のない釣りをやっている。そりゃあ俺が、それほどにも自ずから大満足な人生を送れて
いるからできることで、不満や憤怒の塊であるなら、始めからこんなところに居すらしない。
不満たらたらな小人たちに、もう少し満足な人生の送り方を指南してあげようかという
菩薩にも紛う慈悲を抱いて、教えてあげることにかけてはやぶさかではないこの俺に、
逆に地獄の鬼畜どもが意見を述べて教え諭そうとする、糞喰らいが美食家にものの
うまさを教えようとする、その愚かしさもまたお前ら自身の不満の源であり、ただひたすら
人生の先達の教えに耳を傾けているのみであることでのみ、おまえらの渇きも癒される。
41:考える名無しさん
10/09/17 22:59:53 0
スレもレスも、削除したけりゃすりゃあいい。
砂漠のど真ん中で渇ききった自分たちの前にある飲み水を
撒き捨てたいってんなら、撒き捨てりゃいい。
それでより渇くのはおまえら自身なんだから、
自業自得の苦しみを自力で増やそうとする相手なんか、
阿弥陀様だって救済をご免こうむるだろうしな。
42:考える名無しさん
10/09/18 10:23:01 0
>>12で書いたとおり、司馬遷が「史記」を書いた前漢中期の時点ですでに、
中国人は知識的には中東地域までのかなり詳細な地理把握を済ませている。
ただ、あくまで隣国からの伝聞や伝聞の伝聞であり、中国人自身は中東はおろか、
より地理的に近いインドにすらまだ赴いたことはなく、その経路すら見定まっていなかった。
ヒマラヤ山系やゴビ砂漠、タクラマカン砂漠などの地理的障害に阻まれてというのもあるが、
何より春秋戦国時代までの中国においては、修身ならぬ「修国」が何よりの主題であり、
内政ばかりにかかずらわって、なかなか外交にまで配慮が及ばなかった。
中国それ自体が「一つの世界」というほどにも、甚大な規模をこの頃から帯び続けて
いるのだから、「小さな世界に引きこもって世界の大きさを知らない」などという構図が
当たるわけではないが、15000年以上前から長江流域などで土着的な農耕生活を
送り続けている漢民族にとっては、全世界中を駆け回るよりも、自分たち自身の
生活の堅固さの確保のほうが重大課題であり、そこから自明に王道優位覇道劣位の
結論が導かれもした。古来に農耕民族だったか狩猟民族だったかはともかく、農耕に
基づく堅実な生活基盤が確保されてこそ、初めて文明もある程度以上の発展を見せる。
東洋と比べればずいぶんと農作の発明や定着が遅れた西方社会においても、やはり
麦などの農作に頼りつつ人間社会の規模を拡大させることで、文明をも発展させている。
そうである以上は、外交を疎かにしてでも、土着農耕民族としての自分たちのあり方を
徹底して研鑽しぬいた漢民族の知恵を、遠い異文化として異端視しているわけにもいかない。
43:考える名無しさん
10/09/18 11:23:07 0
いまの地球人類社会こそは、東を絶海に、西を砂漠に、南を大山脈に、北を匈奴に阻まれて
どこにも逃げ場のない漢民族社会も同然の閉鎖状態となっていて、大枚をはたいて
数人の飛行士を大気圏外へと送り出す程度のことはできても、人類の大部分を地球外へと
送り出すようなことはまず不可能。ユーラシア大陸の西方へと追いやられていた白系種族が、
さらなる逃避の場としたアメリカやオセアニアなども、当人たちが征服してしまったからこそ、
もはや際限のない逃避先としての価値を失ってしまっている。
地球の裏側ともネットで通じ合える昨今、最重要なのはもはや外交ではなく
地球人類総力を挙げての修身であり、自分たちのあり方に対する内省でこそある。
そうであるが故にこそ、どこまでも侵略や博物の魔の手を伸ばしていった洋学などではなく、
「戸を出でずして以て天下を知り、窓をうかがわずして以て天道を見る(老子)」というほどにも、
自分たち自身の内省に努めていた東洋教学の価値が見直されるべきであるといえる。
諸子百家にも名家や雑家のような概念志向や博物志向の学派もあるし、
華僑や印僑のように外交戦術に長けた東洋人も多いわけだが、いま参考とすべきなのは、
外向性を疎かにしてでも自省に努めてきた東洋人の叡智であり、内的な不満を
外部にぶつけて気を紛らわす醜悪さの、十全な修身による払拭方法でこそある。
44:考える名無しさん
10/09/18 12:57:18 0
「史記」大宛列伝で、使いとして西方に赴いた張騫が、ペルシャこと大夏を見聞した感想として
「大国ではありますが、兵力は弱いです」と今上帝の武帝に奏上している。アレクサンドロスが
一騎当千の奮闘で破ったといわれるペルシャ軍も、当時の漢からすれば弱小の部類だったと。
もう、この件についてはこれ以上は触れまい。
大宛列伝まで読み終わって、邦訳「史記」の通読も残りわずかとなった。
陸賈や叔孫通といった大物よりはもう少し下位にあたる、小粒の儒者たちの漢代の行状を記した
儒林列伝も読んだが、だいたい五経の解説書やウィキペディアなどで学び終えていたことで、
そんなに真新しい発見はなかった。中国正史がことさらに学門を持ち上げたりはしていない。
それよりも特に印象的だったのは、儒林列伝よりもむしろ、その後に出てくる酷吏列伝のほう。
鬼平がいる。
「酷吏」とは今の警察や検察、裁判所や刑務所といった法務機関の従事者のことだが、
法律万能主義である現代社会や秦代の中国と違って、漢代の中国は徳治主義であったために、
いまの法務機関にあたる役所ですら、そんなに法律ばかりを振りかざしてはいない。もちろん
申不害だの韓非だのの法家思想を貴ぶでもなく、かなり融通の利いた刑事処理が行われている。
45:考える名無しさん
10/09/18 13:00:10 0
融通が利いた結果として、酷吏には盗賊上がりだの(義縦)、撲殺死体遺棄経験者だのの(王温舒)
ろくでなしが多く携わっている。もちろん公僕として振舞う程度の文武の素養は身に付けているわけだが、
賄賂で罪を許したりの悪辣な酷吏もいたわけで、司馬遷はあえてそのような最悪例ではなく、
犯罪者を懲罰する酷吏なりに有能だった人々を挙げているが、それでも履歴がひどかったりする。
若い頃には賭場や岡場所で遊びまわっていた鬼平にも通ずるところで、「法務は下賤の仕事(韓非子)」
という法家の本義にも実はかなっており、法律家が貴人ぶって偉そうに振舞っている今のほうがおかしい。
いまの法務官たる酷吏が賤人によって司られ、勧善懲悪どころか、もはや勧悪懲悪とでもいうほどにも
悪辣な手段すら用いて犯罪者の捕縛懲罰に臨んでいて、にもかかわらず世が治まっていたのは、
世の中を法律ではなく仁義道徳によってこそ規律し、そのために多くの儒者を養って、本格的な礼楽統治
をも国を挙げて実践していたから。治国のもといを法文ではなく経書にこそ頼っていたから、酷吏たちも
法文による自縄自縛を取っ払って、融通の利いた犯罪懲罰を実行することができ、世もうまく治まった。
法律万能主義は儒家による仁徳統治を害する上に、酷吏たちの存分な活躍すらをも抑え付ける。
結果、罪を犯させて罰を科す、善悪みそくそなマッチポンプの共食い状態へと、世の中全体が陥ってしまう。
儒者の復権のためだけでなく、鬼平のような有能な酷吏の活躍のためにも、法治主義の廃絶が急務である。
46:考える名無しさん
10/09/18 15:33:53 0
Warning! 警告
URLリンク(info.2ch.net)
4. 投稿目的による削除対象
スレッド
掲示板の趣旨に関係があり、論理的で主観だけではない批判は残します。
掲示板の趣旨に関係があっても、利用者の気分を害するため・利用者を揶揄するために作られたと判断したものは削除対象になります。掲示板自体の事象や参加者に関するもので、議論にならないと判断した場合も同様です。
レス・発言
議論を妨げる煽り、不必要に差別の意図をもった発言、第三者を不快にする暴言や排他的馴れ合い、同一の内容を複数行書いたもの、過度な性的妄想・下品である、等は削除対象とします。
差別・蔑視 *
地域・人種などの差別発言は人権問題板で、蔑視的思想発言は政治思想板で、それ以外は削除対象になります。
上記2板を含めて、差別・蔑視の意図がある地域名または苗字等の書き込みは、その真偽を問わず削除対象になります。
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿
スレッド
それぞれの掲示板の趣旨は、カテゴリと掲示板の名称によって判断します。ローカルルールは、補助的ながら板違いの判断には重要です。
雑談系の掲示板を除いては、その掲示板の趣旨に無関係なもの、多少関係があっても他にふさわしい掲示板があるもの、掲示板の趣旨より掲示板自体の事象や参加者を重要視するもの、などは移動します。
レス・発言
スレッドの趣旨から外れすぎ、議論または会話が成立しないほどの状態になった場合は削除対象になります。故意にスレッドの運営・成長を妨害していると判断した場合も同様です。
以上。守られなかったら通報。
47:考える名無しさん
10/09/18 18:01:34 0
やかましい。
48:考える名無しさん
10/09/18 18:11:50 0
なにがおかしいのかが、やっと分かった。
おまえらは真理真実に世俗上の行動規範を求めている、それが決定的におかしい。
真理は何事をも人に対してけしかけない。また人間が自主的に何をしたからといって
それを許すことも禁止することもない。現象界に囚われたまがい物の真理はともかく、
本物の真理は世俗的な人間性などとは全く無縁なところにあり、人間に対して世俗上での
善行を肯定することも悪行を是認することもない。俗世における行動が真理に基づいて
いたりすることはなく、菩薩も真理を悟りきった仏とまではいかない存在であるからこそ、
俗世の衆生の救済などにもはげむ。真理を人間活動の糧にしようとしているところが
おまえらの決定的な誤りで、善行も悪行も、あらゆる行動も、真理真実とは全く無縁なものだ。
49:考える名無しさん
10/09/18 18:36:15 0
ここで一つ、俺がここに書き込みをする意図を明確にしておこう。
>>36でも少し書いたが、俺が意見発表の場として2chを選んでいるのは、
ネット上において考えうる限りでの最も粗末なコミュニティであるからで、
不快な書き込みなども事実上黙認状態にある本音吐露の場であるからだ。
ここにすら書き込めなくなるというのなら、あとはブログなどで自分から
一方的な投稿しかできなくなるか、チラシの裏に書いた意見をタンスの奥に
しまい込む、意見発表からの中止しかあり得ない。2chですらはじかれるものが、
mixiなどの他のコミュニティサイトで是認されるわけもないから。
意見発表として最低限の手法にのみ則りつつ、まだ意見発表を完全には
中止していないのは、説明責任を果たしておくことによる自らの責任回避のため。
2chといえど、一応はネット上に無制限に公開されているものだから、
閲覧しようと思えば誰にでも閲覧できる。別にCIAやMI6の諜報員でなくたって
誰でも閲覧できるところに、人類の破滅をも回避できる意見を一応発表しておく。
50:考える名無しさん
10/09/18 18:38:07 0
破滅回避の方法を知っておきながら、その知見を自分だけで溜め込んで
発表しないでいるのでは、自分にまで人類の破滅を黙認する従犯の嫌疑がかかる。
だから一応は、自主的に自己意見を公開しておいて、破滅を回避する選択肢を
提示しておいている。CIAの諜報員などはかえって人類の破滅を画策している
側だから、そいつらが俺の意見を盗聴しているだけじゃ、破滅回避のための
善後策を俺が十分に提示していたことにはならない。一応は自分から意見を
公に発表しておくことで、諜報員でもない不特定多数の人々に情報を提供し、
自分たちにも破滅回避の選択肢が提供されていたという既成事実を与えている。
その、俺のありがたい施しすらをも迷惑扱いして拒絶し、最低限の意見発表の
場からすら追い出すというのなら、それによる破滅の責任は全ておまえら自身に
かぶさるのであり、おまえら自身の全くの自業自得となるのだから、それはそれで
俺にとっては別にかまわないことだ。俺は俺で説明責任を果たす最善策を
講じていたのが、精神薄弱者どもの横槍で不可能になるというのなら、
それまでのことで、俺自身の責任はそこまででも十分に果たされたことになる。
最低限の意見発表の場すら奪われたのなら、そこで俺の意見発表という
選択肢がなくなるわけだから、意見を発表すらしないで済むところに、
俺自身の最善策が移行するだけで、それはそれウィンドウズすらうかがわない
老子の天道志向にもかなっている。俺にはそれでも十分に満足なことだ。
51:考える名無しさん
10/09/18 18:57:43 0
あと、俺の意見発表という選択肢が、2chのような最も低劣な場からすら奪われるのなら、
「真理は人を自由にする」という、耶蘇の発言が全くの大間違いであったことも証明されて、好ましい。
今の俺は、真理に即しすぎている部類の人間だから。
もう少し真理から遠のいて、世俗的な道理の範囲内での善行にも臨むつもりではいて、
だからこそこんなところへの書き込みも一応は続けている。しかしそれすら不可能となり、
ウィンドウズすらうかがわなくなるというのなら、不自由きわまりない一方で、真理との合致はより強固なものとなる。
俺自身は全くそれを望んでおらず、むしろ俗世での善行の自由のほうを望んでいるわけだが、
真理に即して不自由の極みに置かれるというのなら、それもまた仕方のないことだ。
それですらまだ、自業自得の罪悪の辛苦にあえぎ続けているおまえらのあり方よりは、よっぽどマシだから。
52:考える名無しさん
10/09/18 19:20:25 0
「殉教者気取れてよかったね」と20回唱えて寝なさい。
53:考える名無しさん
10/09/18 20:00:35 0
殉じすらするものじゃない。
精神薄弱者どもの不快で見苦しい反応を見なくても済むようになるんだから、
俺にとっちゃ本当に精神衛生上健全なことであり、より心地よいことだ。
俺自身が何一つ隠すことなく内面をぶちまけきった結果として、強制的に
意見発表禁止状態となり、否応なく公けで読み書きできなくなるというんなら、
それでこそ俺自身の真理把捉も完成するというもんだ。
俺自身にとっても好ましい状態への移行を、
なぜ殉教扱いなどすることができようか?
54:考える名無しさん
10/09/19 09:07:30 0
まだここに書き込めるというのなら、おまえらが不快とする欧米批判や聖書批判、
洋学批判なども続くだろうし、おまえらが到底受け入れがたい論理展開も行われるだろう。
罪福異熟の真理にも基づいて、重犯罪行為を道徳行為や真理にかなった行ないだと
思い込み続けている西方の劣等人種の跋扈の存続に応じた、相応の書き込みもする。
それすら強制的にできなくなるというのなら、それでもいいわけで、
俺自身にとってのできるかぎりの画策の中から、公けへの意見発表という選択肢が
消滅した場合には、そのような境遇にまた甘んじるのみ。君子は思うことその位を出でず。
君子のあり方に反する僭越な行ないに身を投じてまで何かをやったところで、その結果も
たかが知れているし、身の程をわきまえぬどこぞやの愚人にも近似することとなってしまう。
55:考える名無しさん
10/09/19 12:49:53 0
まだまだ分からないことだらけな中にも、分かったことへの精魂を込めたわきまえを欠かさず、
言葉や知識に現象的な説明としての価値はあっても、真理や道理そのものたり得ないことをわきまえ、
最高真理たるブラフマンと同等の真我たるアートマンが、ならずならず(ネーティネーティ)の
重畳によってのみ会得されるものであるが故、言葉や知識といった具体的現象の思考たり得ないという
純正な哲学思想的方向性をその原初から備えているのが東洋教学。その哲学的な原初である
ウパニシャッド哲学もギリシャ哲学より数百年以上古く、質でも量でも古さでも王道中の王道に当たる。
56:考える名無しさん
10/09/19 13:30:58 0
という風に、東洋哲学と西洋哲学の、比較文化上の単なる事実を述べただけで、半ば西洋批判になってしまう。
何らの私見も加えることなく、ただ事実をありのままに述べただけなのに、西洋への批判のように聞こえるのは、
それほどにも現代人の多くが、西洋や西洋文化を買いかぶりすぎているからに他ならない。
ただ事実をありのままに述べただけで判明してしまうような、真性の劣悪さを西洋文化がその原初から
帯び続けているのであり、東西の文化交流が(特に西洋の側からの拒絶により)行き届いていなかった
ほんのこの前まで、その劣悪さにも気づかないままに奇形的な文化発展を西洋も続けてきた。
ただ、今となってはもうその劣悪さが見るに明らかで、ただ事実を事実として把握するだけでも、
西洋こそは至上であると思い込んできた現代人などにとっては、大きな落胆が否めない。
ただ事実を事実として提示されるだけでも瓦解してしまうような、不確かな根拠に基づく思い上がりを
完全に払拭して、西洋文化によって掘り下げられてきた墓穴が完全に埋め立てられたなら、もういちいち
東西文化を比較する必要すらなくなる。今はまだ間違った根拠に基づく西洋至上主義の思い上がり込みで
議論が展開されかねない状態なので、あたかももぐら叩きのように、方々に西洋批判を散りばめる必要がある。
57:考える名無しさん
10/09/19 13:42:55 0
削除理由
4. 投稿目的による削除対象
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 で
再度削除依頼出しました。
重複スレなので
東洋教学総合スレ
スレリンク(philo板)に移動です。
58:考える名無しさん
10/09/19 14:10:58 0
>>57
そのスレは、番数やテンプレなどのこのスレッドシリーズの条件を満たしていない。
どちらかが重複というのなら、そちらが重複であり、削除対象となるのもそちらのスレだ。
俺のここでの書き込みも、掲示板やスレッドの趣旨に反するものではない。
差別的な書き込みなるものも、単なる事実の提示でしかないのがその全て。
俺は一切今までのやり方を変える気はなく、それで削除や規制の対象になるんならそれでも結構。
事前の警告なども一切ムダであり、実力行使をちらつかせるぐらいなら、さっさとやればいいだけだ。
59:考える名無しさん
10/09/19 18:11:47 0
こっちは師匠スレ、向こうは弟子スレということにすればいいだろう。
俺からの直接教示が畏れ多いうちは、向こうで弟子同士で自習するということで。
別にまだ先生面もしたくないんだが、現代人の東洋教学への素養たるや、
まだ四書五経や諸子百家や主要仏典を通読した程度に過ぎない、今の俺にすら及ばない。
別にお大師さまとまでいかずとも、江戸時代までの日本にならば、今の俺などより
遥かに豊かな学知を備えていた人々が、そこら中に掃いて捨てるほどにもいたはずだが、
論語や老子すら読んだこともないのが当たり前な昨今、あまりにも低劣な下等競争の中で、
カタツムリよりも歩みの速い亀程度のマシさ加減で、俺などが師匠格にならざるを得ない。
60:考える名無しさん
10/09/20 11:37:18 0
孟子も「天下の英才を得て之を教育するは三の楽しみなり(尽心章句上)」と言いながら、
「人の患いは、好んで人の師と為りたがるに在り(離婁章句上)」とも言っている。
一見矛盾しているようにも思える両句だが、その心は、
「師弟の節義がわきまえられたところで、順当な教育を行うのはよいが、
節義もわきまえられないところに、無理に教え合おうとするのはいけない」
ということだ。
易経にも「我より童蒙に求むるに非ず。童蒙より我に求む(蒙卦)」とあり、
教育体制としてて、弟子の側から師匠に教えを乞い求めていく、師弟の節義が
わきまえられていることが易学的にも吉祥であり、その節義すらわきまえられない所では、
どんなに優秀な教師といえど、自分から教えてやろうとしたところでいい結果は得られない。
それは、自分から各国の王侯へと打診を行ない、半ばおせっかい気味に教示をすれども、
結局王侯たちは自分の意見を聞き入れなかった孟子自身の事跡によっても証明されている。
61:考える名無しさん
10/09/20 11:50:23 0
自分が本当に貴重な知見を蓄えていて、それを有効に啓蒙していこうというのなら、
なにがなんでも、師弟の節義がまずは整えられなければならない。
節義も整えられないところに、どんなに高度な言辞を弄した所で、相手は何も学びはしない。
わざわざ相手にこびへつらって、学知をねじ曲げてまで披瀝する曲学阿世(「史記」儒林列伝)も、
やはり相手にとっての学習にならないだけでなく、自分自身すらをも貶めてしまうもの。
どうしても節義のわきまえられた教育体制が整えられないのなら、
下手に学知をひけらかすよりは、自学自習に徹していたほうがよっぽどよく、
存命中の啓蒙に関しては半ば失敗に終わりつつも、絶え間ない自学自習によって醸成された
その学知は、後世にまで偉大な影響を及ぼし続けている、孔孟のような偉人にも倣うこととなる。
62:考える名無しさん
10/09/20 12:47:50 0
単なる学校教育に止まらず、実際の権力機構における
君臣間での師弟の節義すらも、やはり整えられて然るべきもの。
文王と太公望の釣り場での邂逅、諸葛亮に対する劉備の三顧の礼など、
師ともなる知者への臣従の促しのために、王侯すらもが相当な礼節を尽くした美談は数多い。
他にも、通りすがりの不審な老人に過ぎなかった黄石公に対して、わざと脱ぎ捨てた靴を
履かせたり、夜明け前から待ち合わせ場所で待ち受けたりの礼節を尽くすことで
兵法書の「六韜」「三略」をいただいたという張良の伝説もある。
儒学はその語源からして「学者学」でもあるため、学者が教師として世の中に影響を
与える上での適切なあり方までをも考え抜いており、あまり能力の上下による入学資格の
敷居を高めたりはしないものの、師匠に素直に従って勉強に励んでいく学習意欲が
弟子となるものに備わっていることが大前提とされる。その旺盛な学習意欲の現われとして、
師弟の節義がわきまえられていることが必須となるのであり、文王や張良や劉備ほどにも、
師となる者に対するへりくだった姿勢が、たとえ王侯であろうとも必要とされる。
63:考える名無しさん
10/09/20 13:08:12 0
儒学が全中国の国教扱いとなる漢代以前には、儒学の頒布もそこまで行き届いていなかったため、
師弟の節義を厳格にわきまえる、儒学的な指導体制が受け入れられているとも限らなかった。
特に春秋戦国時代には、「食客」と呼ばれる一種のフラタニティが構築されて、
とにかく何らかの能力の持ち主ですらあれば、有力者が食い扶持を与えつつ、その能力を自分のために
用いさせることが大流行りしていた。「鶏鳴狗盗」の輩すらも囲い入れることで危難を逃れた
孟嘗君をはじめ、春申君や平原君、始皇帝の実の父親とされる呂不韋など、食客の多さを競い合った
戦国時代の有名人は数多く、乱世における実質的な権力者として辣腕を振るっていた。
孔子や孟子といった、正学の節義に基づいた教育を重んじていた人々が中国思想のライトサイドなら、
曲学阿世の輩でも使えるなら使ってやろうというフラタニティに依存していた連中こそはダークサイドで、
白馬非馬説などの詭弁論を唱えた公孫竜などもその中に含まれている。
食客と同じように、封土を持ってはいなかったものの、学門としてはそこそこに大きな派閥となっていた
孔子や孟子が活動地域としていた魯や鄒には、学問を重んずる風習が根付いていた一方で、
あまり食客制が流行ることはなかった。逆にその食客制度を存分に活用していた孟嘗君のいた薛では、
孟嘗君亡き後100年以上の歳月が経過した後に赴いても、ならず者の溜まり場となっていることが
見るに明らかだったと、司馬遷も「史記」孟嘗君列伝において自己体験を述べている。
64:考える名無しさん
10/09/20 13:25:05 0
乱世の有力者だったからには、庶民を疲弊させて総体的な国力も弱体化させ、
匈奴などからの無道な侵略も呼び込んでいた元凶が食客制度の濫用者でもあったわけで、
本人たち自身は権力を増長させられたにしても、世の中にとっての益であるか害であるかでいえば
大害であったに違いなく、正攻法の教育姿勢であまり権勢を得られなかった儒家のほうが無害だったといえる。
もちろん大して益にもならなかっただろうが、漢代に天下が統一されて、私的なフラニティなどではなく
公的な儒学教育が敷かれるようになってからは、世の中の泰平を司る、多大なる公益の源泉となった。
力を付ければ付けるほど、世の中にとって有害無益と化す、乱世において有効なフラタニティ。
力を付ければ付けるほど、世の中にとって有益無害となる、泰平において有効となる儒家教育。
食客を囲っていた呂不韋の編纂である「呂氏春秋」にも、多少は儒学的な記述が見られるなど、
学知内容について儒家とフラタニティが全く相反しているわけではないが、師弟の節義がわきまえられた
教育に臨むか、鶏鳴狗盗でも役に立てば囲い込むかという、根本的な人間関係のあり方に断絶がある。
そのため学知の用い方も全く変わり、儒家は世のため人のために学知を用いようとする一方、
フラタニティは自分たちに不当で莫大な利益を呼び込むためにしか学知を用いない。
世の中の公益を考えるのなら、当然友愛志向のフラタニティを排して、師弟の節義を
時には君臣の関係以上にも重んずる、儒家に基づく教学体制が構築されてしかるべきだ。
65:考える名無しさん
10/09/21 08:10:47 0
黄老思想と言う言葉をよく見聞きしますが、老子の思想は「老子」がありますから
判るのですが,黄「帝」の思想と言うのが判りません。黄帝とはそもそも
伝説上の王であったとも言われて無いでしょうか?相すれば、その人の
著作などあるはずないというべきでしょう。相すればまた、その人の思想
もまたあるはず無いのではないでしょうか?後世の人の創作ならありえるでしょうが。
「黄帝の書」と言う言葉も聞きます。一体、どうなっているんでしょうか?
教えていただけるなら幸いです。
66:考える名無しさん
10/09/21 09:34:47 0
五帝の第一であり、易の六十四卦の発案者だったとも言われる(ただし神農説のほうが有力)
黄帝軒轅(前2510年-前2448年)、その詳しい事績を記述したもので最古の部類に当たるのは、
「列子」黄帝第二だと思われるが、司馬遷が「諸子百家の文体は典雅でなく理にかなっていない」
と指摘したうちの一つでもあり、やはり第一の原典は「史記」五帝本紀の記録になるかと思われる。
平たく言えば、黄帝は始めのうちは武力討伐などをも用いた積極統治を試みていたが、
なかなか統治がうまくいかないので、思い切って自分自身が宮室にこもり、できるかぎり
積極的な活動を控える消極統治に切り替えてみたら世もうまく治まり、最後には
黄帝自身が龍の背中に乗って天界へと昇っていったとすらされる伝説もある。
黄帝のこの事跡が、伝承上ではもっとも確実な「学識による無為統治」の始まりとされる。
黄帝以前にいたとされる伏羲や神農、天皇(てんこう)や地皇、人皇といった伝説上の聖王は
全く武力すら用いず、家の台所で政務を執るなどの先天的な無為統治を行っていたため、
そこには無為統治の有効性への学識的な確信はなかった(だからより偉大だったともいえる)。
黄帝にいたって初めて、自らの武威統治などと比較しての、無為統治の有効性が学識的
にも確信され、後天的に無為統治を重んずる道家の始祖としての特性をも帯びている。
67:考える名無しさん
10/09/21 09:58:14 0
>>66
>その詳しい事績を記述したもので最古の部類に当たるのは、
「列子」黄帝第二だと思われるが、司馬遷が「諸子百家の文体は典雅でなく理にかなっていない」
と指摘したうちの一つでもあり、やはり第一の原典は「史記」五帝本紀の記録になるかと思われる。
「史記」五帝本紀の記録は、「列子」に基づくということになりませんか?
「列子」が最も古い記述であるとすれば。
68:考える名無しさん
10/09/21 10:03:28 0
無為統治の元祖とされるのが黄帝である一方で、
儒家ではよく称賛の対象とされる舜や禹が有為統治の元祖であり、
悪辣な父母をなだめるためにあらゆる手管を尽くしたり、
すね毛が擦り切れてびっこを引くほどにも土木事業に奔走した姿などが
有為統治を重んずる儒家からは称えられる一方で、
列子などの道家からは「最もせわしない部類の人間」と揶揄される。
堯や舜や禹、湯王や武王や周公の発言は「書経」にも遺されているが、
やはりまとまった思想書ということではなく、政治上の発言集でこそある。
言行一致、文治一致が中国思想の基本であり、それは権力道徳学たる
儒学だけでなく、道家などにも当てはまること。実際の政治行為によって
ある種の思想を実践し、相応の効果をもたらしたのなら、たとえ文章一つ
書かなくたって、明らかに当該思想の思想家だったのであり、言葉以上にも
実行を重んじた点では、文書家止まりの思想家以上ですらあったといえる。
69:考える名無しさん
10/09/21 10:12:32 0
>>67
司馬遷はただ既存の文書を漁るだけでなく、古えの聖王の活躍地だったとされる場所にまで
実際に赴いて、当地の文化習俗などを見聞し、他の土地と比べての習俗の秀逸さなども鑑みて、
その実在性を確信しつつ、史書の編纂などにも臨んでいるので、相当に頭でっかちだった場合も
あるだろう諸子百家などと比べれば、実見に即しているぶんより写実的な描写ともなっている。
もちろん実地見聞すらすればより記事が秀逸になるとも限らず、耳目の欲求ばかりを満たそうとした
あまり、「戸を出でずして以て天下を知り、窓をうかがわずして以て天道を見る」の道家にすら及ばない
散漫な見解しか持てなくなる場合もある。実地の体験と、歴史家としての自己研鑽との両方が
備わっていたから、司馬遷は世界最高の歴史書「史記」を書けたというのが、総合的な結論。
70:考える名無しさん
10/09/21 10:55:39 0
列子の記述に拠れば、黄帝は国民を干渉した結果、国は治まらなかった。
黄帝は、疲れ果てて政務を放棄した。夢の中の理想的な国の有様を見て、
自分の政治のやり方とした。そしたら自分の国も夢の中の国のようになった。
と言うのですね。
ここには、黄帝が国民を干渉することと、干渉しない、その理論的根拠が
全く無いのですね。これでは学問的といいますか、哲学的といいますか、
干渉しない政治の根拠は無く、他者に伝える説得性が無いといわなければならない
と言うべきです。
しかし、老子にしろ、荘子にしろ、この根拠をこそ、自分たちの思想の根源であるとして
つまり真理真実として、他者に伝えたのです。
この根拠に基づけばこそ、無為の政治が行われなければならないと言う道理が生じるのです。
そしてまた、この根拠に基づけば、無為の意味が、単に何もしない政治と言うことにならない
のかなるのかの、疑問も解決できると言うわけなのです。
黄帝が出てから、老子が出るまで、黄帝と同じような政治が行われたと言う事実の
報告があるんでしょうか?
71:考える名無しさん
10/09/21 11:06:50 0
他者に理論的根拠を伝えて説得しようとすることが、すでに他者への不埒な干渉でもあるのでね。
それを踏まえてもいるからこそ、「列子」の記述はやたらにそっけないものが多いのかもしれない。
具体的に確認されず、自分から積極的に訴えられないものは全て無効であるとする決め付けが、
自分から何ら意見を発する能力も持たない、後進国での女子供たちの大量餓死をも生んでいる。
見えざるを図ること、表向きには現れない人々の恨みを慮るところまで含めて権力道徳であり、
まだ積極性を重んずる儒家の「書経」や「左伝」にもそういった意味の戒めが多く載せられている。
言語道断であるもの、言葉で表そうとしても表せないものまでをも捉えている道家ならばなおのことで、
経験則を排したガチガチの理論展開でどうにかできるものの限界を超えたところに、道家の本旨もある。
72:考える名無しさん
10/09/21 11:23:50 0
>>71
>他者に理論的根拠を伝えて説得しようとすることが、すでに他者への不埒な干渉でもあるのでね。
病気には直るものも直らないものもあると言うことですが、例えば怪我のようなものは、
手当てをすることによって治り、その人は治ってから、今までのように自由に活動
できるのです。
この傷の手当てはその被害者の自由を干渉したことになるでしょうか?
なら無いでしょう?反対に、その人を自由にしたのですよね。
この道理と同じなんですよ。国民が誤って考えているなら、その誤りを指摘し、
誤りから開放してやるのが、国民を自由にしてやっているのです。
干渉とは国民の自由を制限することを言うべきであって、国民を自由な人間に育てること
を干渉とは言ってはならないというべきでしょう?
老荘思想は、この国民の迷妄を破り、国民を真理真実に置く、鍵となる教えだと思うのです。
ここにおいても、干渉の意味は同じであります。人がわからなくて困っているときに、
判るようにしてあげることは、その人を自由に解放する行為であって、
自由を束縛する干渉ではないですよね。
73:考える名無しさん
10/09/21 11:26:06 0
怪我を治してあげようとする以前に、傷害で自分から怪我を加えないことだな。
マッチポンプという干渉行為全体の根絶。それが無為統治の基本でもある。
74:考える名無しさん
10/09/21 11:37:45 0
>>73
>マッチポンプという干渉行為全体の根絶。
マッチポンプと言うのは、自分で火をつけておきながら、自分で消火作業をする
と言うことですよね?
ところが、こういう行為はなぜするのかと言うと、これこそ他者の干渉が原因なんですよ。
マッチポンプ行為は、これほど、不自由な状態があるでしょうか?
人間皆自由でありたいのですよ。人から強制されて行うよりも、
どうせ不自由であるなら、マッチポンプ行為をする方が良いと考えるのですよ。
井上のだんなさん、どう思われます?
75:考える名無しさん
10/09/21 12:52:38 0
とにかくマッチポンプでもいいから何かをしていないといられない内面からの焦燥、
その結果として行われる万人の万人に対するマッチポンプ込みでの干渉のし合い、
そのような劣悪な人間関係をわざわざあえて必要もなく捏造するのが洋学や聖書信仰。
総員嫌がらせ合い状態の元凶となる内面の焦燥から根絶させるのが、道家だったり仏教だったり。
76:考える名無しさん
10/09/21 13:57:53 0
西洋批判や洋学批判などは、勧善懲悪のうちの「懲悪」であり、勧善ではない。
勧善懲悪の語源である「左伝」成公十四年にも「懲悪而勧善」とあり、断悪修善や破邪顕正とも同じように
やはり邪悪なるものを懲らしめ破り断ち切ってから、正善なるものを勧め顕らめ修めるのが筋になっている。
ただ、懲悪ばかりに固執したあまり、懲悪が済んでからの勧善を疎かにしてはならないのであり、
そのためには、項羽級の暴虐で秦国を滅多打ちにするような、やり過ぎの破壊行為は禁物である。
武装蜂起して投降すらすれば、後は公正な処分に徹するという誓約が勧善懲悪者には必須であり、
俺もまた、懲悪を超えた勧善者になるために、私怨などによる懲罰の過重化などは避けるように努める。
ただそれはもちろん、無制限に寛容であるということでもなく、あくまで公正な処分に徹するということなので、
何をやったってお咎めなしなどとは思い込んだりしないように。極刑級の罪人には極刑を科すことだってあり得る。
それは、科さないほうが被害者の恨みを溜め込ませるなどの落ち度になってしまうから。
重罰過ぎるのでも軽罰過ぎるのでもなく、罰を慎む。懲罰行為においてですら中庸を守ってこその儒家。
77:考える名無しさん
10/09/21 16:36:19 O
ここまで読んでて思った。
老・荘思想って、ある意味「引き寄せの法則」的な所があるな。
一緒ではないけど。
欲っするな
考えるな
じたばたするな
78:考える名無しさん
10/09/21 18:34:40 0
逆にじたばたしまくって、結局誰しもを引き離してしまうのが儒者だ。
「孤臣孽子は其の心を操るや危うく、其の患いを慮るや深し。故に達す(尽心章句上・一八)」
という孟子の言葉は、成王を独力で輔弼し過ぎたあまりに他の臣下からの恨みを買った魯の周公や、
父母の野合で生まれた「妾の子(孽子)」である儒祖の孔子を擁護した発言のようだが、世に突出
しようとし過ぎて、かえって孤立することの多い儒者全般を孤臣孽子に喩えたように思えなくもない。
俺のじたばたさ加減も、あえて自分への懇親をはね返らせて、天皇陛下のような正真の君主格への
畏敬に振り向けさせるための、追い込み漁的な方便の意図が一応はあるわけだが、なかなかおまえらに
そこまで気づかせるのも難しいもんだ。罪人に恩赦を発行する権利を持つのも当該国の君主格のみであり、
どうあがいたって臣下止まりな俺などには、罪を許す資格すらないから、許さずにいるのでもあるわけで。
法制に寄らずとも、権力道徳に基づけば天下全土に偏在している君臣の義にも基づいて(微子第十八・七参照)、
君臣の序列をわきまえた臣下ならではの振る舞いを、孤臣ながらに、おまえらにも先駆けて実践してるわけだが。
79:考える名無しさん
10/09/21 18:50:27 0
ちなみに俺は「孤臣」の自覚はあるが、「孽子(妾の子)」では全くない。
孤臣は自得のものでも、孽子は生まれつきの境遇如何により、事実としてそうでないのだから仕方がない。
孔子の他に、鬼平こと長谷川平蔵も孽子だったりするが、始皇帝やキリストすらも孽子であるため、
孽子だからといって必ずしも偉人や英雄になるとは限らない。人としての最善例と最悪例の両極端にふれ切るのが孽子。
孽子である恥じらいをバネに正攻法の研鑽に努めるか、孽子ゆえの呪詛を持ち越して害悪をまきちらすかの違い。
80:考える名無しさん
10/09/21 19:16:14 0
孟子の提示する「易姓革命」に基づいて、聖書から姓名を引用している西洋人が軒並み実社会の
表舞台から退場した時にも、一番初めにスポットライトが当てられるべきなのは天皇陛下であり、俺じゃない。
人類社会の浄化の旗印となるには、俺は穢れすぎている。自分自身がそんなに穢れていなくとも、
穢れた連中との付き合いが多すぎたから、毒を以て毒を制するように、酒盛りでヤマタノオロチを酔い潰れさして
斬り殺したスサノオのごとく、「破邪」の権化としては相応しくても、それを上回る「顕正」の権化としては相応しくない。
(これは俺だけでなく、石原都知事や大作などに関しても言えることだが)
何者かが何者かに勝ったのならば、勝った側が全権を掌握するというのが弱肉強食社会の常ではあるが、
その弱肉強食から終わらせて、破邪に関しては有能だとしても、顕正に関してはまだまだ至らない戦略的勝者が
顕正に関してこそ専門である人々に道を譲ることで、勝ち負け第一の乱世を越えたところにある泰平を企図する。
それこそは目的だからこそ、限りのない乱世をもくろむ覇権主義者どもにも勝利できるのだから、決して酔狂にも当たらない。
破邪の次にある顕正、断悪の次にある修善、懲悪の次にある勧善を見越していればこそ、覇権主義者などよりも遥かに
望みのある先行きが期待できて、極限的な戦闘状態にも平常心を保てるのだから、その恩義をちゃんとお返しする必要がある。
81:考える名無しさん
10/09/21 22:26:22 0
悪いけど、すごく楽しい。
82:考える名無しさん
10/09/21 23:14:36 O
俺が性悪なのでもサドなのでもなく、おまえらがカモネギすぎるだけだ。
83:考える名無しさん
10/09/22 07:22:31 0
井上さん、古代中国で、中心となる国は、秦の統一以前は、斉ですか?
諸子百家が集まるところも有ったそうではないですか?
84:考える名無しさん
10/09/22 11:12:42 0
斉の桓公が覇を唱えていたのは春秋時代中期だからな。
孔子の活躍よりもさらに100年以上昔の話。その後も斉は引き続き強国であり続け、
戦国時代中期にも、秦王と共に斉の湣王がほんの一時帝号を称したこともあったが、
「天に二日なく、土に二王(帝)なし(礼記)」の慣例に即して、すぐに廃している。
中心となる国がいくつも乱立して、無秩序状態と化していたのが春秋戦国時代。
ちょうど秦や斉が今のアメリカやロシア程度の勢力規模で、人員規模で世界の
大多数を占めていたわけではないが、とにかく軍事力や諜報力の面で強大化していた。
最終的には、ソ連が崩壊してアメリカの覇権が決まったように、斉をも飲み込んで
秦が統一帝国を樹立したが、なまじ戦国時代までに天下荒廃の大罪を犯し続けて来、
敵に勝って全権を掌握する乱世のペースでの支配に臨んだため、その支配は永く続かず、
封土を持たない陳渉や項羽の蜂起によって滅ぼされ、同じく封土は持たなかったものの、
今の日本ほどにもど田舎で交通の便の悪かった漢に封ぜられた劉邦が天下を握ることとなった。
その後の漢代における、儒家の礼楽統治をも取り入れた融通支配による成功は知ってのとおり。
孟子は「春秋五覇(斉の桓公を含む)は湯文武三王の罪人であり、いま(戦国時代)の諸侯は
春秋五覇の罪人である」というほどにも、無秩序状態と化していた春秋戦国時代の為政者を
一括して糾弾している。これほどもの理想主義が戦国時代の最悪の乱世に受け入れられなかった
のも当然のことで、どうも孟子にも、存命中に本気で世に受け入れられる気はなかったようだ。
85:考える名無しさん
10/09/22 11:39:52 0
孟子は、言ってることは完璧無比の天下無敵(離婁章句上・七)なんだが、
あまりにも完璧すぎて現実の為政者や権力者が近寄れもしないところがある。
その言説は漢代や唐代においてもまだ本格的に取り入れられず、
宋代の朱子学においてやっとその評価が定着することとなる。
その頃の中国たるや、漢代や唐代ほどもの隆盛には影が差し始め、
明代に一時独立統治を盛り返したものの、元や金や清といった異民族による
支配を立て続けに被るようになり、今でも「共産主義」という異文化による支配が続いている。
結局、孟子の学がその受容によって最大級の成功をもたらしたのは、江戸時代の日本で、
朱子学を通じてその王道統治のあり方が日本全土を挙げて実践され、260年の泰平を築き上げた。
忠臣蔵の赤穂四十七士の中にも孟子の末裔がいたのは有名な話。易姓革命論が万世一系の
天皇制にそぐわないために忌避されたなどと言われているが、中国本土においてですら
未だ本格的な実践の行き届いたことのない孟子の学が、最大級の成功を果たしたのもこの
日本でこそある。提唱から受容までの間延びの長さでも、孟子こそは世界記録保持者だといえる。
86:考える名無しさん
10/09/23 10:06:40 0
厚生官僚の汚職嫌疑からの開放事件、手回しが良いね。
公務員による公務員のための政治でつね。
日本もそうであったに違いないでしょうが、古代中国では、無実の罪で死んだ人が
たくさん居たでしょうね?
こうしてみますと、人間の自由と権利なんて、人間が想像した概念であって、
それは科学的な道理ではないと思いませんか?なぜなら、真実に人間に自由と権利が
有ったなら、其れが蹂躙された事実があれば、なんかかんかの事変が発生しなければならない
とならないと思うのです。つまり、必ず天から隕石が降ってきて真の不法ものに当たるとか、
天地がそのあってはならない自由と権利を回復させると言う、人為に拠らない
示しがなければならないと思うのです。
しかし、易学では、天と地が不法行為に感応し、いわゆる天罰を下す、と言う
教えがあるのではありませんか?
こういう思想は、洋の東西を問わずあるのですね。ギリシャ神話のエディプス王
事件。この事件は長年かかって誤った行為がその結果を現したと言うものです。
疫病の原因が、エディプス王の若いときの間違った行為であり、その間違いが
エディプス王に判明したのであります。
彼自身はその過ちを気づいていなかったのであります。
まして、気づいておきながら行った不法行為は、当人はその結末におびえなければならない
訳なんですが、其れが世間的な教訓に、なかなかなっていないのですね。
司馬光もこの点に関心があったのですね?
ところで、中国の思想には、死んでどうなるかを論じたものが無いのですよね。
インドには輪廻思想と言うものが有りましたが。ここは論じて於かなければならないところです。
87:考える名無しさん
10/09/23 10:55:34 0
>>86つづき
先のレスで、違法不法と言う、人権無視の行為が、王からであろうと
民からであろうと、有った場合でも、其れが明確な天の罰があると言う
ことは曖昧であると言うにとどめなければならない、と言いたかったのであります。
88:考える名無しさん
10/09/23 13:41:53 0
さて、般若の智慧に反するもの、換言すると、正法を誹謗するものの
状態はどのようなものであるか、其れについて何も言わないということは、
これら知者には、道理上有り得ないのである。
まずパルメについて言うと、プラトンの「パルメニデス」で、その混乱
を抽象的ではあるが詳細に論じている。其れは地獄と言うべきもので、
わかりやすい例を挙げるなら、あのギリシャ神話の話:山の頂上に大きな石を
おしあげるが、頂上と言うところで、その石が転げ落ちる。そこで再び
石を押し上げると言う行為を永遠に繰り返す、あの人のようであり、また
水を求めている人が、その人自身は水の中に居り、水自体はその人の
下唇のところまであるが、飲もうとすると水が下に引いてしまう、と言う人の例
のごとくなのである。
89:考える名無しさん
10/09/23 13:54:24 0
イエスについては、彼は以下の例え話を出している。ルカ福音書
1619> ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
1620> ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
1621> その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
1622> この貧しい人がついに死に、御使たちにつれられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
1624> そして黄泉について苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、
はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。
ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火災の中で苦しみもだえています』。
1625> アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪い物を受けた。
しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
1626> そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、
そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
1627> そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
1628> わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
1629> アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
1630> 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
1631> アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、
彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
90:考える名無しさん
10/09/23 16:38:53 0
URLリンク(ja.wikipedia.org)
仏教はこのwikiを見れば良い。
老荘から見出そうと思うが、その部分があるが、そこは地獄を説明する意図が無いのだ。
具体的に言うと、荘子のどこかに、「人は同じものを異なるものと思い、惑乱して
身をすり減らしている」と言う箇所である。
これらの中で、仏教とキリスト教だけが死後のこととして論じているが、他の二つは
現実のことである。
91:考える名無しさん
10/09/23 17:09:48 0
そこで考えてみるに、実体が一つか複数かによる行為は現実の行為である。
そして、一つと考えるそれに従う人は安楽であると言うのである。
一方複数であると言う考えに基づく人は、いかなるものも得られない、と言うのも
現実のことなのである。
先にギリシャ人の例を挙げたのは、現実の世界のことと言うべきなんだ。
この生きている世界で、真実に付いた人、即ち、実体は一つであるという教えを奉じた人は、
この生きてる現実の世界で、自由に安楽に生きていけるのである。その人が死んだとしても
その人にとって死が何の変化であると言うのだろう?あるはずが無いのだ。
一方実体が複数であるという教えに従った人は、現実の世界で何物も得ることができづ、
その人の死と言う事実も本当のものであり、本当のものと考えるが故に、その以降の死の世界
もまた本当のものと考えざるを得ないのではないか?
仏教でもキリスト教でも、煎じ詰めてよく調べてみると、上の説くところに合致しているのだ。
正法を誹謗する罪は、如何に恐ろしいものであるか、知るべきなのであるが。
92:考える名無しさん
10/09/23 17:23:55 0
あまりにも曲学阿世のオンパレードすぎて、
一つ一つの意見に当たってまでの矯正が追いつかない。
(仮にしたとしてもその全てを患者自身も読みこなせない)
君みたいな重症患者は、間違いだらけの自分の意見を立て続けに
述べ立てることからやめて、相手の話を素直に聞き入れるだけの
従順さに徹していないと、治療もおぼつかないんだ。
93:考える名無しさん
10/09/23 17:53:16 0
>>92
井上さん、それじゃ反論を、どうぞ。
94:考える名無しさん
10/09/23 18:00:03 0
1+1=2が正しく、1+1=3や4が間違っているのは、人間が定義する算術に基づく自明の結論だが、
それでもやはり1+1=3や4を文言として創作もできる。そのような過ちを巧みに組み合わせることで
長文を創作することもできなくはないわけで、この世界には事実問題として「過ちの体系構築」もまた実在する。
その、過ちの体系構築のことを古来から「無理」と呼び、逆に正しさの体系構築を「道理」とも呼ぶ。
無理が通れば道理が引っ込み、道理が通れば無理が引っ込む。
正しさの体系構築たる道理も、過ちの体系構築たる無理も、それぞれが単独で個々の人間の言動規範や
生活規範を全てまかなうことが可能であり、道理は道理だけで一つの国家を、無理は無理だけで一つの国家を
形成することすら可能である。そして道理と無理とは、1+1=2と1+1=3や4ほどにも相容れず、どちらかを
立てる以上はもう一方が立たない。仮に両者を同時に許容したとしても、過ちを許容した時点で1+1=2の
清廉さは穢されて、1+1=3や4の汚濁のペースに完全に乗せられることとなる。それゆえ無理が通っている
ときには道理が引っ込まざるを得ず、道理が通るときには無理が引っ込まざるを得ない。
95:考える名無しさん
10/09/23 18:13:21 0
>>94
はい、それで?
96:考える名無しさん
10/09/23 18:23:32 0
上記における道理と無理の場合のような、位相の相反性を陰陽によって捉えたのが易で、
易の法則を経典化した「易経」は、もっぱら道理の通し方を述べているものの、
易というものそれ自体は、道理であるものと無理であるものほどにも相反する、清濁の両極を公平に捉えている。
清廉なるものを清廉なるままに捉えている度量たるや、仏陀以上だし、
濁悪なるものを濁悪なるままに捉えている度量たるや、キリスト以上。
絶対にそれ以上やそれ以外であることのあり得ない、道理や無理や現実や非現実といった全ての現象を
飲み込みつくしてなお泰然自若たるのが易であり、以上も以外もない天地万物に永久普遍の判定基準。
その易によっても肯定されるのが、道理と無理のように相容れないもの同士が、永久に相容れることがないという
場合があることであり、「どんな物事も絶対に相容れないわけがない」という、友愛の論理が通用しない場合があること。
97:考える名無しさん
10/09/23 18:38:53 0
>>96
>その易によっても肯定されるのが、道理と無理のように相容れないもの同士が、永久に相容れることがないという
場合があることであり、「どんな物事も絶対に相容れないわけがない」という、友愛の論理が通用しない場合があること。
其れは大変じゃないですか?
それで、其れって何ですか?その、絶対に相容れないものとは?
98:考える名無しさん
10/09/23 18:43:47 0
絶対に相容れることがない、相反性の対極にあるもの同士の実在を易が肯定した上で、
なお「易経」は、互いに相容れることのない陰陽の「調和法則」の記述を試みた上で、しかも成功している。
友愛も和解もあり得ない、相反性の対極にある事物同士を調和させた方法、それが序列。
道理であるものも無理であるものも、1+1=2であるものも3であるものも存命は認めるが、
両者が相まみえる時には道理であるものが優先され、無理であるものが劣後されるようにする。
道理も無理も、この宇宙のどこかに居続けてはいるものの、接触する場合に限って、
道理の側が一方的に自らのあり方を通し、無理の側は全ての自らのあり方を反故にする。
いついかなる時も道理が主人で無理が奴隷なわけではないが、ことに両者が並存する場合には
道理は主人以上にも主人たらんとし、無理は奴隷以下にも奴隷たらんとする。一切の態度姿勢が
主人以上に主人であるものと、奴隷以下に奴隷であるものとに分かれ、お互いの分を決して超えようとしない。
99:考える名無しさん
10/09/23 18:49:23 0
>>98
なんか、凡庸な。
それで、どうだと言うの?
100:考える名無しさん
10/09/23 18:59:23 0
たとえば、道理の把捉者と、無理への没落者とが相まみえて話し合う場合、
まず大前提として、道理の把捉者が無理への没落者に、一方的に意見を述べ立てることを常とする。
道理把捉者の側は意見を述べ立てることに専念し、無理没落者は意見を聞き込むことに専念する。
意見を述べ立てることに専念した結果、道理把捉者は自らの至らない部分に気づいて恥じるし、
意見を聞き込むことに専念した結果、無理没落者もその意見の立派さへの簡単の言葉を述べる。
それでこそ、道理把捉者と無理没落者の話が通じ合うのであり、始めから道理把捉者が
意見の発露を躊躇したり、無理没落者が自論を述べ立てようとしたりしたのでは、話は通じない。
通じない結果、どれほどもの長広舌による議論を交わしたとしても、何ら得られるものはない。
101:考える名無しさん
10/09/23 19:12:49 0
>>100
>それでこそ、道理把捉者と無理没落者の話が通じ合うのであり、始めから道理把捉者が
意見の発露を躊躇したり、無理没落者が自論を述べ立てようとしたりしたのでは、話は通じない。
それでは、われわれの関係は、どういうものなんでしょうか?
102:考える名無しさん
10/09/23 19:18:18 0
道理の把捉者が一方的に意見を述べ立てることを 欲する のでもなければ、
無理への没落者が一方的に意見を聞き込むことを 欲する のでもない。
あくまでそれらは大前提としてわきまえられていることとし、
当然のこととして道理把捉者が一方的に意見を述べた結果恥じ入ったり、
無理没落者が一方的に意見を聞き込んだ結果感嘆の意を述べたりする。
人間には、「欲する」という試み以前に「わきまえる」という試みが備わっており、
わきまえるかわきまえないかという大々前提において、あらゆる規範の正誤も左右される。
欲求以前のわきまえから正しさをわきまえれば、欲するものすら正しいものとなる一方、
わきまえから誤っていれば、今の君らのように、欲するものからして誤る結果を招く。
103:考える名無しさん
10/09/23 19:26:02 0
人の説教などを欲する以前に、いま君らが欲すべきものは
他にあるというのに、それを自分から欲することすらできない。
「罪を犯しても許される」とか、「刑死しても生き返る」とかの、
根本的なわきまえから誤っているが故に、欲するものもまた誤ってしまっている。
そのわきまえの誤りを是正した結果として、自ずと欲するものもまた変わっていく。
欲する以前にどうにかすべきものがあった所にまで立ち返って、何もかもをやり直す。
104:考える名無しさん
10/09/23 19:33:54 0
アテクシは、ゴーダマやイエスや、パルメ、老荘が人に知らせたい真理真実
をなるほどと受容し、其れをまたあなたなどに知らせたい、理解してもらいたいと思うわけです。
其れは聞き知るものを幸せにする道理なんですから。
こういう態度は弁えない者ではないと思うのですが、どう思いますか?
105:考える名無しさん
10/09/23 19:49:51 0
>アテクシは、ゴーダマや孔丘や、ザラスシュトラ、老荘が人に知らせたい真理真実
>をなるほどと受容し、其れをまたあなたなどに知らせたい、理解してもらいたいと思うわけです。
>其れは聞き知るものを幸せにする道理なんですから。
>
>こういう態度は弁えない者ではないと思うのですが、どう思いますか?
うん、その通り。
106:考える名無しさん
10/09/23 22:34:11 0
司馬遷の記述は正確なのか?例えば、40万人の兵隊を失ったとか、
二千人の処刑を行ったとか。40万人の兵隊が戦って死ぬとなると、
40万人の人間の身体を、刃を持って、、刺すなり切るなりしなければならないだろう。
何十年間に起こったことではないのだ。一つの戦争でだ、数年も無い間にだ。
短期間に二千人の処刑をするのだ。裁判の結果だ。遺体の処理をしなかったのだろうか?
中国の大地は血で肥え太っているのだ。
107:考える名無しさん
10/09/23 22:45:01 0
>>94
情念としては1+1=2が正しくて他は間違いだと思うけど
知の方では1+1=2の正しさも1+1=3の過ちも情念としか言えないのではないかと思えるんだよな
情念(幻)ではないという説明は難しいでしょうか?
108:考える名無しさん
10/09/23 23:22:14 0
ちっともわきまえ直してはいないな。
109:考える名無しさん
10/09/23 23:55:23 0
もっと、屈辱の限りを尽くして。
地面に思いっきり額を擦り付ける惨めな土下座を自分たちから好き好んだ挙句、
額から流れ出た血で大地が真っ赤に染め上げられるぐらいに。
ちなみに額を地面に擦り付ける土下座は、正座からの拝礼としては間違っており、
上目に相手を見れる程度の角度までの前屈であごを引くのが正しい礼法。
それでもあえて地面に額を擦り付ける。儀礼的に間違っているほどもの屈従を
自分たちから尽くした挙句に、相手の側に礼式への従いを許可してもらう。
それほどにも自分からはへりくだり続けた先に、正しい上下関係が生ずる。
110:考える名無しさん
10/09/24 09:20:54 0
司馬遷の中に出てくる儒者って、小走りになるときがあるんだね。
恭順のしるしに相するのだと言う。
儒教は抑圧以外何物でもないね。
111:考える名無しさん
10/09/24 09:24:55 0
支配者にとって都合が良い。
要するに孔子のおべっか思想に過ぎないんじゃないの?
列子が孔子の為になるやり方をしてるのはおかしい。
112:考える名無しさん
10/09/24 13:48:51 0
「道は須臾も離るべからず。離るべきは道に非ざるなり(中庸・一章)」と儒者なら捉えるが、
天地万物全ては道に通じ、「道の道とすべきは、常の道に非ず(老子・一章)」とする道家の見解とは確かに異なっている。
結局、わざわざ道を特定せずとも、何事にも道が備わっているのであり、地獄道や鬼畜道ですら一応は道である。
ただ、その道に正しい方向性を見出して、その方向に向かって歩みを進めるのが儒者の説く「道」に即すことであり、
実相の順逆を取り違えて、正しい方向からは180度逆走することが、儒者のいう「道」に反することとなる。
地獄道や鬼畜道、ユダヤやキリシタンですら、道家のいう「道」に則っているのは確かだし、最良の清廉も最悪の汚濁も併せ呑む
易の法則それ自体に従っているのも確かだが、その易の法則から正しい方向性を見定めている「易経」や、その易経を正典ともする
儒家において「道」とされるものには背いている。天地万物に遍き道に乗っかってはいる上で、その道理に背いている。
道家のいう汎用的な意味での「道」にすら則っておらず、清濁の両極を捉えた易の法則すらも逸脱しているのならまだしも、
道家や易の提示する、方向性抜きの道には乗っかった上で、その正しい方向性に背いているために、儒家や「易経」の記述とは相反する。
もちろん儒家のほうは、正しい方向性に即して道を歩み進むため、正しい方向とは反対の方向に道を歩み進もうとする
地獄道や鬼畜道とは相容れない。道に則った上でしかも一方向に歩みを進めるという、同じ段階にあればこそ相容れないのであって、
そもそも道を一方向へと歩み進めようとすらしない道家とは段階が全く違うために、一切が相容れないというようなことはない。
113:考える名無しさん
10/09/24 13:59:26 0
道家や易の提示する「道」:
―――――――――――
人 人
類 類
の (特に方向性を示してはいない) の
破 繁
滅 栄
―――――――――――
儒家や易経の提示する「道」:
―――――――――――
人 → → → → → 人
類→ → → → 類
の → → → →の
破 → → → → 繁
滅 → → → → → 栄
―――――――――――
地獄道や鬼畜道の提示する「道」:
―――――――――――
人← ← ← ← ← ← 人
類 ← ← ← ← 類
の ← ← ← ← ← の
破 ← ← ← 繁
滅 ← ← ← ← 栄
―――――――――――
114:考える名無しさん
10/09/24 14:16:26 0
ちなみに
儒家や易経と地獄道や鬼畜道のみそくそ:
―――――――――――
人 ← → ← → 人
類 ← ← → ←類
の → → → ← → の
破→ ← ← 繁
滅 ← → → ← →← 栄
―――――――――――
で、人類の繁栄を企図する儒家や易経と、破滅を企図する地獄道や鬼畜道が入り乱れて
収拾が付かなくなる。これは破滅にいたる狂乱を嬉しがる地獄道や鬼畜道の側からすれば
結構なことだろうが、人道でもある儒家などの側からすれば穢れた世の中で、そうであるよりは
そうでないほうがいいに決まっている。また、特に道に対して方向性を提示しない道家にとっても、
善悪が際立って入り乱れ合っている状態であるが故に、諦観すべき愚かしき事態であり、
無為自然の徳に安んじて、善悪の争いからは一歩も二歩も引き下がることが旨となる。
老子や荘子とて、春秋戦国時代という乱世における思想家であり、実践面では結局、
乱世における処世のあり方を主題として述べていて、その実践手段が何よりも「無為自然」だった。
泰平の時代においてであれば、文帝のように規制緩和の法律処理などに携わったり、
武帝のように封禅の儀式を執り行ったりの、道家的統治者ならではの行動的実践も生まれる。
それは、>>113の一番上のような、道を一方向に進もうとする躍起さが取り払われた社会を
企図せんがためであり、正逆どちらかの方向性に即したり、とにかく歩みを進めようとする
多動性障害状態を冷却化せんがために行われる。方向性自体を根本的に否定して、無為に帰す。
115:考える名無しさん
10/09/24 15:06:25 0
結局、道の方向性ではなく道そのものを貴ぶ道家と、道の正しい方向性を貴ぶ儒家が
中国思想における勝ち組となり、道の誤った方向性を嬉しがる鬼畜道や、相反する
道の方向性の衝突が入り乱れるみそくそ状態を面白がる連中(縦横家など)は負け組となった。
>>113の上二つが中国全体において貴ばれ、>>113の下一つと>>114の状態が忌まれて、異端扱いされた。
根本的な部分における理念の面で、総体性が正しめのものを選び、おかしめのものを切り捨てたため、
相当に凶悪な暴君や凶賊なども生み出しながら、中国社会全体が滅亡級の破綻に見舞われることはなかった。
国家や社会全体の事跡を記録した正史が、何らのフィクションを踏まえることもなく楽しめ、
中華帝国全体を一人の人間として捉えた場合にこそ、その偉大さが際立ってくる。
部分を見れば相当におかしなものだらけなのに、全体としてはまともな調和を維持し続けてきており、
部分に関しては美麗さも見事なものなのに、全体としては破綻続きであるようなのとは真逆の位相関係にある。
一人一人は乱暴な野人も同然なのに、全体としてまとまれば偉大な仁徳者となる中国人。
一人一人は美男や美女でも、全体としては救いようのない凶賊と化すどこぞやの連中。
116:考える名無しさん
10/09/24 18:42:21 0
>>112
易の法則は情念(言葉遊び)ではないと言うのが分からないのですが…
とりあえず易経を読んでみます
117:考える名無しさん
10/09/24 19:06:05 0
情念を一切伴わないというのでもないし、過ちを一切許容しないというのでもない。
数学なら一切の情念を排し、数理的な過ちをも徹底して排除するが、
易は理性と情念、正しさと過ちの両者すらをも清濁の両極として受け入れる。
実際上ある程度の情念を持ち、数理論理的な過ちを犯すこともある人間という
生き物の全法則を一般的に捉えて、そこから普遍的な哲学構造を導き出している。
易の法則の前では、情念の赴くままに放蕩の限りを尽くすことも、
過ちこそを確信的に犯し続けることも、その全てが許容の範囲内となり、
易の側はどこまでも許容をし続ける一方で、情念や過ちばかりについて一概すぎた
側のほうが自動的に破綻を来たす。理性と情念、正しさと過ちの調和法則を見定めて
いるからこそ、一概な情念や過ちばかりに拘泥するもの以上にも、易のほうが
情念や過ちの許容についても底無しとなり、情念や過ちについて一概であり続けた
ものが自業自得で破滅する先の先の先の所まで、想定をし尽くすことができる。
原理的に、そういう風にしかなっていない。
一概な情念や過ちにひた走るものよりも、理性的正しさと情的過ちの調和法則を
考え抜いているもののほうが原理的に安定し、情的過ちに専らであるもの以上にも
原理的に長命となる。個々人に関して言えば、正しい人間よりも間違った人間のほうが
長生きすることだってなくはないが、総体的には清濁の調和を重んじるもののほうが、
清濁の両極に振れ切るものよりも原理的に安定し、長命ともなるようになっている。
118:考える名無しさん
10/09/24 19:22:32 0
易の法則とはどんなものですか?
119:考える名無しさん
10/09/24 21:39:55 0
>>117
情念と独立に道や人間が在ると言う形而上学ですね
私は情念一元論で数学も言葉遊びとしての情念と捉えています
結局は信仰の違いですかね
120:考える名無しさん
10/09/24 22:35:59 0
情念一辺倒でない一方で、理性一辺倒でもないし、
過ち一辺倒でない一方で、正しさ一辺倒でもない。
1+1=2のように人間自身の定義によって導き出される正しさと、
1+1=3や4のように、自ずからの定義が警告する過ちとを、
「正しさは優良で過ちは劣悪である」という程度の分別に基づいて、共に許容する。
正しさが過ちを一方的に滅ぼし尽くすのでも、過ちが正しさを滅ぼし尽くすのでも、
正しさと過ちをただひとしなみに扱うのでもなく、相応の序列を保った中に並存させる。
何はともあれ、それが最も安定的なものの考え方であり、理性一辺倒や情念一辺倒と
化す場合よりも長命となるために、実際に「易」も人類最古の古典ともなっている。
121:考える名無しさん
10/09/24 22:42:15 0
なるほど。読んでみます
122:考える名無しさん
10/09/24 22:58:31 0
知ってのとおり、「易経」は占筮の書でもある。
占いこそは、信じがたいものの最たるもの。
父親の周文王と共に、「易経」本文の執筆者ともされている
周公旦自身ですら「天命は易からず。天は諶とし難し(書経・君奭)」といい、
易占によっても啓示されるはずな、天命の信じ難さを指摘している。
「易経」の扱いには、国家の中枢奥深くにも入り込む儒者などにとっての学問対象と、
街路で金をもらって占いを行う易者の商売道具との、二種類の扱いがあったと
「易経精義」のまえがきでも述べられている。易占の信頼度の低さなどは、
易者の占いの信用度の低さから派生してきたものなわけだが、一方で、
純粋な学問対象として「易経」を扱う儒者などにとっては、信仰の対象ではなく、
自らの徳性を養ったり、権力者などへ道理に適った助言を行ったりするための
ごく真面目な学知の資料であった。昔の権力者が重大な決断に迫られたときに
易占を行ったりしていたのも、あらゆる知見の動員を尽くした先に、さらなる
付加要素としての、より深遠な知見を占いの結果に期待していたからであり、
何もかもを占いの結果に依存するような、信仰の対象としていたからではなかった。
信仰の対象としてみようとするなら、易や易経は全く頼りのないものだが、
人事を尽くした先にある天命を、信仰ではなく学知の対象として求める上では、心強い。
123:考える名無しさん
10/09/24 23:46:25 0
易が世界最古の古典であるのは、易の基本構造である八卦や六十四卦が
約5200~4500年前に活躍したとされる伏羲や神農、黄帝らによって構築されているためで、
「易経」本文に限ってみれば、周文王や周公、孔子といったかなり後代(約3200~2500年前)の人間によって書かれている。
これは約3200~2600年前の人々の詩集を蒐集した「詩経」とほぼ同年代で、4000年以上前の王侯の言行すら
実際通りに記録しているとされる「書経」よりも名目上は新しい。しかし、「書経」はそのほとんどが焚書坑儒や
永嘉の乱で遺失し、いま現存している「書経」の大部分も後代の偽書であるとされる。(ただし「孟子」などの諸子百家
の発言にも、「書経」偽書部分の記述が散見され、偽書部分が必ずしも全くの事実無根であるとは断定できない)
最古級で約5000年前の古代エジプトの遺跡にけがかれているヒエログラフなどから読み取れるエジプト神話や、
約4600年前のメソポタミアの英雄の姿をフィクション混じりで描いた「ギルガメシュ叙事詩」などは、
「易経」本文や「詩経」はおろか、本物だった場合の「書経」よりもその成立が古い。
ただ、易の基本構造である八卦や六十四卦の成立はさらにそれらよりも古い。
「易経」が世界最古の古典ではなくとも、その基本構造である「易」は世界最古の古典であり、
その世界最古の古典に基づいて、人類は一旦、ある種の方向性ばかりに基づいた無限発展をしめくくる。
124:考える名無しさん
10/09/25 09:04:52 0
井上さんの説明は要領を得ないと思う。
易とは陰陽五行説を基とする思想なのである。
陰陽五行説とは、自然界はすべて相対的に存在していると言うものなのだ。
その基本は陰と陽である。
しかし、陰と陽であるとすると、その中間に陰と陽を生じさせるものが無ければならない。
つまり、地球である。地球があってそれに日が刺せば陽となり、地球の反対側は、陰となる。
一つの地球が陰と陽とに分かれるのである。地球は変わらずに、地球の上に
陰と陽という変化が生じるのである。この現象が、「道:一」を見出す原因ともなり、
現象の説明にもなるので有る。
125:考える名無しさん
10/09/25 10:26:30 0
光と言うものは、色の一つである。先に色は形と不可分であるとしていた。
そうすると、光と言うものは形でもある。この宇宙にある光は形なのである。
暗い影と言うものも、形を持たないではありえない。
そうすると、光と影と言う形の変化、つまり陰と言う形から陽と言う形に変化する原因は
どこのあるのか、と人は追及したくなるのである。
ここが大事な問題点なのである。この原因を追究すると言う人間の欲心が
問題なのである。
126:考える名無しさん
10/09/25 10:45:46 0
>>125続き
欲心とは、根本として、光と影に実体があると考えることであり、
それ故に、光が価値有るものであるとか、影が価値有るものであるとかの
分別をし、できるだけ、自分に有利になるように考えることである。
現在の宇宙開発などは、その欲心である。
また易学などが中国で尊重されているなら、それは中国人にとって不幸である。
二兎を追うもの一兎を得ず、の例えのとおりになるだろう。
心中戦国時代の諸侯は、易学を尊重したと言う記述は、儒家を除いてないのである。
反対に、道家、墨家、要するに儒家以外は、易学を捨てているのである。真、この点は浅学の故の
間違いがあるかもしれない。
127:考える名無しさん
10/09/25 11:13:56 0
>>122俺は「易経は単なる占い・迷信の類」だとは思えないな。
あれは「太古のコンピュータープログラム」であって、その
数千年も以前のものを「現代」に当てはめて路傍で占いなんて
したって意味ありませんよ。初期のウィンドウズで現代の
エロ動画をダウンロードして見ようとし、結果旧いPCが
壊れるようなもの。易は「二分法」が重要で、その「卦」は
もはや無意味だと思います。
128:考える名無しさん
10/09/25 12:03:57 0
結局、易というものの真相は、未だ一般社会に行き渡っていないため、
既成の知識の範囲内でどんなに詳細な説明を尽くしたところで、要領を得ることはあるまい。
ライプニッツやボーアが易を研究し抜いていたことが多少のヒントにはなっているが、
だからといってその部分だけを示しても、まだ全く易の真相の把握には至らない。
俺はそれを知ってるから、自分では納得の限りなわけだが、
それを説明したからといって、おまえらが理解できるとも支持するとも思えない。
せめてでも、ホーキングやウィッテンが降参宣言でもしてからでないと。
129:考える名無しさん
10/09/25 13:44:55 0
ホーキングやウィッテンなんか、俺は今さらどうとも思ってないが、
おまえらにとっては未だあのへんが「人類の英知の究極」扱いなんだろ?
日本人なら、茂木健一か竹内薫あたりが。
そんな、俺が5年以上も前に通過した段階で手こずってるような奴らが、
俺の発言だけを聞いたところで、何一つ分かるわけがないじゃないか。
ホーキングや竹内の著書は昔俺も読み込んだが、ただ本を買って読んだだけで
本人たちに教示を受けたわけでもないので、まったく師匠だとも先生だとも思っていない。
著作を売って印税を稼ぐ商売人になるのと引き換えに、師弟の節義をかなぐり捨てた奴ら。
それも本人たち自身の自業自得なので、こちらが無礼扱いされるいわれもない。
そんな風に自分がなりたくないから、俺自身、世に阿って、
今の価値基準で正式な学者扱いされるような身分になることを拒んでいるのでもある。
曲学阿世の小人の儒などにはなりたくもないし、そもそもなろうとしたってできやしない。
130:考える名無しさん
10/09/25 14:26:02 0
まさに、孔孟などの諸子百家の思想書も、それを売って金を稼ぐためではなく、自分自身が
学問を教示したりするための道具止まりだったからこそ、あんなに粗末な体裁になっている。
孔子が編纂したとされる易や詩書などの経書も、既存の重要文献の成型版であるのみで、
編纂者である孔子が著作権を主張できるような作為の介在は極力控えられている。
「史記」を含む正史は、そのほとんどが太史公(歴史記録官)などの正式な職務に則って書かれており、
しかも司馬遷は今上帝の怒りに触れることを恐れて、存命中には「史記」を一般に公開しなかった。
中国の伝統的な書物分類である「経史子集」のうちで、著作を売りさばくことで著者自身が身銭を稼ぐ
「商業誌」としての性格を帯びているのは、小説文学集などにあたる「集」のみで、それ以外は一切、
販売目的で書かれてはいない。販売目的で書かれる書物はすべて「集」であり、経史子集の分類では
最下等に当たる。科学書だろうが数学書だろうが、それは同じこと。それを買って読んでもらったのなら、
読み手ではなく書き手のほうが感謝しなければならないほど。書き手や教え手としての威厳を、
売り手ともなることで相殺し、師匠や先生として畏敬される可能性をもあえてかなぐり捨てているから。
131:考える名無しさん
10/09/25 14:37:26 0
出版業界や広告業界との提携で、私的には商売人として大金を稼ぎまくっている学者が、
大手の大学などで教授をしていたりもする。だからそのような大学は、入学試験を難問化するなどの
あまり利口でない手段によって、有名教授の講義を受ける敷居を高めたりしなければならなくなる。
本当に教授に権威があるからではなく、貧乏人などには妬みも被る商業的な成功者だから、
利権のおこぼれに与ろうとする不純な動機での学生などを避けるために、学生を選抜する必要が出てくる。
しかし、逆に孔子や孟子のように、自分たち自身が社会的にも商業的にも成功しなかった学者であれば、
不純な動機の学生は近寄りもしない一方で、本当に正学を欲する学生のみが自然と集まってくる。
だから、難解な入学試験などによって学生を選抜するまでもなく、「去るものは追わず、来るものは拒まず」
の自由な教学姿勢を自然と保つことができる。孔子が商売で成功した弟子の子貢を咎めるなど、
儒者が商売を忌避するのにも、教学体制の健全化という確かな理由が伴っている。
132:考える名無しさん
10/09/25 19:25:30 0
その全てが「金になる」という、「採算度内」で構築されて来ているのが洋学であるのに対し、
個々人に関して言えば、ことごとく「採算度外」であるのが漢学。国のため、天下のために
我が身を殉じ、貧窮や非業のうちに人生を終えることすら必ずしも厭われていない。
そしてそのような、わが身をも超えた仁義を備えた人間が「君子」と呼ばれ、
わが身かわいさのために小利を貪る人間が「小人」とも呼ばれる。
インドの乞食行者のように、完全に利欲を捨て去る人間までもがそんなに多いわけではないが、
利欲が天下国家の富裕とも一致して仁義となる場合と、単なる私欲に止まる場合とが厳重に差別されて、
個々人の私益に関しては全くの採算度外であることが常套となっており、特にその傾向が強いのが
儒家や道家で、いずれも私利私欲を(少し別の段階で)非難している点では共通するが、自分たちの言説が
天下国家全体の利益になると保証している点も共通し、個を超えた公における採算度内とはなっていて、
そこが公私両面における採算すら度外視する、インド哲学などとは異なっている。
133:考える名無しさん
10/09/25 19:34:47 0
完全な採算度外視によって乞食行に没頭するインド人などと比べれば、
中国人は天下国家レベルでの採算は必ず計算に入れている。その一方で、
個々人については全くの採算度外である場合が極めて多く、個々人についても
採算度内であることが潜在的に約束されている西洋的価値観などからすれば、
人権侵害にも相当するような個人主義のかなぐり捨てが方々に見られる。
ただ、それによって中国人は天下国家全体の利益を西洋以上にも考え抜いており、
全体としての貧困や餓死の分量は、ブラックアフリカを含む西洋よりも遥かに低く抑えている。
134:考える名無しさん
10/09/25 19:43:26 0
中国思想:個々の採算を度外視。全体の採算を徹底追求。
インド哲学:利欲の捨て去りによって発見できるものを模索。
洋学:個々の採算だけが問題で、全体の採算は度外視。
個々の採算を度外視してでも、全体の採算を究明する中国思想の基本姿勢こそは、
全体の採算を度外視してでも個々の利益を追求する洋学などと犬猿の仲にある。
利欲全体を捨て去ってしまうインド哲学は、もはや意味不明(微妙不可思議)であるために
一概な敵対の対象とすらならないが、利得を追求している対象が決定的に
相反していることが、漢学と洋学の致命的な断絶を生んでいる。
135:考える名無しさん
10/09/25 19:57:35 0
しかし、個々の採算を度外視することが本論である漢学の中にも、
一応、個々の利得を追求することの意味が少しだけ説かれている。
諸子百家の中にも一応いたとされる「商家」などがそうだし、「史記」の
貨殖列伝も、そのような私欲志向の存在性をあくまで冷徹に述べている。
妻子もろくに養えず、飲食や被服すら親戚や知人にまかなってもらっておいて、慙愧の念も抱かないようでは下の下であるし、
山野に隠れて生活を送る清廉の士でもないのに、貧賤に甘んじつつ口だけは仁義を語るような輩は、愧ずべき存在である。
誰しもが普通はそう思うから、それよりはまだマシなものとして、私欲のために
「貨殖」を試みる商売でもいいから、とにかく手に職を付けておこうとする。
上記のようなろくでなしの有り様は、若き日の高祖劉邦や陳丞相平などにも
共通してはいるが、あくまで皇帝や宰相として究極レベルの成功を果たしたからこそ
称えられているまでで、ただのろくでなしのままでいるのでは、
愧ずべき下の下の存在であるに過ぎない。
136:考える名無しさん
10/09/25 20:15:31 0
商業といえど、一応は産業の一種なのだから、それだけで罪になるようなことはない。
流通を司る一端の職務として成功したり、失敗したりするのみで、そこに強奪したりされたりの
犯罪性は元来伴っていない。法律をねじ曲げてまで悪徳商売に走るような人間は、中国では
儒学を心得た徳治者などによって即座に潰されていたから、商業と権力犯罪者の結託による
世の荒廃などは、司馬遷は全く想定の対象とすらしていない。事実、中国には権力道徳学たる
儒学が実在していたから、それ抜きの歴史を考えるほうが空想となってしまうので、現実主義の
歴史家として正史を編纂した結果として、「商業は犯罪ではない」という結論をも述べている。
権力道徳が一切存在しない世界における、政財界の結託による自殺行為級の重権力犯罪などは、
古来の中国史上においては全くの想定範囲外で、それはとにもかくにも、儒学という権力道徳学が
中国には実在しているから。儒学抜きでの歴史展開などを、想定するほうが非常識となってしまう。
137:考える名無しさん
10/09/25 20:24:28 0
孟子が市場でのマネーゲームを批判してましたよね
138:考える名無しさん
10/09/25 20:30:25 0
権力道徳云々を語る以前に、自分自身の貧富のほうが問題である大部分の庶民は、
当然のこととして商売などによって私利私欲を追求し、時には大諸侯以上もの財物面での富裕を
手に入れることすらあり、窮屈な宮仕えなどをせずとも済むぶん、より悠々自適な生活を送れる。
だから、個々人としての幸福は素封(為政者でもないのに富裕でいる)に極まるとでも
言わんかというほどもの勢いで、司馬遷は貨殖の存在性を肯定的に述べている。
「史記」本文最後尾における貨殖列伝において。
史記は本紀→世家→列伝という風に、個々人の伝記の記述順序を、その位階や年代に即して厳格に
序列化しており、始めのほうに書いている人間ほど偉く、最後のほうに書いている人間ほど賤しく
なるようにその記述順序を徹底している。それは俺自身、邦訳「史記」の本文を通読して確認した。
一応貨殖列伝の後に「太史公自序」があるが、これは全文の箇条書きともなっていて、番外にもあたる。
個々人の伝記として実質最後尾に書かれているのが貨殖列伝で、その記述姿勢までもがもっぱら
貨殖に対して肯定的であるものの、その上で最後尾に書かれている。万物には肯定すべき道が
備わっているとする道家の説にも即した上で、劣後すべきものは劣後する儒家の説にも即している。
司馬遷自身に思想家としての特色はないが、道家と儒家を折衷しようとした程度の痕跡にはなっている。
139:考える名無しさん
10/09/25 21:22:28 0
>>137
たぶん公孫丑下・一〇における、季孫の発言の引用の中での悪例を指してるんだろう。
「史記」貨殖列伝における白圭の振る舞いなどが、この悪例と同等の所業となっているが、
あっちで高いものをこっちで安く買ったり、昔安かったものをいま高く売り捌いてみたりの
マネーゲームも、度を越した上で十分な取り締まりも受けなければ、人殺しすら伴ってしまう。
孟子のような有能な儒者がそうなることを予め的確に非難していた中国史上においては、
そのようなことは二度とあり得ない。ちなみに孟子はこんなことも言っている。
「人を殺して貨を于(盗)り、閔(くら)くして死を畏れず。凡ての民譈(うら)まざるなし」
(「孟子」万章章句下・四)
天下万民誰しもに怨まれ通しでいるからこそ、怨まれていることにすら気づかないんだろうが。
金銭欲が人の命すら蔑ろにする可能性も一応は想定していて、その弊害も如実に示している。
弊害も分からずに、誰しもに怨まれていることを逆に誰しもに怨まれていない証拠だと倒錯するような
可能性も、事実の明言によって予め防止されている。明示された以上は、過ちを繰り返す余地もない。
140:考える名無しさん
10/09/26 09:33:18 0
井上さん、このスレッドは歴史に重点を置いたものにしましょう。
他方の「東洋教学総合スレ」は哲学を重点にしましょう。
141:考える名無しさん
10/09/26 10:47:36 0
君たちに必要なのは、仕切ることではなく仕切られることなのだよ。
分厚い塀や頑丈な檻にもよって。
142:考える名無しさん
10/09/26 12:22:07 0
「史記」蘇秦列伝では、縦横家の鬼谷子に学んだものの生計を立てられず、
貧窮している姿を「仕事もせずに学問ばかりやっている自業自得だ」と親族にあざ笑われ、
蘇秦本人も「人は成功しなければ価値がない」と慙愧発奮して、諸国を巡って合従連衡を取り付け、
そのどさくさに紛れて自らも莫大な富を得る仮初めの栄光に浸っている。しかしその、
大義にも基づかない陰謀策が仇となって、蘇秦の策はたった15年で瓦解し、
諸国はまた殺し合いの戦乱へと陥り、蘇秦自身も咎を受けて車裂きの刑に所されている。
この蘇秦と、学友で秦での内部工作に回った張儀とを合わせて、司馬遷は「乱世を煽った危険人物」
と断定している。「史記」本文最後尾の貨殖列伝における、貧窮者を「愧ずべき下の下の存在」とする
言及とは打って変わって、「史記」中盤の蘇秦列伝においては、貧窮や頭でっかちを恥じて発奮し、
政治的な手管によって、一時の成功には与ることのできた蘇秦を惜しげもなく糾弾している。
143:考える名無しさん
10/09/26 12:31:03 0
一見、矛盾しているようにも思える司馬遷の態度、その心は、
「史記」太史公自序における以下の言からうかがうことができる。
「布衣匹夫之人、不害於政、不妨百姓、取與以時而息財富、智者有采焉。作貨殖列傳第六十九」
「無位無冠の匹夫の立場でいて、政治を害さず、人民を妨げず、時事を踏まえた売買で
財富を築き上げたものがあった。智者もこれをよしとするので、貨殖列伝にこれを書いた」
(「史記」太史公自序第七十より)
政治を害して人民を妨げるような、権力犯罪込みの悪徳商人は、初めから取り上げの対象としていない。
商民としての分をわきまえた中に、節度のある素封を試みて成功することは、それこそ孟子ですら咎めること
ではないから、本文の一番最後という、最も劣後した部分において、まっとうな貨殖の行状のみを記しておいた。
144:考える名無しさん
10/09/26 12:49:52 0
司馬遷は「春秋経」の専門家だった儒者の董仲舒に教示を受けていたために、自分自身
春秋経を非常に意識して書いたと自序でも吐露している。ただ、孔子の書いた春秋経は、
殺し合い奪い合いの横行する春秋時代という乱世において、善人であるものを称揚し、
悪人であるものを非難する「勧善懲悪」の意を込めて書かれたものであるため、
その筆法は司馬遷が生きた泰平の時代である前漢中期には相応しくなかったので、
あえて道家的な万物静観の方法論に基づいて「史記」を編纂したと述べている。
自分で読んでいても感じたが、やはり道家的な手法が「史記」の編纂姿勢には伴っており、
ただでさえ記述の正確な春秋経や左伝以上にも、私見を排した史実の整斉に特化している。
「書経」の歴史記録を保存した魯の周公から、「書経」の整理や「春秋」の編纂を試みた孔子までが
約500年。その孔子から司馬遷までがさらに約500年。どうも「500年」というのが歴史の再編修に
最適な周期のようで、司馬遷はその500年目に自分が史書を編纂することに天命を感じ取って
いたようだが、ただ編纂し直すだけでなく、当世の時勢に合わせた適当な編纂姿勢に則っている。
司馬遷の「史記」以降の「漢書」や「唐書」などの中国正史も、「史記」寄りの記述姿勢であったり、
むしろ「春秋」寄りの記述姿勢であったりと、臨機応変な編纂姿勢で書かれているようだ。