【フワーリズミ】東洋教学総合スレ0007【関孝和】at PHILO
【フワーリズミ】東洋教学総合スレ0007【関孝和】 - 暇つぶし2ch190:考える名無しさん
10/09/29 17:18:00 0
人の話を聞かないために、自分から一方的に意見を述べ立てる。
「攻撃は最大の防御なり」も兵法の一種であり、目的のために選ばれない手段のうちだが、
選ばれない手段の先にある目的がアレなんじゃ、自滅の呼び水にしかならんよ。

191:考える名無しさん
10/09/29 17:26:03 0
>>190
>選ばれない手段の先にある目的がアレなんじゃ、自滅の呼び水にしかならんよ。

どういう意味でしょうか?

192:考える名無しさん
10/09/29 17:51:48 0
>>153の上二段参照。

見事なまでに何も聞かず、何も理解せず、
それでいて自己意見だけは述べようとする。
師弟関係として最も凶相を帯びた状態。
弟子が童蒙なくせして、童貞ではない。

193:考える名無しさん
10/09/29 18:13:51 0
>>192
アテクシは論客であります。自由な論客であります。

194:考える名無しさん
10/09/29 18:21:08 0
しかし、古代中国と言うのは、言論の自由があったのですね。
これは特筆すべきであると思います。しかし不幸を買うと即賭殺ですね。
悪い報告を持ってきたものまで賭殺ですからね。これって言論の自由があったといえるのかな?

195:考える名無しさん
10/09/29 18:22:47 0
相手の意見をちゃんと聞いて、対等レベルの応答ができる論客なら結構だが、
実のある論議を行うための、最低限の約束事すら踏まえようとしない、言論テロには用はない。

196:考える名無しさん
10/09/29 18:44:02 0
「兵法家伝書」無刀の巻で柳生宗矩がいうことには、
「相手が本気で打ちかかって来るときの刀は取れるが、刀を取られまいとしている時の刀は取れない。
しかし刀を取られまいとしながら打ちかかって来ることはできないために、それはそれで無刀となっている」と。

もはや防戦一辺倒となって、自分からの有効な攻撃が出来なくなっているのなら、それを無理やり
武装解除に追い込んだりする必要はもはやないのであり、刀を取られることも恐れずに打ちかかってきてこそ
何らかの事件が生じる。今に当てはめてみれば、もはや相手との実のある論議も捨てて、一方的に
自己意見ばかりを述べ立てることでの防戦一辺倒となっており、自分もそれで致命傷を負わずに済む一方で、
相手への有効な論撃も行うことができないで。たとえ相手に足をすくわれるような反論をされるのであっても、
相手の間合いの内側にまで切りかかっていく本気の攻撃でないと、相手にもダメージが加えられることはない。

虎穴に入らずんば虎子を得ず。
それで虎に食い殺されるのであっても、実のない論議ばかりを続けているよりはマシではないか。

197:考える名無しさん
10/09/29 21:16:04 0
正式にではないが、かなり確定的な欧米処分案:

イスラエル・・・国家消滅。現国民は全員禁治産処分。罪の重さによっては入獄。
米、英・・・本土完全占領。全国民に禁治産処分。罪の重さによっては入獄。
欧州、露ほか・・・政府掌握。全国民から参政権剥奪。罪の重さによっては禁治産処分や入獄。

欧米ではないとはいえ、今の日本も資本主義国であり、一人頭の資源独占率も
世界平均を大幅に上回っており、ちょうど欧州のドイツと同等の資源占有率なので、
欧州と同等の処分が日本国民に対しても科される。ただ、伝統遺産に関しては、
日本は東洋教学の宝庫だし、俺のように、自主的な在宅謹慎によって資本主義後進国
への自己加害をほぼ0に食い止めてきた人間もいるので、比較的復興はしやすいだろう。
突出した重罪人を自分たちで自主的に入獄させるなどすれば、なおのことよい。

198:考える名無しさん
10/09/29 21:29:53 0
思うに、東洋教学の体得者ってのは、常人なら発狂してしまうような
精神的修羅場をも潜り抜けてきているので、共感し合おうにもし合えないから、
自然と畏敬を介しながらの接触しかできないのだと思う。

畏敬を介さずに接することで、発狂級の自己崩壊などに見舞われるのは、
東洋教学の会得者でない側のほう。直視すれば失明してしまうほどもの、聖賢の
威光を耐えしのぎつつ接するために、畏敬やそれに即した礼節が必要になる。

199:考える名無しさん
10/09/29 21:47:16 0
畏敬や礼節の実用的側面すら逸脱して、敬礼それ自体を金科玉条化する
儒者の姿勢を、柳生宗矩は「自ら繋がれた犬猫になろうとしている姿」と揶揄している。

儒者が敬礼を金科玉条化するのにも、それなりの意図があるのであり、
そのままでは敬意や礼節の何たるかも知らない庶民などにまで、一応敬礼の
形式を行き渡らせておいて、庶民までもが聖賢に接することで、真の聖賢の偉大さを思い知り、
自分たちもそうなれるように努めようとする取っ掛かりを作ってあげんがためのこと。

まさに自分自身は聖賢であり、これからも山の高みを登っていこうとする人々からすれば
儒者の形式主義は低劣なものにすら映るわけだが、高みに昇り詰めて逍遥遊する聖賢たちと、
聖性の階段を登ろうとすらしない庶民の間隙を埋めて、智愚の断絶による二極化を避けようという
儒者ならではの心意気があるのであり、それはもはや独走状態にある「名人」たちには与れない領分。

凡庸ながらにも、貴賤尊卑の架け橋にならんとする心意気を、ちっとは買ってくれや。

200:考える名無しさん
10/09/30 05:16:24 0

マルティン・ハイデッガー

1920年代から仏教などの東洋哲学と出会い、学び始めた。特に道元の『正法眼蔵』の有時(うじ)の
巻には、大変驚いている。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」など、存在と
時間は分けられないことが説かれ、主著の『存在と時間』 (Sein und Zeit) は直訳すると「有」と「時」
だが、『存在と時間』の哲学がすでに遠い昔に明らかにされていることに驚嘆したと言われる。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ハイデッガーは正法眼蔵をパクったのか?
科学とかで、欧米人の成功者には、実は日本人からアイデアをパクったという話がけっこうあるだろ。

201:考える名無しさん
10/09/30 05:19:54 0
おいらは、マルクスの「生産手段の国有化」という考え方は、
大化改新の公地公民制のパクリなんじゃないかと疑っている。

202:考える名無しさん
10/09/30 11:32:00 0
パクリであるにしろないにしろ、「周回遅れの一等賞気取り」であるのには違いないな。

203:考える名無しさん
10/09/30 13:43:25 0
「人も運に乗じては、悪をなすといへども、其の悪十成(十分に完成)する時は、是をうつ」
(「兵法家伝書」殺人刀)

東洋教学の自己流での焼き直しによる悪用なども、何か高尚な目的が備わっているかのような
ほのめかしを帯びているうちは放任されてきたが、そのパクリセットが一通り揃いきるに及び、
できる限りのやりたい放題を黙認した先にあったのは、何億人もの人々を犠牲に追いやる地獄絵図。
十分に完成したところにおいてこそ悪は極まり、純粋に悪でしかなかったことも明らめられて、終焉を迎える。

「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。これ等誠に、
人を殺す刀は、人を活かす剣なるべきにや。(中略)兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。
人をきるにはあらず、悪をころすなり。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也」
(「兵法家伝書」殺人刀)

ここで柳生の扱っている善悪論は、善悪論ばかりに拘泥しているが故の結論ではない。
本書の後半では、禅僧が是非善悪を去りきった境地に至りつつ、なお現象面においては是非への判断にも
浴していることの意義が説かれてもいて、一旦是非善悪を超脱しきった先にこそ、上記のような半ば
冷徹でもあるような善悪論すらもが展開される。善悪に拘泥している限りにおいて、人はかえって
善や悪に囚われ、正常な是非の分別も覚束なくなる。正しい善悪の分別のためにこそ、
一旦は是非善悪を超脱することの意義までもが踏まえられている。

204:考える名無しさん
10/09/30 14:06:25 0
「兵法家伝書」は柳生宗矩の著ではあるが、上泉信綱から柳生石舟斎へと伝わった
新陰流(柳生新陰流は俗称)の正統奥義を認めたものなので、宗矩一人に全ての
文責を負わせるのもどうかと思う。なのであえて著者を「柳生」と呼ぶことにしよう。

「兵法家伝書」ではしょっちゅう、「病」とか「病気」とかいった言葉が出てくる。
これは「心の差し障り」といった程度の意味で、特定の医学的疾患を差しているわけではない。
しかし、ここで取り上げられている「病」が、図らずとも現代精神医学上の「心の病」
とも同等のものとなっていて、心の病が生ずるプロセスや、その治療方法が
現代の精神医学などよりも遥かに的確で簡潔な言葉によって述べられている。

純粋精神たる「神」こそは「心の主人」であり、この主人が使いに出した下人が、
使い先に行ったきり帰ってこなくなるように、心が神の支配から逸脱しての放蕩を行う、
すると何事も道理にかなわない形でしか思うことも言動することもできない「妄心」となり、
身足手の扱いについても致命的な差し障り=病を生ずるようになる。純粋精神としての
神の完全な支配下に置かれた心こそは「道心」となって、考えも行ないも全てが道理に
かなうようになり、身足手の扱いからも病が去って、武術などの技芸においても上達する。

205:考える名無しさん
10/09/30 14:41:09 0
「目で見るのではなく、心で見よ」という、正統な武術からオカルトに至るまで
よくよく引き合いに出されている名文句も、「兵法家伝書」活人剣に載っている。

目で見ることは、四方八方全空間に対する半分以下の空間把握ばかりに偏らせ、
目で見ている部分から攻撃が及んでくるとも限らない実際の戦いの場において、
視覚によって空間把握が偏ることは致命点にもなりかねない。その解決のためにも、
「心で見る」ことが空間把握の適正化と最良化をもたらす。これはちょうど、易の
八卦や六十四卦に基づいた空間把握にも通ずる所となっていて、実際に柳生も
陰陽を「静動」として捉えた力学論をも述べている。禅に限らず、易学に密教に
道家に儒家と、当時の日本の東洋教学の多くを網羅した上で、いちいちその解釈
が理にかなっている。物書きではなく剣術が本業であるにも関わらず、道を心得る
ものならではの勘によって、お客様状態でもない親密な教学理解に及んでいる。

ちなみに荘子は「心の目すら閉じよ」とも言っている。純粋精神を主人とする
道心が、視覚よりは適正に空間を把握することによる、武術の上達を説く柳生とは
違って、もはや無為自然に安んずる戦国道家の観点からすれば、心による観察
すら捨て去って、心が道に合致しきるのが最上だという。それも一つのあり方には
違いないが、司馬遷もいうとおり、ちょっとこれでは非現実的に過ぎるとも思う。
易程度の概括的な現象把握の下に、心の性情やそのあるべき姿などをも具体的に
述べる儒家や仏教のほうが分量的にも豊富で、心とか現象とかも全てナシにして
しまう道家の行き過ぎ加減は、それも東洋教学の一種ではあるが、全てではない。

206:考える名無しさん
10/09/30 18:40:50 0
「わが愛する所を人にくめば、怒り恨み、或いは又わがにくむ所を人同じ心ににくめば、悦びをなし、
非をまげて理となす。人至宝をあたふれば、是れを請けて悦びをなし、顔に笑みをふくみ、
血気顔にうるほひを生ず。此に於いて非を以て理と為す。是れ皆、この身の血気肉身より、
時にあたってわき出る心なり。是を妄心と云ふなり。この妄心がおこれば、本心(道心)かくれて
妄心となりて、皆あしき事のみあらはるるなり。然れば、道ある人は、本心にもとづきて妄心を
うすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり
濁れたる名を取るなり。(中略)妄心は皆、何事をなせども、邪まなり。この邪まの心が出でたらば、
兵法も負くべし、弓もあたるべからず、鉄炮もはづるべし、馬ものらるまじ、能も見苦しかるべし、
舞も聞き苦しかるべし、云ふ事もあやまりあらはるべし。一切皆なたがふべし。本心にかなはば、
何事も皆よろしかるべし。偽りをかまへて、偽りなきといふ。そのことは妄心なる故に、
速く其の偽りあらはるるなり。心まことなれば、ことわりに及ばずして、聞く人やがてしる。
本心にことはり入らざるものなり。妄心は心の病なり。この妄心を去るを病気を去るといふなり。
この病気をされば、無病の心なり。すなわちこの無病の心を本心と云ふ。本心にかなはば、
兵法は名人なるべし。ありとあらゆる程の事、一つもこの道理にはづるべからず」
(「兵法家伝書」活人剣より)

207:考える名無しさん
10/09/30 19:11:38 0
精神疾患の原理もその治療方法も、兵法の中だけで看破されきってんじゃねえか。

精神病院なんかに行くより、新陰流並みに正統な武術の道場に入門したほうが
よっぽど心の病を治せるだろう。まあ、プロレス並みに何でもあり状態と
化しているらしい今の警視庁剣道などに習うのもどうかと思うが。

それ以前に、実罪を犯すことで急性の精神疾患にかかっている連中は、自首を。
精神病患者は必ずしも犯罪者ではないが、犯罪者は必ず精神病患者でもある。
だから入獄には自明に禁治産と同等の権利制限が組み込まれてもいる。そして
禁治産にも実質的に参政権の剥奪が組み込まれているように、人間の落ちぶれ
具合には程度があり、小人→精神病患者→犯罪者という順に深刻化していく。
小人→凡人→君子→賢人→聖人という人間の偉大化とは真逆のベクトル。

犯罪者(入獄)→精神病患者(禁治産)→小人(参政権剥奪)→凡人→君子→賢人→聖人
                             ここまで不自由→|→ここから先自由

穴の底から山の高みを目指すことには、多大なる絶望感も伴うだろうが、
重犯罪のハウリングで得た偽物の自由などではない、本物の自由を目指して頑張れ。
(精神病患者に応援は禁物と言われているが、確かな治療方法があるから応援する)

208:考える名無しさん
10/09/30 20:00:13 0
マネーゲームを含む、民間人としての素封によって資本的に成功した庶民の事跡を記した
「史記」貨殖列伝に、今の民主主義社会の市民は、誰一人として掲載してもらう資格を持たない。

「一人一票」という、極めて希薄化された権限であるとはいえ、民主主義社会の市民には一応、参政権があるから。

>>143「政を害さず」という、司馬遷が貨殖列伝に掲載するために拵えた条件を、参政権の強奪によって
民主主義社会の市民はあえて破っており、マリー・アントワネットの断首と引き換えに「総員権力犯罪者」と化した。
だから、「智者もこれをよしとする」と司馬遷が言った、無辜の市民なりの貨殖としての権限を越えてしまっている。

「だからなに?」と、一票の権限の希薄さに甘んじている大部分の市民は、自分なんかに大した権限が
与えられた自覚もないことを盾に開き直りそうなもんだが、おまえらに一票が与えられていることも、
確かに国家や国際社会が重大権力犯罪に及ぶ上での、重大な役割を果たしてしまっている。

209:考える名無しさん
10/09/30 20:01:51 0
国際金融資本のような、体裁上は在野の民間人であることに甘んじている輩が、軍需産業などの国家にとっても
重大な基幹産業を乗っ取り、自分たちの選択で国家の一つや二つを崩壊に追い込むほどもの間接的権力を得る。
その上で、さらにメディア産業なども乗っ取って、民心すら自分たちの情報操作で自由に操れるようにして、
自分たちに都合のいい政治家は好意的に報道し、都合の悪い政治家は悪意的に報道するなどの操作で、
選挙における勝敗なども左右してしまう。メディア上の情報操作などで政治家をどうこうできるのは、
とにもかくにも当該社会が民主主義社会であり、民衆の投票によって政治家の去就すら決まってしまうからで、
自由意志を持つ独立者気取りでいて、実際には大手メディアの情報操作などで簡単に意向を左右されてしまう
付和雷同状態の愚民などに主権が譲渡されているからこそ、その愚民を裏から操る連中が、表向きの政治家
のような政治責任をも負わずに済みながら、夏桀殷紂並みかそれ以上もの暴政をヤラセて憚らなくなる。

210:考える名無しさん
10/09/30 20:04:38 0
民間の権力犯罪者の親玉としての国際金融資本は、飼い殺し状態にある勢力圏内の国民などに対して
直接的な牙は剥かず、よっぽど差し迫った抵抗をしてくる分子に対しても、冤罪や冤病などをあてがうことで
さも自業自得で駄目になったかのような体裁をあてがい、自分たちに迫害の嫌疑が及ぶことを徹底して避ける。
しかし、勢力圏外の人間に対しては容赦なく、貧窮への追いやりも虐殺も全く憚らない。それこそ民主主義なんか
存在しなかった場合以上にも劣悪な環境下に彼らを置き、毎年数千万人ずつの虐殺被害者すら生んでしまう。

それはあたかも、民主主義に浴せなかった人々の自業自得であるかのように、民主主義社会の内側に対しては
触れ回り、「彼らも民主主義に浴しすらすれば我々並みに豊かな生活を送れる」とでもいわんかのような報道の
仕方をすらする。愚民の妄心を裏から操作して、愚民には計り知れない国家レベルにおける重権力犯罪を
責任の所在も曖昧なままに進行させることで、民主主義社会の勢力圏外における、未曾有の荒廃を生んでいる。
これは、司馬遷が「史記」貨殖列伝における掲載条件とした「民を妨げず」という約束事にも反しており、参政権を
付与された民主主義社会の市民であることで、おまえらは「民を妨げず」という条件すらも破ってしまっている。

「史記」に掲載される上での最低条件であった、「政治を害さず、民を妨げずに、素封でそれなりに成功した民」
という「貨殖」の条件すらおまえらは満たせておらず、単なる無辜の市民に過ぎなかったことを口実に、
「史記」における権力犯罪者への苛烈な懲罰(車裂きの刑など)を回避する資格も、おまえらにはない。

211:考える名無しさん
10/09/30 20:43:43 0
犯罪者には服役などの刑事処分、精神薄弱者には禁治産などの民事処分、
不相応な参政権を与えられていた小人には参政権剥奪などの処分が加えられる。

人としての落ちぶれ具合に応じて、細密な段階分けに即した処分を頂戴するわけだが、
処分をする側の過剰な血気を緩和する手段としては、重権力犯罪の総合的な責任者を
無理やりにでも擁立して、当人に対してだけは八つ裂きや族滅などの極大処分を化す。
そしてそれを大々的に触れ回る。それだけでも懲罰者の側の血気は随分と和らげられる。

これは、「六韜」虎韜にも述べられている、純粋な兵法に即した便宜的な処理方法。
とにかく責任者中の責任者を壇上に祭り上げて、なるべくそいつだけには非業の最期を
遂げさせる。もちろんそれで誰しもの罪が解消されるわけではないが、他の罪人に対しての
血気にはやった過剰な刑罰などが抑制されて、実罪に即した相応の罰を科されるだけで済む。

「一人が罪を背負うことで、誰しもの罪が清められる」などというどこぞやカルト教学とは違い、
罪が不当な手段で解消されることなどはないが、逆に罪が過大に受け止められて、不当な
ほどにも過剰な重罰を科せられる事態を避ける程度には、責任者を特定して、当人だけには
あからさまな重罰を科して触れ回ることが有効となる。もちろん本物の責任者である場合の話。

212:考える名無しさん
10/09/30 21:01:04 0
随分と陰惨なことを述べてしまったが、それほどにも陰惨な状態をもたらしかねない
旺盛な血気を、今の中国人やアラブ人が帯びていることまでをも認めざるを得ないわけで、
脳天をショットガンで吹き飛ばしたり、死体の顔面の皮を剥ぎ取ったりの蛮行にすら
及んでいる場合もあるあの陰惨さを、こちらからどうにかしようと思うのなら、
領海侵犯者を解放したりする以上にも、自分たちの責任者の厳罰こそは効果覿面だろう。

やたらと宣伝技巧を凝らしている、先進国側のメディア網を、自分たち自身の
責任者の懲罰の触れ回りに逆用したなら、相当な血気緩和の効果も見込めるだろうな。
あくまで戦略の一つとしては。だからって罪や病が解消されるわけでもないが。

213:考える名無しさん
10/09/30 21:48:42 0
蘇秦は車裂きの刑を受けていませんよ。彼は自殺し、その死体を
車裂きの刑に見せかけるように遺言し、その遺言が実行されたのでした。
生きてる人間を車裂きの刑にすると言うことは、恐ろしい刑として成立しますが、
死んでる死体を車裂きの刑にしても、死んでることを知らない人には効き目があるかもしれませんが、
それも嘘がばれない限りのことですがね、蘇秦自身は車裂きの刑を受けていないわけです。


214:考える名無しさん
10/09/30 22:11:33 0
古代ギリシャも都市国家同士、それからペルシャと戦争を繰り返していました。
ペロポネソス戦争史、これを気ままに呼んでみましたが、戦争である以上、
何万人が死んだ、と言う記述が続くのです。史記ほど、その人間の内訳には詳しくない
と思うのですが、ツキジデスまでは、必要な範囲で記述されていると思います。
かれ以降はそれほど詳しくないと思います。ギリシャ人は、「美しい行為」であるか
どうかが大事でした。シナ人は、どうでしょうかね?戦史はいずれにしても
あまり為にならないのではないでしょうか?

215:考える名無しさん
10/09/30 23:03:58 0
>>213
陰惨な刑罰を受けることを取り繕おうとした裏側で、
車裂き(八つ裂き)の事前にはちゃんと自殺しておいた
ヘタレさ加減も含めて、天下の笑いもの扱いされてたわけだね。

見た感じの美しさの取り繕いぐらいじゃ到底
納得しない、中国人を懐柔するのは大変だねぇ。

216:考える名無しさん
10/09/30 23:23:21 O
実際に犯してしまった罪を、実状に応じた場合以上にも赦してもらおうとするのではなく、
実状以上もの罪をあえて背負って、その罰をも受けようとする、
重罰をあえて自ら受けようとする態度が、相手が科そうとしている罰の程度をも上回った時に、
相手も相応の罰を科すだけの冷静さを取り戻す。

決してそれによって罪が赦されるわけではなく、相応以上の重罰を被る危険性が回避されるのみ。
それも、自分自身の罰を軽んじめようとするのではなく、多くの人々を代表して、自分こそは
重罰を受けようとする場合などにのみ有効。あくまで自分自身は本当に八つ裂きにされる覚悟で。

217:考える名無しさん
10/09/30 23:46:34 O
あとは、人に教えられてどうにかなるわけではない部分、
教外別伝の部分で、自分たちの心の底の、神とも通じている部分からこみ上げてくるものが
如何様にして、どうなっていくかだな。

ことをよきにはからう上での最善の手だても、結局はそこにある。

218:考える名無しさん
10/10/01 07:42:01 O
「シナ」は実質中国の蔑称だし、
お釈迦様を「ゴータマ」などと呼ぶのも、東洋人一般が慕って来た仏教のあり方からは程遠い。
(浄土教の寺などで使えば、無礼を理由に義絶させられるだろう)

相手のペースを無視して自分のペースを押し通そうとすればするほど、裏目に出るしか
ないのならば、全てを相手のペースに委ねて自分のペースを放棄するしかないだろう。
「敬」の一点張りによって、自らをつながれた犬猫も同然と化す儒者のように。

219:考える名無しさん
10/10/01 09:15:26 0
>218
>「シナ」は実質中国の蔑称だし、

井上は何を言うものか?シナは蔑称などではない!
「シナの夜」と言う歌謡があった。シナ人とも言う。
フランス語では「シヌ」と言うのだ。日本人同士で「シナ人」
と言うとなんか落ち着いた感じがして良い。

>お釈迦様を「ゴータマ」などと呼ぶのも、東洋人一般が慕って来た仏教のあり方からは程遠い。

子供のようなことを。釈迦と言う呼称は、一般に使用されてるではないか。
釈迦がよくてゴーダマがいけない、と言うのは、日本語はいいがインドの現地語や、
英語はいけない、などと言う幼稚な見識である。
全世界の知者を交えて論じてるときは、ゴーダマまたは釈迦、と言うのが良い。
これが言い漢字ではないというのなら、他のパルメも、イエスも、老荘も、そのまま
呼べないことになる。

それに今ここは、信者の集会でもないのだ。

             あ~なかしこ


220:考える名無しさん
10/10/01 10:13:44 0
「シナ」が実質蔑称であるのは日本語での話だし、
「ゴータマ」が釈迦の呼び方として不適切なのも、日本語での話だ。
そしてその日本語で無礼にあたる思い上がった態度を、
中国語で中国人に晒しても、アラブ語でアラブ人に晒しても、
俺が今おまえに対して抱いているのと同じような不快感を抱かせるだろう。

おまえのその態度が、みだりに他者の不快感を煽ることに関しては
全世界において共通していて、そのレベルの無礼を自分たち同士では
まかり通らせてきた欧米人のペースが、欧米外で通用することもない。

221:考える名無しさん
10/10/01 11:02:25 0
自分たちの文化文明に対する誤った妄信によって、自分たちこそは世界最先端だとの
自意識過剰を持ち越したままに、欧米外の人間にも接する。しかも英語やフランス語など
の自国語を押し付けたり、その文法表現を他国語に押し付けたりまでする。そのような
無礼極まりない態度に呼応して相手をしてくれるのも、ろくでもないごろつきばかりで、
東洋中の究極レベルの偉人はもちろんのこと、下から二番目あたりの人間にとっても
唾棄すべきようなしょうもない賤人ばかりがおまえらに接する。それをおまえらは逆に、
一般的な東洋人が接して来てくれたものと勘違いして、東洋人一般を卑賤だとも思い込む。

卑賤な東洋人にしか接することのできないような境遇を、おまえら自身がその態度の不埒さ
によって招いているのであり、それじゃあ下から二番目以上の東洋人は見向きもしない。

ある程度はまともな品性の東洋人からの協力もなければ、欧米社会の総体的な処分も
覚束ず、全面核戦争のような最悪のシナリオによってでもなければ収拾が付かなくなる。
それは、それしか選択肢がないからではなく、目上の相手に相応の態度で接する恭しさを
欧米人が抱けなくて、自分たちを処分してくれるだけの素養を持つ、まともな東洋人からの
協力を始めから反故にしてしまっているから。自分たちのペースを相手に押し付けようと
するあまり、相手との本格的な交流を不可能なものとしてしまっている。自分たちのペース
を完全に捨て去って、相手のペースに完全に従いでもしない限りは、相手の側からも真に
有能な部分を引き出すことはできず、それを自分たちのために用いてもらうこともできない。

222:考える名無しさん
10/10/01 12:06:48 0
首切り画像をネット上に公開するアラブのテロリストの野蛮さも、
連中に武器の供与もしている欧米人の側の野蛮さの鏡映でしかないし、
ネット上に「殺してやる」級の日本人罵倒を書き込んでいる中国人の悪意も、
この2chを含むネット上に書き込まれた日本人の側の悪意の跳ね返りでしかない。

あのあたりが、おまえらの態度の不埒さにも呼応して相手をしてくれる、東洋中のろくでなしやごろつきの部類。
あいつらに自分らを処分してもらおうなんて考えれば、身の毛もよだつ思いだろうが、あいつらはあいつらで
東洋社会における底辺中の底辺であり、あんな奴らよりも遥かにまともな東洋人のほうが大多数を占めてもいる。
しかし、その大多数のまともな東洋人は、東洋人の底辺あたりと同等の品性しか持ち合わせていないおまえら
などに関わろうとはせず、なるべく東洋人だけでの生活を続けていようとする。それを無理やり引っ張り出して
来たところで、所詮は欧米人の側の無礼極まりない態度の前などで、自分たちの真価を発揮することもできない。

自意識過剰の思い上がりは、深刻な自家中毒を生み、外界に対しても、自分たちと同等程度のろくでなしとの
交流しか叶わなくさせる。そしておまえらレベルの品性の東洋人には、おまえらを救ってやることもできない。
おまえら自身が自分たちを救うこともできないのだから、おまえらレベルの外人がおまえらを救えないのも当然。

おまえら以上の品性の持ち主こそは、おまえらを救うこともできるのだから、彼らの協力を得るのならば、
当然おまえらの側にも、目上の相手に相応に接するだけの礼節が自明に必要となる。
おまえらが礼節と共に接しなければならない相手こそは、おまえらを救うこともできるのだから。

223:考える名無しさん
10/10/01 12:57:41 0
今でも茶道や華道や合気道などの、道統を重んじる芸道を学んだりするときには、
たとえ欧米人であろうとも、師匠に対しての厳重な礼節を要求される。
(柔道や剣道はスポーツ化し過ぎているので、必ずしもそうではないが)

ただ、それらはあくまで「芸道」であり、学問でもなければ宗教でもない。
武芸や伝統芸能とて、煎じ詰めれば学問宗教にも通じていることは、
柳生の「兵法家伝書」における巧みな東洋教学の使い回しなどからも明らかだが、
所詮は学問や宗教そのものではなく、全ての教学に代わる社会統治原理となったり、
人々の精神性を司る宗教原理となったりするわけではない。江戸時代までの日本に
おいてですら、武芸百般を正式に学んでいたのは、全体の一割程度に過ぎない武家階級
のみであり、後の被治階級である百姓や町人は、大刀の柄に手をかけることもなく一生を
終えていた。しかし、四書五経の「大学」や「論語」は、二宮金次郎のような貧農でも
学んでいたし、「南無阿弥陀仏」は小作人や部落階級にすら門扉を開いていた。

芸道にまで通じるのは、一部の余裕がある者に限ってのことで、誰しもに教化が義務
付けられた、質よりも量を稼ぐ一般常識としての教学が別にあり、その部分においてこそ
悪癖を捨てて刷新されなければならない部分が欧米人にあるから、そのための東洋人
の助けが必要になってもいる。寺子屋の先生程度の、極端に尊貴ではないながらも、
誰しもへの教化をも心がける、質と量の均衡を保ったあたりの師匠。芸道の名人ほど
高名でもなければ、おまえらにいま接している東洋人ほどにも賤しくもない。

224:考える名無しさん
10/10/01 13:58:05 0
「兵法家伝書」は「進履橋」「殺人刀」「活人剣(無刀の巻含む)」の全三巻から成り、
「進履橋」が上泉伊勢守秀綱直伝の新陰流を直系ありのままに網羅したものであり、
「殺人刀」と「活人剣」では、その新陰流に、柳生石舟斎宗厳や、その嫡子宗矩による独自の解釈が加えられている。

東洋教学からの引き合いが豊富なのも「殺人刀」と「活人剣」であり、巻名からして禅語からの引用だが、
元祖新陰流の純粋奥義を連ねた「進履橋」の巻名も、黄石公が橋からわざと落とした靴(履)を張良が拾い上げた
「史記」留候列伝の記述から引用されている。あまりにも東洋教学の引用のオンパレードであり、おそらく宮本武蔵も
この「兵法家伝書」のような武術への求道姿勢に反発して、ほとんど既成の教学用語を用いずに、「五輪書」を著した
のだと思われる。(ただし「地」「水」「火」「風」「空」の各巻名が、インド風水の「五大」と符合させられてもいる)

225:考える名無しさん
10/10/01 14:00:57 0
その「兵法家伝書」にも、当時の日本にもあったはずなのに、ほとんど引用跡の見受けられない教学がいくつかある。
一つは浄土信仰。百姓が主な信仰者であり、石舟斎の代にはまだ本願寺も二分化されず、一向一揆も頻発していたりと、
武家にとって好ましくない社会影響も及ばせていた。とはいえ宗矩が仕えた徳川家康も浄土宗信者であり、必ずしも武家が
浄土信仰を否定していたわけではなく、ただ、より武家に好まれていた聖道門たる禅のほうに傾倒して、浄土門には傾倒
しなかったようだ。そしてもう一つが法華信仰。法華信仰には、天台教学に基づく公家向けの高級信仰と、日蓮によって
卑俗化された町人向けの信仰との二つがあったが、いずれも武家には縁が薄い。曹洞宗を興した道元も晩年には法華を
研究していたようだが、曹洞禅は地方の豪族ばかりに支持されて、江戸上方尾張あたりの都市部では広まらなかった模様。
宗矩が強く影響を受けたのも、沢庵の宗門でもあった臨済禅であり、ただひたすら座禅に打ち込む黙照禅ではなく、
座禅の中から新たな発見を見出す看話禅であったことが伺える。「破邪顕正」的な邪正論も多少「家伝書」中にはあるが、
これも三論宗の般若思想から引き合いにしているようで、やはり日蓮系の破邪顕正ではない、本流の邪正論であると分かる。

柳生が「兵法家伝書」でほとんど取り上げなかった浄土信仰と法華信仰、この二つが江戸時代までの庶民の大部分が
帰依していた宗教で、柳生新陰流を最高名の武門とする武芸が、いかに百姓や町人から程遠いものだったかが分かる。
禅も儒学も陰陽道も密教も、般若も華厳も老荘もなんでもありのようでいて、ちゃんと武家なりの分も守られている。

226:考える名無しさん
10/10/01 17:33:58 0
「兵法家伝書」は、文部としての東洋教学それ自体を専門とするわけではない
武芸者である柳生一門が、一歩離れた所から東洋教学を“消費”した模範例ともなっている。

いくら全国全土に東洋教学が広められるのであっても、天下万民全てが儒者になるわけでも
なければ、全てが坊さんになるわけでもない。百姓や町人のように、自分自身は産業に従事
する平民がやはり大多数を占め、儒学や兵学は相当に専門的に学びつつも、本業は為政者
である武家のような支配階級がそれに次ぐ多さとなる。完全な専門家としての儒者や仏者は、
どんなに東洋教学が頒布されきった世界においても、やはり少数派に止まるのであり、
プロではなくアマとして東洋教学を消費する人間のほうが大多数を占める。

武芸者としてはプロ中のプロだったものの、文としての東洋教学に関してはアマだった柳生が、
沢庵のような禅僧の教示も得て剣禅一如の境地を見出し、武芸における至上の地位にも立った。
他にも、平安中期における紫式部などの女流文学も、東洋教学中では下賤の部類に入れられる
「文芸」の体裁を借りて、儒仏文化の影響も色濃い宮廷生活における日記や自己体験を模倣した
小説を書いており、半ば東洋教学それ自体にも入りかねないものの、若干アマ的な立場から本格的
な東洋教学を消費した実例となっている。(紫式部も幼い頃から「史記」を熟読していたという)また、
二宮尊徳も百姓という立場から儒仏道といった東洋教学を総合的に解釈し、農業のような必需産業を
奨励する上での材料としても消費している。まさに日本は、中国やインドで大成された東洋教学を模範的
に消費した実例の宝庫となっており、本格的な東洋教学それ自体である漢学や仏学と比べれば、若干
優先性では劣るものの、これからの人々が東洋教学を消費していく上で、どんなあり方が可能であるかの
ヒントにはなる。完全に儒者や仏者となる専門家ではなく、素人の立場から東洋教学を消費するヒントに。

227:考える名無しさん
10/10/01 19:02:24 0
既読ではあるが、宮本武蔵の「五輪書」のほうをおさらいしてみると、
武蔵は「儒仏の言葉を借りず」とは言いつつも、「天道と観世音を鏡とす」とも言い、
用語を借り受けたりはせずとも、神道や観音様への信仰を趣きとして「五輪書」を書いたことを独白している。

観音→観音経→法華信仰と短絡化もさせやすいが、武蔵もまた柳生と同じく参禅の徒であり、
秀逸な達磨図なども作品として遺している。どうやら武蔵は、禅には傾倒しつつも、公案による禅問答などを
専らにはしない黙照禅の立場にあったようで、武蔵のような田舎武士に強く支持されて、法華の研究にも
手を出していた道元の曹洞禅などに姿勢としては近い模様。小説や漫画などの創作では、武蔵が臨済宗の禅僧
である沢庵と交流があったり、日蓮法華宗の熱烈な信者だった砥ぎ師の本阿弥光悦と交流があったようにも
描かれているが、これらは史実上では判明していないフィクション部分であり、実際には武蔵は臨済宗でも
日蓮宗でもなく、曹洞宗の黙照禅を精神的なより所としていたようで、だからあえて禅問答などを著書中に
おいても引き合いに出したりはせず、逆に観音様への信仰をも独白したのではないかと思われる。

農夫や大工や商人などの被治階級の仕事を引き合いに出したりしているのも、支配者と被支配者の分断が
必ずしも決定的ではない地方社会の実情にも即しており、江戸や尾張といった都会の武芸者として成功した柳生が、
学問宗教の面からも、産業階級の信仰対象だった浄土や法華を省いているのとは対照的。「五輪書」だけを読んでも
分からないし、「兵法家伝書」をさしたる東洋教学の知識もなく読み継いでも分からないであろう部分。都会の武芸者
として臨済禅に傾倒した柳生、田舎の武芸者として曹洞禅に傾倒した武蔵。両者の違いは分かる人間にしか分からない。

228:考える名無しさん
10/10/02 10:14:52 0
「敬」の一点張りに努める儒者のように、一定の形(かた)を練習し抜くことで、
最終的には形すらをも忘れ去った自由自在な剣術へと到達する柳生新陰流。

一方で、二刀流で有名な二天一流の祖でもある宮本武蔵のほうは、始めから形などは
練習せず、ずば抜けた体力と天才的な勘だけによって、形から鍛錬を始める側から
しても理想的な二刀の構えなどを体得し、その剣術や本人の肖像画などに遺している。

ただ、武蔵個人の独力で極められすぎた技巧であることもあって、二天一流は後世に
おいて大きな発展継承などの日の目を見ず、その習得者数でも新陰流や一刀流などに
大きく水を開けられている。武蔵個人によって極められすぎた上に、形の稽古すらも
飛ばしてしまう一段抜かし二段抜かしの姿勢が、世間一般の武道習得者の支持を
受けることはできなかった。階段を昇る上での、一段目や二段目から抜かしてしまう
超越的な方法論では、武蔵のような天才剣士にはそれでよくとも、大多数の凡人なら
必ず失敗する。それと同じように、東洋教学の習得もまた、よっぽどの天才でもない限りは、
「敬」一点張りの儒学からでも始めるべきであり、それは柳生の言うとおり、階段の一段目か
二段目程度の初歩的な鍛錬でしかないわけだが、それがちょうど武術における形の稽古
のようにもなって、最終的には形を気にしなくとも自由に正しい振る舞いができるようになる。
そのほうが世間一般における修練法の常道であり、一段抜かしや二段抜かしは厳禁とまでは
いかないが、世間一般の大多数は凡庸でしかあり得ない点からして、決してお勧めできない。

229:考える名無しさん
10/10/02 13:03:42 0
「兵法家伝書」には、ある程度の武道習得者であれば「ああなるほど」と唸らせるような
技巧の宝庫となっているが、「五輪書」のほうは武道家ですら分からないような記述が多い。
それは別に、「家伝書」が初級者向けで「五輪書」が上級者向けというのでもなく、
「五輪書」のほうが良くも悪しくも武蔵の独走性をありのままに述べた書であるからで、
武蔵自身、己れの兵法をそんなに本気で世に広めようとした痕跡も見られない。

柳生が都会の武芸者の代表であり、武蔵が田舎の武芸者の代表であるというのなら、
孤高の存在に甘んじる武蔵の姿勢は、「より多くの人々が中央に囲われて、外様は
少数派でいたほうがいい」という「家伝書」殺人刀における柳生の主張にもかなっており、
田舎の武芸者に相応の立場をあえて守っていることが、一種の公共性にも即している。

全くの独走であるようでいて、宮本武蔵のあり方もそれなりに公共性に即したものであり、
世の秩序を乱すほどにも怪物的な存在であろうとしたわけではない。「孤立した家臣や
妾腹の子は日常的な注意を欠かさないので、かえって上達する場合がある」という孟子の
主張にも則って、「孤立者ならではの奉公」という、なかなか微妙な役目をも果たしている。

230:考える名無しさん
10/10/02 13:31:16 0
おそらく、今の熊本付近で生まれ育ったとされる宮本武蔵こと新免武蔵守藤原の玄信。
こちらが「田舎武士の模範」だった一方、幕末の坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作などは、
田舎から中央政権をも簒奪した、「兵法家伝書」の記述にあるまじき行状の田舎武士となった。

大政奉還後の薩長政権の興隆は知れたことだし、山内家率いる上士が佐幕派だったこともあって、
政府介入は板垣退助などの少数に止まった土佐藩からも、三菱の創始者である岩崎弥太郎などが生まれ、
田舎勢が政財界両面における近現代社会の権力機構の掌握者となった。幕府に大政を奉還させる
ための口実だった、尊皇攘夷も挙句には反故とし、アメリカやイギリスに尻尾を振る傀儡政権ともなって
久しいが、結局その取っ掛かりからして、地方から中央政府を脅かして妥当するという、柳生新陰流の
心法にも反する手法に則っているために、少なくとも一種の武道に反したあり方であるには違いない。
(もちろん薩摩藩にも示現流、土佐藩にも小栗流などの武術があり、全く武道を知らなかったはずもないが)

鹿児島出身者が今も多くを占めている警視庁の剣道も、喧嘩も同然のしばき合いと化しているという。
「あれこそは武道の本流だ」などと、三島由紀夫あたりも思っていたようだが、あれは西洋のスパルタ教育
などの影響も受けた近代以降のみの体育会系であり、江戸時代まで王道中の王道だった柳生新陰流
などとは相容れない部分を持ち合わせている。

武蔵よりも宗矩のほうが年上であり、「五輪書」よりも「兵法家伝書」のほうが先に著されているのに、
現代ではなぜか武蔵のほうが戦国江戸期の剣豪の代表であり、「五輪書」が武芸書の第一であるかのように
触れ回られているが、あくまで武蔵も柳生の領分を侵したりしない、分をわきまえた範囲で「五輪書」をも
認めており、武蔵や「五輪書」ばかりを優先して、柳生や「家伝書」を劣後した扱いにするのは、
模範的な田舎武士であろうとした武蔵の意向にも即していない。新陰流の心法に反してまで
中央政権を簒奪した現政府には都合が悪くとも、柳生や「家伝書」を武芸の第一として、武蔵や
「五輪書」を第二第三のものとして扱うほうが、柳生だけでなく、武蔵の意向にも適うことになる。

231:考える名無しさん
10/10/02 14:11:14 0
旗本や譜代の大名を厚遇し、外様を冷遇した徳川幕府の中央集権政策は、
天下分け目の関ヶ原以前にはすでに家康に臣従していた宗矩の意見にも即しているようで、
幕府が地方の武家の反意を買ったのも、都会の武芸者としての柳生を贔屓して、
その意見に傾倒し過ぎていたからかも知れない。だから柳生だけが存在し、
武蔵のような田舎武士の雄が現れなかったのなら、地方の不満のガス抜きが
不全化していたかもしれないとも言えるが、一応武蔵もまた実在していたわけで、
田舎武士が都会武士とは別の領分で、いかにあるべきかの見本となっていた。

その武蔵のあり方にも反して、薩長土肥の反幕勢力は政権奪取にまで及んだために、
自分たちの落ち度の言い訳のしようがない。たとえ今からであっても、「家伝書」と
「五輪書」の比較研究などから、地方の武士がいかにあるべきだったのかを学び直して、
相応のあり方に修正していくべきなのであって、地方の少数派として、都会の多数派の
利権すらも牛耳ってしまっている、今の自分たちのあり方を反省すべきだ。

欧米のような地球人類の少数派が利権を独占してしまっているが故に、
地球人類全体の真価が発揮できなくなっているのと同じように、地方出身の少数派が
全国の利権を独占してしまっているが故に、日本もまたその総力を発揮できないままでいる。
一部の悪のために万人が苦しむぐらいなら、その悪を殺して万人を活かせと、
これが殺人刀活人剣の意味でもあると、「兵法家伝書」においてこそ提示されてもいる。

232:考える名無しさん
10/10/02 14:26:19 0
「本当に中国やインドやアラブなどに、全欧米人を処分できるだけの人材があるのか」
という疑問は、ことに日本人にとっては、「地方勢力の専横が排されて、
都会人自身による権力機構の運営が取り戻されたときに、果たして健全に機能できるか」
という疑問に置き換えると、その結論を出しやすいかと思う。

都会人にだって悪辣な連中はいる。それどころか地方以上にも多かったりするが、
それ以上にも善良な人々も多くいて、全国の悪人を抑制させられるだけの人数に上る。
多数派を少数派が制御しようなどとするより、多数派同士での制御のほうが適正に決まっており、
さらにはその多数派に少数派までをも制御させるほうが、多数決の論理にも適っている上に、
本当に世の中を健全化させられる。柳生流兵法も参考に打ち立てられた多勢優先無勢劣後の
江戸時代の泰平と、地方勢力の専横で成り立っている無勢優先多勢劣後の現代日本の乱脈を比較
しても明らかな通り。結局、多数派を優先することを透徹させるだけでよくなるのだから、名目上は多数決を
重んじながら、大多数の地球人を貧窮にも追い込んでいる「国際民主主義」のねじれを取り払えばいいだけの話。

233:考える名無しさん
10/10/03 10:47:07 0
「兵法家伝書」でしょっちゅう引き合いに出されている沢庵和尚の文言に興味が湧いて、
今は「不動智神妙録」ほか沢庵の主要著作の選集を読んでいる。

しょっぱなから柳生宗矩個人への語りかけで話が始まっていて、
「あなたのいう無刀とはこういったものです」などと仏説的な解釈を述べている。
沢庵がこの「不動智神妙録」に当たる内容の書簡を宗矩の宛てたのが、
宗矩が61歳の頃で、この一年後に宗矩のほうも「兵法家伝書」を完成させている。
つまり、年代的には「不動智神妙録」のほうが先に成立したことになるが、
宗矩も「家伝書」以前に数々の兵法書の草稿を執筆しており、「家伝書」はその集大成だったと言える。
その内容も沢庵からの教示だけでなく、父石舟斎などからの影響もかなり色濃いとされ、
決して宗矩一人の独作ではなく、当時の日本における最高級の知識陣による思索の集大成となっており、
武蔵一人の独作である「五輪書」などとは、全くその成立の過程からして異なっていることが分かる。

234:考える名無しさん
10/10/03 18:22:09 0
「大用現前軌則を存ぜず(だいゆうげんぜんきそくをぞんぜす)」

「碧巌録」が出典であり、「兵法家伝書」と沢庵の「太阿記」で引用されている禅語。
この他に「大機大用(だいきだいゆう)」という言葉も引用されており、
「機」とは物事の本体、「用」とはその物事の振る舞いによって派生する現象をいう。
禅を参考にしている朱子学でも、おそらくこれを参考にした体用論が展開されており、
「体」を心を構成する要素のうちの「性」に見立て、「用」を「情」にも見立てている。
抽象的な論及なので解釈は人それぞれだが、物事の本体たる「機」が大いなる力を
働かせるときに、そこから派生する現象たる「用」も甚大な姿を帯びる。

これを「大機大用」と呼んでいるが、大機の働きによってもたらされた大用が
眼前に現出するときには、一定の規則ルールにも与らない、
未曾有の姿となる、これを「大用現前軌則を存ぜず」と言っている。

235:考える名無しさん
10/10/03 18:40:53 0
「規則を存ぜず」と言っているのだから、規則に囚われているわけでないのはもちろん。
一方で規則を存じないわけだから、規則を察知した上で破るということでもない。
規則に従うとか規則を破るとかの、規則ありきの不自由な状態全般を超脱すること。

たとえば、迷惑をかけた相手に謝るとき、「真摯に謝る」のが一般的な規則だが、
形式として真摯に謝るぐらいのことは誰にでもできるため、それだけではダメな場合もある。
規則に従って真摯に謝ってもダメなぐらいだから、ちょっと「sorry」とか言うだけでももちろんダメだし、
強盗殺人級の迷惑であれば、いくら莫大な謝罪金を支払ったところで許されない場合もある。

だからたとえば、地面が血で真っ赤に染まるほどにも、額を地面に打ちつけながら土下座する。
下手すりゃ失血死しかねないその姿は、生き物としてあまりにも愚かであり、額を地面に
打ち付けたりはせず、上目に相手をうかがえる程度の角度までに止めるという、正座からの拝礼の
正式な礼式からすらも逸脱してしまっている。しかしその、規則を守るとか守らないとかの
しがらみを逸脱してでも謝意を示そうとしたその有り様が、迷惑をかけられた側の心をも強く打ち、
その罪に相応の過剰な重罰を科すことを思いとどまらせる程度のことはできる。それは、
地面が真っ赤になるほどにも額を地面に打ち付けて謝罪したその有り様が、大用の現前で
あるが故に規則を逸しているのが明らかだからで、本物の誠意の現前であるが故に、
礼法の形式すら逸脱してしまったことが、かえって相手の心を打つからだ。

236:考える名無しさん
10/10/03 19:15:22 0
とはいえ、俺が上で例示した「地面が血で真っ赤に染まるほどにも、額を地面に打ちつけながらの土下座」は、
俺のような分析家が構造的な説明をし尽くした「既製品」ともなってしまっていて、実際「史記」の滑稽列伝でも、
人柱の悪習を残していた黄河流域の村落の、高齢の巫女などをあえて黄河の神への人柱として水中に投じ死亡
させた西門豹が、迷信深い村人たちに、地面が地で赤く染まるほどもの土下座(叩頭)をして許しを乞われてもいる。

確か、芸人の内村光良も、叩頭のし過ぎで額が膨れ上がった土下座の名人キャラをやっていたし、地面に頭を
叩きつけてでもの土下座などは、謝意を表す上での「大機大用」としてはもはや陳腐であり、仮に叩頭で地面が
真っ赤に染まる状態を再現したとて、「大用現前軌則を存ぜず」とまではなり得ず、せいぜい「滑稽」扱いに止まるのみ。

あらかじめ台本を決めておいてやるような、緩慢とした演劇趣味である時点で電光石火の参禅とはなっておらず、
大用が現前するが故に、軌則すら存ぜぬ颯爽さとは程遠い。型枠としての小説を超えて、型にはまらぬ禅に参れ。

237:考える名無しさん
10/10/04 13:42:06 0
「応無所住而生其心(おうむしょじゅうじじょうごしん)」

「金剛経」が出典であり、「不動智神妙録」でも引用されている禅語。
雀の子が猫に捕らわれたからといって、猫を縄でくくりつけておくのが
「敬」一点張りの一心不乱行、あるいは武芸における形の稽古などに当たる一方で、
猫によくしつけを尽くしておいて、もはやくくり付けておくまでもなくなってから縄をほどくと、
もはや雀の横に置いていようとも、猫は雀を捕らえようとはしなくなる、
これが「応無所住而生其心」の境地であり、「敬」一点張りの不自由さから脱しながらも
「心の欲する所に従って矩をこえず(為政第二・四)」でいられる状態であり、
また、形の稽古を乗り越えて、自由な剣技の中にも理合が行き届いている境地となる。

禅にしろ武芸にしろ、繋がれた猫になるような不自由の中での鍛錬の後に、
自由自在の境地を得るのであり、始めから放辟邪侈の限りを尽くしているということではない。
自主的に、禁治産や入獄にも等しいような苦境に自ら追い込むことで、ついに真の自由を手に入れる。
そのための過程としての、お縄を頂戴。喜ぶこととてあれど、なぜ悲しむ必要があろうか。

238:考える名無しさん
10/10/04 13:55:13 0
たとえば、別に厳しい修行に励むこともなく、ただ自堕落な生活を送っているだけでも、
強盗殺人込みの重権力犯罪に及んでいるよりはマシだったことも、軌則を存ぜぬ大用の現前であったし、
誰しもが重権力犯罪に及んでいる中で、あえて自堕落とはいえ無為の状態に自らを置き続けることで、
悪徳の虚栄からぐらいは身を避け続けていたことが、縄でつながれた猫となる不自由の修行にも
自然となっていたために、もはや縄を解かれた所で、重権力犯罪ぐらいには走らないのも、
一種の応無所住而生其心だろう。

ずるい、ひどい、あられもない、それでこそ大用現前不存軌則だし、
心の欲する所に従って矩をこえない程度で応無所住而生其心でもある。
禅の世界から遠くかけ離れてしまっているようでいて、やはり現代もまた禅の範疇にある。

239:考える名無しさん
10/10/04 14:15:07 0
「万事において我に師なし」とうそぶき、形からの鍛錬による剣技の上達をも否定した
宮本武蔵も、本当の出身地がどこだったのかすら定かでないようなど田舎での生活が、
自然と「浮世からの情報的断絶」という不自由さの甘受となって、都会の人間が
ただ生活しているだけでは必ず鈍化させてしまうような「野性の勘」を研ぎ澄まして、
心身の無駄な遊びを捨て去った応無所住而生其心へと自然に至ったのだろう。

禅語すら用いない独行姿勢が、自然と曹洞宗の黙照禅にも近似してしまっており、
自主的に傾倒しなかったり、かえって反抗しようとした人間ですら、その内に
包含してしまう度量の広さを、東洋教学全般は持ち合わせていることが分かる。

240:考える名無しさん
10/10/05 10:57:47 0
武芸者はもちろん、命のやり取りに及ぶ真剣勝負を大前提としている。
新陰流の祖である上泉秀綱や、柳生新陰流の祖である柳生石舟斎も、
基本は人の和を尊びながら、差し迫った戦場においてはその戦術で人を殺してもいる。
宗矩もまた大坂の陣において、秀忠の本陣に不意打ちを仕掛けてきた豊臣方の
兵士七人を斬って捨てており、その兵法が口ばかりでない本物であることを証明している。

その宗矩に禅僧の立場から助言を行った沢庵もまた、真剣勝負を大前提とした
法戦場のつわものであった。時に気違いじみてすら映る禅問答なども、生死への執着を
超脱したゆえのものであり、死への恐れから生じる精神異常などとは根本的に異なる。

禅問答よりは遥かに通常的な言葉を用いた、書簡として書かれている「不動智神妙録」では、
「こういう心持ちでいれば斬られず、こういう心持ちでいれば斬られる」というような実戦論と
心法の密接さを具体的に説いており、戦いだけでなく家臣の統率や子のしつけにまで話は
及んでいる。それらの助言の内容もごく現実的なものであり、一部禅語の引用があることなど
をのぞけば、全く常人の書簡とも体裁的には変わらないが、何しろその相手は当世至上の
剣客である柳生宗矩であり、常人なら恐れ入って助言の言葉など到底かけられはしない。
しかし沢庵はごく親密に、半ば叱咤すらこもった言葉で宗矩に具体的な助言を送っている。
上に立つものほど師の少なさにあえぐものではあるが、宗矩は師にも親にも恵まれていた。

241:考える名無しさん
10/10/05 11:49:58 0
武蔵が師を持たなかったのは、上等な師もいないような田舎育ちだったから。
逆に近畿・中部・関東あたりの都市圏を主な活躍の場としたからこそ、潜在的な
人材の多さや集約にも与れて、柳生は上泉や沢庵のような師にも恵まれた。

フィクション作品中では描かれているような、宮本武蔵と沢庵や石舟斎、本阿弥光悦や伊東一刀斎
などとの、師弟や友人にも相当するような人間関係は、武蔵には本当になかっただろうと思われる。
上記のような著名人でなくとも、無名の師匠や友人として、武蔵に親しんだ人間ですら皆無だったろう。

勝てば生き残り負ければ死ぬ、真剣勝負の前で浮ついた演技上の師弟関係や友人関係は無力であり、
本当に師匠として敬えたり、友人として親しめた相手がいたのなら、武蔵もいたことを明言しただろう。
しかしそうではなく、自分から師匠も友人もいなかったことを独白した以上は、本当にいなかったのだろう。

武蔵の真の評価点はあくまで、その絶望的なほどもの独行姿勢一つに尽きているのであり、
常人が想像もできないような孤高の境地にいながら、少しもぶれることのない道心を持ち合わせていた点。

武蔵級の独行者が、ヒロイックな悲劇性なども伴うことなく、透徹した超人として人生を送り通し、
その姿がありのままに評価対象となっているのも、弘法大師のような完璧超人も生み出した日本ならでは
の風潮。完全な超人などその存在性から否定し、何らかの落ち度や悲劇性をあてこするルサンチマンが
いつの時代どこの世にも溜め込まれているもんだが、ことにこの日本でだけは、真の超人が尊ばれている。

242:考える名無しさん
10/10/05 14:25:43 0
武蔵はそれでいいわけだ。独立独行の武芸者という、独特さこそは評価の対象であり、
そこにかけがえのない師匠や友達がいたなどというような下衆の勘ぐりも無用なこと。

都会の武芸者の代表であり、江戸時代までは武門の王道中の王道だった柳生こそは
師にも友にも恵まれた、人間関係の入魂さの中で、その威武を存分に活用してもいた。
現実上においてこそそうであり、柳生こそは世の大多数の支持するところ、武蔵は
きわ物の数寄物とするところだったのが、本人たちの著作内容からも明らかであるのに、
なぜかフィクション中では武蔵のほうが民衆の味方であり、柳生のほうが権力にも
取り入って、お高く止まった孤高の存在のように描かれてもいる。これもやっぱり、
柳生流を御用兵法とし、宗矩を政治顧問としても大きく取り立てた徳川幕府を倒して
地方出身の立場から今の日本を牛耳っている現政府の都合などにもよる所なのだろう。

形の稽古を重んじて、自在な剣技への到達を最終目的とする柳生流の武芸こそは、
技術面と精神面両面において、日本の武士の大多数が支持するところだったのであり、
始めから野性の勘だけで超人的な技を見に付けていった武蔵の姿勢などは、それは
それでありだとしても、あくまできわ物扱いであり、多数の支持するところではなかった。

243:考える名無しさん
10/10/06 11:38:13 0
「敬」一点張りとなる儒者の姿勢や、「放心を引き止めよ」という孟子流の心法などが、
初心者の心構えとしては適切であるものの、上級者には初歩的すぎると沢庵も言っている。
ひたすら「敬」にこだわらずとも、自然と適切な畏敬が備わり、良心が方々へ放散してしまうことを
恐れずとも、どこもかしこもが良心で満たされて放心への警戒の必要などがなくなるのが上級者。

東洋では主にその程度の人間を「聖人」と呼ぶのであり、聖人とは教学修得の上級者のことを指す。
しかし、「始め有りおわり有る者は、其れ惟だ聖人か(子張第十九・一二)」 ともあるとおり、聖人と
呼ばれるほどにも東洋教学を始めから終わりまで修得しきれる人間などはごくわずかであり、
大部分の人間は初歩的な段階までの修練で一生を終える。だから結局、「敬」一点張りで礼儀や
礼節を重んじる初歩的な儒生である程度の人間で世の中は埋め尽くされ、意図的な敬意や良心の
つなぎとめにこだわらずとも、自由自在に敬意や良心を扱えるような達人はごく一部にとどまる。

244:考える名無しさん
10/10/06 16:56:08 0
「玲瓏集」における沢庵和尚の信仰論や臣従論にも、なかなか含蓄がこもっている。

「神様を信じている」という以上は、あっちの神様を信じてこっちの神様を信じなかったりするのではなく、
神様全般を信じていることを指し、その上で実際上には特定の神様を信じていたりする。

それと同じように、「主君に仕える」ということも、どこぞやの主君に仕えて他の主君に仕えないとかの
主君の選別以前に、「主君」という目上の者全般に熱心に仕えようとする忠恕の心を抱く。
その上で、実際上は特定の主君に仕えるということがある。

どの神様を信じる、どの主君に仕えるなどという選別意識ばかりが一人歩きして、
神様全般を信じようとする敬虔さや、主君一般に仕えようとする忠恕の念が備わっていないのでは、
どの神様を信じ、どの主君に仕えようとも、思い上がりばかりを抱いてうまくはいかないということ。

神道家でも士人でもない、仏者である沢庵和尚こそが述べた信仰論や臣従論。
「何よりも自分が第一だ」という、今で言う個人主義の上にすら、
神への信仰や主君への臣従を上乗せしてこそ、真の信仰や臣従でもある。

245:考える名無しさん
10/10/06 17:12:52 0
どの神様を信じる、どの主君に仕えるという以前に、
神様全般への畏敬や、主君全般への忠恕があってこそ、信仰や臣従も道理にかなうわけだから、
特定の神だけを信じ込んで他を信じず、その神だけを主と崇めて他の主君などへの臣従を否定するのは、
そもそも信仰や臣従の仕方として誤っており、信仰一般や臣従一般以前に、本人自身の選別意識が
より優先されているのであり、その時点で信仰や臣従以上にも、自意識過剰の思い上がりが優先されている。

あらゆる神の中での特定の神を信じたり、多くの主君の中での特定の主君に仕えたりすることも
実際にあるわけだが、忠信の意識が真に透徹しているのなら、その忠信はどの神様、どの主君などに
限定せずとも、独立して貴い理念となるのだから、特定の神様を信じたり、特定の主君に仕えたりする
以上にも、神様全般を信じることや、主君全般に使えようとすることのほうを自然と優先させる。そうではなく、
神様全般への信仰や主君全般への臣従以上にも、どの神様を信じ、どの主君に仕えるかなどということを
優先させたがるのは、それだけ信仰や忠恕が不完全なものであり、自我によって物事を選別する個人意識に
忠信の心が勝てていない証拠でもある。だから沢庵和尚も、どの神を信じ、どの主君に仕えるなどということより、
神様全般を信じ、主君全般に仕えようとする、透徹した信仰心や忠恕の心を抱くことのほうが重要だと言っている。

246:考える名無しさん
10/10/07 19:54:14 0
「蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘わらず、
一歩も出でず、一歩も退かず。敵、我を見ず、我、敵を見ず。
天地未分、陰陽到らざる処に徹して、直に功を得べし」

沢庵「太阿記」冒頭の句。「真の兵法家は、争うまでもなく絶対的な勝利を得る」
という点は、武経七書に代表される、東洋兵法における定石。乱戦状態での
ストレスに耐えることなどが、今の体育会系では重視されているが、
そもそも乱戦に及ぶまでもなく完勝してこそ兵法家の勝利である。

「戦力の強弱にこだわらず、進退にもこだわらない」という点も先に倣っている。

「敵も我を見ることがなく、我も敵を見ることがない」という所、
沢庵和尚直々の解説を聞いて初めて分かったが、ここが最重要部分。
敵は真我に即してことを行おうとする我れの動向を見計うことができず、
我もまた個我(人我)に固執してことを行おうとする敵の動向をいちいち見計わない。
敵方は我が方の動向を見ようにも見ることができず、我が方も敵方の動向が
破滅へとまっしぐらな虚構の塊であることが明らかなために、あえてそれを見ない。

勝負を争おうとすらしない、自分が相手に完勝する上での定石として、
「相手は自分のことを見ようとしても見ることができず、自分は相手のことを
見る価値がないから見ない」という状況が生ずる。それは、天地万物が生ずる以前、
陰陽斯開の以前の、現象が展開するまでもない状態の純粋精神に
自らが到達し、相手は未だに到達しきれていない前提から自然と呈する。

247:考える名無しさん
10/10/09 09:01:45 0
たとえば、新聞やテレビなどの大手メディアでしょっちゅう報道されている
経済だの金融だのの情報の垂れ流し。見る側も見せる側も、カネという末節の部分ばかりにに囚われて、
より根本的な部分を見失っている劣悪情報であるため、そのような情報にかかずらわっている
連中には、より根本的なものに即さんとしている俺の本心を見ることも汲むこともできない。
まずこれが「敵、我を見ず」になっている。

一方で、俺もまた連中がかかずらわっているような、経済だの金融だのの末節情報は見ない。
路肩の新聞やテレビの垂れ流しなどで、多少は見てしまうこともあるが、なるべくその内容に囚われないようにする。
沢庵和尚もまたそのような、完全に目を背けているわけではないが、相手の動向に気を囚われない状態に
自分がいられていることを「我、敵を見ず」と言っているのだと「太阿記」で解説している。

末節の情報ばかりに囚われて根本的なものが見えない敵は我を見ず、
根本的なものの把捉に務めて末節に囚われない我もまた敵を見ない。
だから勝敗を争うまでもなく、我が勝ち敵が負ける、というのが、定石らしい。

248:考える名無しさん
10/10/09 09:30:37 0
「経済」という言葉が、元来は金融貨殖関連だけでなく、政治面社会面でも世の中を
全般的にうまく治める「経世済民」を語源としていることはWikiなどでも書いてあるが、
その「経済」がいつの間にか貨殖功利だけを偏重した意味で使われるようになり、
挙句には福沢諭吉が、産業調整を意味する「economy」の訳語として「経済」を
適用した経緯までもが、Wikiなどでも当たり前のように書かれている。

言葉の名辞をねじ曲げて、本来からは誤った語義に即して言葉を用いることが
当たり前のように認められて、今では元来の経世済民という意味以上にも、
産業調整や貨殖功利といった意味での「経済」という言葉のほうが多用されている。

「経済」という言葉が元来は高邁な意味を持っていたからこそ、単なる貨殖調整を
「経済」と呼ぶことで、さも貨殖調整までもが高邁な意味を持っているかのようにすら
思い込まれてもいる。「経済」という一つの言葉に対して、別個の意味をあてがうことにより、
経世済民と我田引水すらもがみそくそに扱われてしまっている。こういうことが起こって
しまうから、孔子や荀子も、巷における名辞の乱れを正すことを提唱していたのだろう。

249:考える名無しさん
10/10/09 10:30:45 0
たとえば「書経」において、「湯既勝夏(湯誓)」とか「武王勝殷(洪範)」とかいった表現が出てくるが、
湯王は夏の桀王を誅殺して殷王朝を開いたし、武王も殷の紂王を誅殺して周王朝を統一王朝にのし上げている。
「勝つ」という言葉が、「相手を殺し尽くして自分が活路を切り開く」という意味で用いられており、
これが元来の「勝つ」という言葉の名辞でもある*。ゲームやスポーツなどの仮想上の勝負での              * 現行「書経」には偽書部分も混在しているが、
「勝ち」や「負け」のほうが後付けの名辞であり、真剣勝負での「勝ち」や「負け」のほうが、名辞として正しい。        上記引用の「湯誓」と「洪範」は真書部分にあたる。

最初期の達磨の頃から中国で布教が始まっている純中華風仏教の禅、その禅の坊さんである沢庵も、
名辞がよく正された中での物言いとして、当然のごとく「勝ち」「負け」を真剣勝負の意味で用いている。
だから斬り殺し合いの剣術において名人であった柳生宗矩にも助言することができ、宗矩も大阪の役などで
多大なる戦功を挙げてもいる。名辞が正されることで、自分自身は剣を持たない文化人ですらもが、
真剣勝負を前提とした「勝ち」や「負け」を論ずることができ、ことの勝敗を論ずるに足る覚悟をも持つ。
名辞を正して物事を論ずることは、非常な覚悟がいると同時に、実相に即した絶対性をも帯びる。
そのような覚悟や絶対性と共にある文こそは、武と合致した剣禅一如の境地にまでも昇華される。

250:考える名無しさん
10/10/14 20:32:21 0
勝負を決する意味として「雌雄を決する」という表現もたまに使われるが、
この場合は「勝ち負け」によって左右されるものを捉えている度合いがずっと大きい。

大軍同士の勝負であるなら、小兵も大量に殺されたりすることもある一方で、
大将の生死によってこそその勝敗が確定する。大将が殺された兵軍は完全に
烏合の衆となって、あっという間に敵方に取り込まれて「敗軍」となってしまう。

だから、大将格の人間にとっては「生死」が勝敗も同然の扱いとなるが、
いてもいなくても大して変わりない程度の不特定多数の小兵などに関しては、
「生死」ではなく「雌雄」が勝敗を決した後における概ねの果報となる。

紂王を殺して武王が君臨したことこそは「勝敗」を決した一方で、
天下全土の民が大量虐殺や部分生存に見舞われたわけではなく、
ただ雌雄が決したのみ。周こそは天下に雄となり、殷は雌に成り下がったのみ。

251:井上筑後守
10/10/15 22:59:05 0
おもむろに、弟子スレのほうへの書き込みに重きを置いてみたが、やはりしっくり来ない。
全体のペースを相手に握られた状態で何を教えたって、相手はふんぞり返ったまんま。
自意識過剰の思い上がりの中で、どんなにありがたい教えを教えても、まさに馬の耳に念仏。
弟子の側から積極的に師匠に教えを乞おうとする、「易経」蒙卦にも即した教学体制でないと、
教える側にとっても、教えられる側にとっても何ら前向きな成果が得られることはない。

全世界が、俺が自作した東洋教学スレにでもならない限りは、
俺がどこにいって、誰に何を教えてもいいだなんてことにはならない。

252:考える名無しさん
10/10/16 12:42:22 0
>>251
夏の事跡そして殷の事跡は存在するのでしょうか?
どこかで、黄帝とか尭舜は、伝説上のものでしかないという中国諸子百家の
言葉を聞いたことがるのです。


253:考える名無しさん
10/10/16 12:57:00 0
>>251
>全体のペースを相手に握られた状態で何を教えたって、相手はふんぞり返ったまんま。
自意識過剰の思い上がりの中で、どんなにありがたい教えを教えても、まさに馬の耳に念仏。

www
その内に良くなりますよ。

254:考える名無しさん
10/10/16 13:06:53 0
他の所で議論したりしても、「学会ではこういう風に」とか「学術的にはこうこう」とかいった
前置きで始まる冗談抜きの相手の論述が、あまりにも拙劣であることによく辟易させられる。

それこそ、今の学会なんて、孟嘗君が囲っていた鶏鳴狗盗の食客の集まりみたいなもの。
その輪に入れてもらうのももちろんイヤだし、たとえ最高権威として扱ってもらえるのでも断る。
今の学会になど一切正統な権威は存在しないことが断じられた上で、自分が寺子屋の先生にでもなる所から始める。

255:考える名無しさん
10/10/16 13:12:47 0
>>252
列子が「周のことすらもはや大昔の話、殷や堯舜などあったかなかったかも覚束ない御伽噺のようだ」
ということを、諸行無常の諦観を含意する文脈で言っている。家に引きこもりきった道家的な思索として。

自分から聖王の活躍地にも赴いて実地見聞を行なった司馬遷などは、
堯舜より以前の、黄帝の実在性すらをも確信したそうだが。
古すぎて分からないことは正直にそう書いてある「史記」においてこそ、そう言っている。

256:考える名無しさん
10/10/16 13:18:12 0
古代東洋人と古代のメソポタミア、エジプト、ギリシャローマ人の
美的センスの違いを、建築物を通して、以前から考えているのです。

まず屋根から言いますが、古代中東の遺跡には屋根が残っているものは少ないんでしょうか?
柱ばかりじゃないでしょうか?

屋根も柱も、中国であれ、中東であれ、その手法は伝統として、継続されているといって良いですよね?

中国のあの屋根の湾曲は、あれは中国人が、屋根の形を単なる平面的なものよりも、
湾曲させた方が、美的であると考えたものと言うべきではないでしょうか?

一方中東及び西洋では、平面的な屋根が主流だったことは疑い得ないもののようです。

ただし、柱については、初めは円柱でしたが、ギリシャにおいて、あの溝の入った優美なものが
発明されたのです。東洋ではこの種のものは皆無でしたね。

257:考える名無しさん
10/10/16 13:27:13 0
決して、このありがたい教えを、象牙の塔に隠し込んで披露するまいなどと
しているわけではなく、相応の姿勢で教えを乞うものには教える用意でもいる。

しかし、基本は耳を貸さず、耳を貸すとしても、自分の側の蒙昧な意見を押し付け返す体勢でいるから、
最低限の教学体制すら確立されることがなく、教える側も教えられる側も何ら得られるものがない。

無知蒙昧な童蒙であるくせに、童蒙に相応の貞節さ、童貞は欠いているので、無知蒙昧なくせに
自分が達観した何者かであるかのように威張り腐り、相手を打ち負かすことばかりで脳内が
常にいっぱいいっぱいであり続けている。「無知+陽剛」という凶相に凝り固まったままの状態。

258:考える名無しさん
10/10/16 13:34:50 0
それから、生活様式ですが、土足で家の中に入ることができる中東と、
中国古代の、家に入るには玄関で靴を脱ぐという生活様式の違いですね。

これは実に大きな違いを生んでいると思うのです。

ところが現代の中国では、テレビで見たのですが、土足様式が一般的なんでしょうか?
土足で家の中を行動してるのでした。

またそれに伴ってでしょうか、ベッドを準備してるのです。

また、古代中国でもベッドは有ったのでしょうか?

259:考える名無しさん
10/10/16 13:38:49 0
>日本縄文文明

これについては聞いたことがないです。
詳しく教えて欲しいものです。

260:考える名無しさん
10/10/16 13:41:04 0
決して、自分の側から他者を征服しようとするのでも、学会を簒奪しようとするのでもない。
ただ、いざ自分が教える側に回る以上は、教えを乞う側が身勝手な自己主張を寸分でも残して
いることを許さない。師匠と弟子の序列が完全にわきまえられた中での教学しか認めないからこそ、
自分から無理に教えていこうとするような、侵略征服的な姿勢を自分からは決してとらない。

261:考える名無しさん
10/10/16 13:47:32 0
束縛は誰も嫌がります。自由です。

そもそも、憲法が規定するように、人は生まれながら自由なものとして生まれているんです。

それも平等に。ですから、誰かから自由を与えられるというものではないのです。

学問は自由を獲得するためです。学問が人を不自由にする場合があるのであり、
その不自由を解消するのもまた、学問なんです。

もともとから自由な人を、学問により自由すると言うことはありえないわけです。
だから、学問は何の対価なしになされるべきものではないでしょうか?

262:考える名無しさん
10/10/16 13:58:01 0
そうやって教えたり教えられたりする学知は、ただ放辟邪侈を助長するのみであり、
教学姿勢から礼節を重んじつつ教え教えられる学知こそは、礼節に即して世を泰平へとも導く。

礼節に反する無礼が巻き起こす放辟邪侈、その放辟邪侈を諭吉が禅語を盗用して美化した、
現代的な意味での自由、その自由こそは、何億人もの人々を虐殺被害に追いやった
元凶でもあるかして、もう理想上の理念としてすら掲げることを憚るべきものだ。

263:考える名無しさん
10/10/16 14:02:39 0
自由と欲望とは正反対なものです。
自由な人には欲望はないのです。
反対に、欲望ある人は自由ではないのです。

欲望が罪を生むのです。自由は罪を生まないんです。
あなたは、自由が罪を生んだといっています。それは有り得ないことです。

自由は自足しています。欲望は飢えているのです。自足してるものが
誰かを束縛することはありえないでしょう?

264:考える名無しさん
10/10/16 14:07:49 0
欲望があるから放辟邪侈に走る、放辟邪侈を正当化するために「自由」という言葉でこじつける。
ただそれだけのことであり、禅語としての「自由」とはあまりにもかけ離れた、醜悪な内実に即している。

ナポレオンとかリンカーンとかケネディとかの、非業の最期を遂げた著名人を
好き好んであげつらったりするのも、孝悌意識を全く欠いた不誠実な姿であり、
誰も彼もが先人の不遇を面白がるような世の中は、誰も彼もが放辟邪侈に走るのみ。

そりゃあ、何億人もの人々を餓死や戦死においやってまで、欲望を膨れ上がらせ続けるのも当然のことで、
根本のところの忠孝の欠如から是正していくことこそが、同じ過ちを繰り返させないための最善策となる。

265:考える名無しさん
10/10/16 14:18:51 0
×
無知蒙昧な側が自意識過剰に即した自己主張を溜め込みつつ先生の話を聞く。

先生の側は何とか自分の話を聞いてもらうために、修辞や文飾を凝らすことばかりに終始する。

結果、ほとんど何も学ばれることはなく、先生を謙らせた悪影響で、余計に自意識過剰も膨れ上がる。


無知蒙昧な側が自意識過剰も自己主張も全廃棄した上で、恭しく先生の話を聞く。

先生の側も修辞や文飾に拘泥することなく、自分の学知をストレスフリーなまま相手に教えられる。

結果、無知蒙昧な側も多くを学び、先生の側も自分の学知の点検や修正が行なえて、両者のためになる。

266:考える名無しさん
10/10/16 14:28:47 0
>>257
>このありがたい教えを

それはなんですか?

267:考える名無しさん
10/10/16 14:36:12 O
何を教えてくれるのかも分からない相手に、何を学ぼうとしているのか?

268:考える名無しさん
10/10/16 14:43:56 0
>>267
ありがたい教えがあると言っておられます。

聞いてみないと判らないじゃないですか?

269:考える名無しさん
10/10/16 14:53:38 O
人の話を聞くことよりも、自分の無知を主張することのほうが大事な
自意識過剰地獄界の住人である鬼畜には、仏の声だって聞こえても分かりゃせんよ。

人の話を聞き入れる上での、根本的な資質を自分自身が欠いているのだから。

270:考える名無しさん
10/10/16 14:59:30 0
>>265
>○
無知蒙昧な側が自意識過剰も自己主張も全廃棄した上で、恭しく先生の話を聞く。

先生の側も修辞や文飾に拘泥することなく、自分の学知をストレスフリーなまま相手に教えられる。

結果、無知蒙昧な側も多くを学び、先生の側も自分の学知の点検や修正が行なえて、両者のためになる。

・・・・
この通りであることは、仏教でも同じであります。また人情に適っております。

ありがたい教えを承りたいと存じます。

271:考える名無しさん
10/10/16 15:54:57 0
沈黙は、負け。

272:考える名無しさん
10/10/16 15:59:55 O
人の話を聞くことよりも、自分の無知を主張することのほうが大事な
自意識過剰地獄界の住人である鬼畜

273:考える名無しさん
10/10/16 16:04:05 0
押し合いへし合い豚の小倅

274:考える名無しさん
10/10/16 16:23:40 O
思考は自我ではないから、考え方を替えたからといって
自我が失われるようなことはない。

むしろ誤った考えを無理に押し通そうとする時に、我を見失う。

275:考える名無しさん
10/10/16 17:03:24 0
どれもこれもしばらしいご意見

276:考える名無しさん
10/10/16 17:45:21 0
>>273
本性を表したね。悪魔の本性を・・・・

277:考える名無しさん
10/10/16 17:58:40 0
そもそも、

1.君臣の義 ┐
2.父子の親 ┼三綱
3.夫婦の別 ┘
4.長幼の序
5.朋友の信

が「天下の達道」の優先順位だから、
師弟関係を含む長幼の序よりも、夫婦の別のほうが本当は重要なわけだ。

もともと妻が夫に教えを乞うたりするのはお門違いで、領分の別個性が
重んじられるからこそ、夫婦の場合はもう少し親密であってもいいんだ。

最も、匿名掲示板上でしか話したことのない夫婦なんてないがな。

278:考える名無しさん
10/10/16 18:18:18 0
夫婦だああああああああああああああ????????
お前の脳みそが最初っから腐ってるんだろがあああああああああああ

279:考える名無しさん
10/10/16 18:40:09 0
いや、切実な話、師弟のうちの弟子となるよりは、
夫妻のうちの妻(雌雄のうちの雌)になるほうが、向いてそうだ。

おたくには東洋教学は向いてない。

280:考える名無しさん
10/10/16 18:55:06 0
東洋教学は儒教ばかりじゃない。

281:考える名無しさん
10/10/16 19:05:05 0
坂本“龍馬”の名でも言葉ばかりは有名だが、
「易経」乾卦と坤卦の動物での卦像がそれぞれ「龍」と「牝馬」。

龍のほうは場合によって地に伏せていたり(諸葛孔明の隠遁時のあだ名も「伏龍」だった)、
逆に一気に天上まで昇り詰めたりの、能動的な威厳の持ち主である一方で、
牝馬のほうは、「牛馬のようにこき使われる」という慣用句にもある通り、
目上の者などに受動的にこき使われる中でこそ、その能力を発揮する。

雌雄を決して、自分が牝馬となることで、牝馬ならではの本領が発揮される。
万事万物にはそうあるべき個別性があり、龍であることが相応しいものもあれば、
牝馬であることが相応しいものもある。確かに身分の上下などの差別も生じるが、
それはことに、易の卦爻表記などに基づいた場合には、完全に平等に扱われる。

282:考える名無しさん
10/10/16 19:34:32 0
師匠が弟子に教育上の序列を徹底さすのは、弟子を自分並みの境地にまで
上って来させるため。名刀を鍛え出すためにこそ、玉鋼も何度も何度も打ち固められる。

そもそも名刀になる素質もないくず鉄や非鉄金属のうちで、拵えの金具などに
する上では上質な材料などが、相応の加工を受けて美麗な姿ともなる。
そのようにして、妻や匹夫であるなりに相応の役目を果たすものであれば、
師匠に付いていく弟子ほどにも峻厳な仕打ちを被らなくても済む。
一生を妻や匹夫として終えるのならば、それでもいいのであり、
わざわざ上を目指そうとしない中にも、確かにそれなりの生き方がある。

名刀の鞘となれた拵えなどは、名刀ゆえに刀身の実用も憚られるために、
納刀された状態で人目に付くことのほうが多いから、名刀それ自体以上にも
人々の眼福を満たす素質が必要ともされるのである。

283:考える名無しさん
10/10/16 19:39:50 0
名刀は刀ではない。

284:考える名無しさん
10/10/16 20:10:47 0
実際論と比喩の区別も付かない。

285:考える名無しさん
10/10/17 19:17:55 0
妻となることと、弟子となることは別だ。

耶輸陀羅も仏弟子となった時には、すでに釈迦の妻ではなかった。
などという、高尚過ぎる例を挙げるまでもなく、家庭と教学は別だ。

教学部と婦人部を並べたりすることもなく、家庭のほうが上だ。

286:考える名無しさん
10/10/18 19:16:19 0
家庭と学問は、全くの別物。少なくとも儒家においては。

林羅山も、妻を亡くした時には多くの哀歌を詠ったほどの愛妻家だったが、
学問の峻厳さについては一歩も譲らず、ハビアンのような邪教徒を相手に
滅多打ちの論破を加え、自信喪失の後の棄教に追い込んだものだった。

スウェーデンの女王などとホクホクの講義生活を送ったデカルトのような、
学問面での遊びは一切許さない代わりに、家庭関係は師弟関係よりも大切にする。
それでこそ、一般名詞としての「儒者(学者)」の理想的な姿でもあるのであり、
利権や情愛などのために曲学阿世に及んだりするのでは、鶏鳴狗盗の食客止まり。

287:考える名無しさん
10/10/19 14:25:22 0
ハビアンが地動説を唱え、ラザンが天動説を唱えたと言うのは、矛盾してるのだ。
いい加減なことをいわないように。まして、ハビアンを打倒したという様な事はありえないこと。


288:考える名無しさん
10/10/19 18:55:48 0
打倒されてシクシク泣いてりゃいいじゃん。

そのほうがよっぽどかわいいよ。

289:考える名無しさん
10/10/24 18:42:56 0
「それ自身の光によって〔統覚機能の〕諸観念を照らし、その諸観念を対象と
している認識主体を、統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは、愚者だけである」
(岩波文庫「ウパディーシャ・シャーハスリー」一・一五・二七より)

「認識というアートマンの光輝に照らされて、統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他には認識主体は存在しない、と考える。これこそじつに統覚機能にある錯乱である」
( 同 一・一六・六〇)

「認識はアートマンの本性であるから、認識は、統覚機能に対して、
〔用いられるとしても、それは〕つねに譬喩的に用いられるのである」
( 同 一・一六・六一より)

「識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の
なにものも〔輪廻〕ではない。解脱とは、正しくその〔識別智の欠如を〕止息することである」
( 同 一・一六・六一-六二より)

これらの記述の意味するところが分かるか?

290:考える名無しさん
10/10/27 22:05:35 0
分からないから答えられないのか、分かっても答えられないのか知らないが、
一応答え合わせをしてみようか。

「それ自身の光によって〔統覚機能の〕諸観念を照らし、その諸観念を対象と
している認識主体を、統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは、愚者だけである」
→イデア論(概念論)の否定

「認識というアートマンの光輝に照らされて、統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他には認識主体は存在しない、と考える。これこそじつに統覚機能にある錯乱である」
→コギト(我れ思う、故に我れ有り)の否定

「認識はアートマンの本性であるから、認識は、統覚機能に対して、
〔用いられるとしても、それは〕つねに譬喩的に用いられるのである」
→グノーシズム(認識主義)の否定

「識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の
なにものも〔輪廻〕ではない。解脱とは、正しくその〔識別智の欠如を〕止息することである」
→ソフィズム(智識主義)の否定

291:考える名無しさん
10/10/28 15:17:08 0
本流のインド哲学って、西洋哲学をことごとく否定した内容になってるんだな。

バラモン・ヒンズー教系のインド哲学に異を唱えている、仏教だけを見ても気づかないが。

292:考える名無しさん
10/10/28 17:44:52 P
シャンカラは唯名論だから仏教に近いし、カントにも近い。

293:考える名無しさん
10/10/28 19:38:55 0
近いもんかよ。カントとは真逆のことを言ってんよ。

自性(物自体)が経験や認識によって把捉することが不可能であるとするカントの主張とは違い、
シャンカラ含むヴェーダーンタ学派は、「そうではないそうではない(ネーティネーティ)」の積み重ねという
知識的な経験によって、あらゆる感覚的な現象を超えた所にある自性、アートマンが捉えられるとしている。

自性を肯定否定織り交ぜた構造的な論及によっていじくった挙句、「自性は捉えられない」と断じたカント。
徹底的な現象構造の否定の重畳によって、自性を捉えることによる統覚機能の解脱を可能としたシャンカラ。

否定の重畳の先にアートマンと呼ばれる主体的な自性が実在することを説いたのがヴェーダーンタ哲学で
あるのに対し、否定の重畳の先に一切皆空という真理を見出したのが般若哲学。これらもまた異質である
部分を持つのは確かだが、否定の重畳が解脱などの結実を可能とする点では一致しており、そもそも
否定の重畳を試みることも、それにより自性の実在を追い詰めきることもなかったカント哲学こそは、
ヴェーダーンタ哲学とも般若哲学とも相容れない、片手落ちの要素を持ち越したままでいる。

294:考える名無しさん
10/10/28 19:55:45 0
ヘーゲルの精神現象学も、原題は「Phanomenologie des Geistes」。
精神が現象構造であるという立脚は、構造的な思考が自我の根拠であるとするコギトにも依っているし、
自性の把捉が不可能であるとしたカントの主張にも即している。シャンカラに言わせれば、
そんなものは愚者の錯乱に過ぎないのであり、統覚機能が感覚的な把捉の対象とする
構造現象が「自性」や「精神」であるわけがないのであり、せいぜいそれは右脳が司る
感情的な意志である程度のもの。もちろん、意志を物自体と同一視したショーペンハウアーも
あまり高尚なことをしたとは言えず、西洋哲学はことごとくそのいずれもが、純粋精神アートマンの
把捉にまで到達できない範囲での、精神だと思い込んだ感情の分析に終始してしまっている。

295:考える名無しさん
10/10/28 20:29:58 P
『純粋理性批判』におけるカントのデカルト、プラトン、ライプニッツ批判は、立場は違うが
、理性の越権行為を禁じているという意味でシャンカラと同じ手続きを踏んでいる。
ただ、同じ批判が自己にも適用されるという部分がカントを近代的哲学にしている。

296:考える名無しさん
10/10/28 20:39:55 P
無論カントは西欧文明特有の二元論の欠点を抱え続けており、その点は指摘しなければならないが、
自己は世界外存在と考えた点は特筆されるべきだ。

297:考える名無しさん
10/10/28 20:48:02 0
>>295
そもそも、統覚機能が情報処理構造上に創造想像しようとする
概念(イデア)が理性であることからシャンカラは認めていない。

ならずならずの重畳、万事万物の現象的な構造を否定し尽くした先にある
認識主体たるアートマンこそは、自性であると共に理性の本源でもある。
理性が概念を本拠地としていることを論拠に、カントは理性を批判したが、
そもそも概念が理性であることから認めていないシャンカラの意見に基づくなら、
理性を概念に付与したプラトンがマッチであり、そういう意味での理性を
批判したカントがポンプであるだけの、無味乾燥としたマッチポンプ劇が
西洋において繰り広げられていただけにしかならない。

理性ではないことを根拠に概念論を否定したシャンカラと、
理性であることを根拠に概念論を批判したカントを同列に扱ってはいけない。

298:考える名無しさん
10/10/28 21:10:52 0
>>296
自己が世界外や宇宙外の存在であることを、シャンカラが認めたわけでもないのだ。

脳内の概念論などによって、真理(ブラフマン)とも同一であるアートマンが捉えられないように、
形而上に構造的な自己が存在する余地などもないのだから、構造的な自己を完全否定
し尽くした先にこそ、ブラフマンなるアートマン=理性でもある真我を見出している。

自性の把捉可能性を否定し、自性としての理性を批判したカントが、自己を世界外や
宇宙外の存在と捉えたのなら、それは、可能な限りでの上達に至らないままの自己を、
到達不可能な領域である形而上に仮託して、己れの至らなさを慰めただけであるといえる。

結局、西洋人のやっていることは、キリスト教を全廃でもしない限りは、
娼婦の私生児のカルト教義と同等であり続けるのである。


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