存在、時間そして不死at PHILO
存在、時間そして不死 - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
10/09/11 20:44:40 0
誰も無関係ではいられない問題?
勝手に言ってろハゲ!

3:考える名無しさん
10/09/12 01:45:37 0
>>1
死体性愛愛好家ですフォローよろ
URLリンク(twitter.com)

4:考える名無しさん
10/09/12 04:39:06 0
俺は色んな考えの哲学者やら学生たちと話してきたけど
とにかくあいつらは持論とかいうのに拘る傾向がある
だいたいがプライドが高くて固執しすぎている
世間では通用しない空論で威張っているだけで
あんなのを有難がっているのは無知の極みとしか言いようがない

5:考える名無しさん
10/09/12 04:52:12 0
形而上の区画整理をしたいのが哲学なんじゃないの?

6:考える名無しさん
10/09/12 05:02:03 O
ソーセージ

7:考える名無しさん
10/09/12 05:04:58 0
ハムの人

8:考える名無しさん
10/09/12 05:18:56 0
我無の人

9:考える名無しさん
10/09/12 21:49:48 0
-=・=-∵-=・=

10:考える名無しさん
10/09/13 17:21:39 0
不生不滅、それは常住

11:考える名無しさん
10/09/13 17:46:34 0
諸行無常の響きあり

12:考える名無しさん
10/09/13 23:28:37 0
>>1の思い違いはまずここにある。

> 先ず人間社会という絶対的なものがある。

何故そう断定出来るのか?
まあ、小学生だったからしょうがないのかも知れないが、書いている内容からすると
この観念がそのまま引き継がれてしまっているように見える。

それともう一つ誰もが持ってしまう根本的な観念がある。それは「体が自分である」
という観念だ。>>1はまだその観念に縛られた上で思考しているように思える。

何故、そう断定出来るのだろうか? 簡単な話だが、もし今現実だと思っている世界が
自分の見ている夢だったら、全てが成立しなくなる。自分の体でさえも夢の中での
体であって現実の体ではない。世界も全てが自分で作り上げたものであって何ら
絶対的なものでも自分が存在する前から存在していたものでもないということになる。


13:考える名無しさん
10/09/13 23:31:07 0
何これ
他のスレはみんなぶっ飛んだか???

ヤバイっす!
哲学板終了~~~~~~~。


14:考える名無しさん
10/09/14 15:48:52 0
自己とは、世界から照らし出される存在ではなく、照らし出しあう存在である。
世界は、照らされ出す存在であり、自己を照らされ出した存在なのだ。
自己と世界は、照らされ出し、照らし出した直感により、照らし出す。

15:考える名無しさん
10/09/14 16:14:38 0
真っ暗 真っ暗 真っ暗ぴーん

16:考える名無しさん
10/09/15 17:19:53 0
生きていること自体がお先真っ暗な僕はどうしたらいいのでしょうか。

17:考える名無しさん
10/09/15 20:32:45 0
>>16
気にしない。

そして、この言葉を思い出せ。

「これで、いいのだ」 (バカボンのパパ・談)

18:考える名無しさん
10/09/15 20:38:50 0
>>16
なんでそう思うの?
嫌な事でもあった?

19:考える名無しさん
10/09/15 20:40:46 0
人間に先のことが分かるだろうか? 未来のことが分かるだろうか? 分かるわけがないのである。
なぜなら世界の全情報を掴み法則に従ってその全ての変化をシミュレートすることなどコンピュータを
使っても不可能だからである。天気予報は外れ風が吹けば桶屋が儲かり北京で蝶が羽ばたけば
ニューヨークで嵐になるのである。

つまり人間のような、あるいは人間の作ったコンピュータのような物凄く低い能力しかないものでは
一瞬先の未来ですら予測することは不可能なのだ。ならば、明日のことを考えても確実に妄想に
しかならない。考えるだけ無駄である。ましてや妄想を真実であると確信して「お先真っ暗」などと
思うのは愚の骨頂。そんな風に思い悩んでいる内に時は過ぎあっという間に過去になっている
ことだろう。

過去のことですら記憶があやふやで妄想混ざりであるのに増してや未来のことなどいくら考えても
時間の無駄である。そんな妄想見ている暇があったら今を見ろ。

20:考える名無しさん
10/09/15 22:56:56 0
今を感じるのって大変なことですよね。
音楽を聴いている時は今を感じるのが楽しいけど、
やっぱ苦しいときは今なんか感じたくない。
苦しいのをどうすればいいかと考え出す。
そのように将来を考えている時に、考えを捨てて今を感じ続けるのは難しい。

21:考える名無しさん
10/09/15 23:05:05 0
「今が苦しい時」というのは本当に過去や未来を妄想せずに「今」を見ている状態か?
本当か? よく思い出してみろ。

例えば何かの試験に落ちたとする。すると苦を感じるだろう。しかしそれだけで終わっていない筈だ。
その直後に未来のことを妄想してしまい「もう駄目だ」などと勝手に結論を出したりする。そのような
妄想が苦を余計に増幅し長引かせている。違うか?

過去に対してあの時ああしていればというのも同じこと。ああしていれば今はもっと良かっただろうし
未来ももっと良くなるはずだったなどと妄想しているだけだ。

そういう思考は全部無駄なんだよ。そういう余計な思考を全部捨てて今だけを見るんだ。


22:考える名無しさん
10/09/16 01:08:50 0
今だけを見ろだと? あほか。
全員がそんなやつらだったら、農耕も不可能。
腹が減ったり狩に出る旧石器時代に逆戻りだ。

23:考える名無しさん
10/09/16 01:49:28 O
今を見ろってよくいうが、厳密には、遠い未来ではなく近い将来を予測し対策を練れってことだよ
この辺を勘違いしてはならない
シンクロニシティをもちろん予測することは不可能だろう
要するに組み合わせの連鎖だから1つの予測にはたどり着かない
がそもそも、この世界の事象が複雑なシンクロニシティのみで成り立ってるわけではない
要するにシンクロニシティとは川で例えるなら水系にあたるものだ
必ず本流や源流なるものは存在しやがては海に出る


24:考える名無しさん
10/09/16 02:24:10 0
>>22
今を見て今に対応するために過去の記憶を利用するのなら問題はない。
過去の記憶や未来の妄想で思考が埋め尽くされ今ここを見ないのであればろくなことはないだろう。
それは目を瞑って歩くのに等しい。何れ穴に落ちる。


25:考える名無しさん
10/09/16 09:32:01 O
人間の神経の情報処理速度では「今」は見えないらしい

26:考える名無しさん
10/09/16 14:17:32 O
記憶や妄想に支配されてしまうか否かの問題だ。
そういったものに支配されないなら人間の脳の処理速度はそれなりに速いからだいたいは大丈夫。

27:考える名無しさん
10/09/16 14:24:56 0
記憶に基づく知識によって解釈されて始めて現実が認識できるんだろ?

28:考える名無しさん
10/09/16 23:44:56 0
現実を認識しようとしている場合はな。

29:考える名無しさん
10/09/17 00:46:47 O
タイムラグの話かな?
人間社会においてはタイムラグはほぼ存在してないね
なぜなら誰もがリアルタイムで今を感じてないからさ
過去を感じてるわけだ

物質も夜空に見える恒星とかわりない
網膜に映像が入るまでにすでに0.0000~1秒経過している

30:考える名無しさん
10/09/18 16:50:44 0
まあ、自分自身が無になるまで考えて! たぶん一生無理だろうけど。

31:考える名無しさん
10/09/18 17:03:21 0
それは広い知識と言うより、教養が要求される。そしてなによりも、戦うことが。
政治思想で、文学という言葉を出したら、それは文学板でというような奴は、以ての外である。
考えることは、ある程度有効ではあるが、正しく感じられない者は正しく思考さえ出来ないということ、
これは真実である。

歴史を思考するためには、その基体ともいうべき物理的時間性に左右されない永遠の時間性が要求される。
これを忘れないように!

32:考える名無しさん
10/09/27 01:42:34 0
                  人
               ノ⌒ 丿
            _/   ::(
            /     :::::::\
            (     :::::::;;;;;;;)
          |\/  ノ' ヾ   \/|
          ヽ_`⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒_/
       /⌒.\. ヽ: il´トェェェイli. / /⌒\
      /  ノつ\.ヽ:!l |,r-r-|!  //⊂  \
  o0○ノ  /  3  \ (::::⌒ヽ / とノ\ ヽ○0o
  (    /、_ノ\   Y `(_、_)   /  \´  )゚
   \_)    `ヽ   : : : *   : : : |    (_ノ
           人___ノ、___ノ
           / ◞≼◉≽◟l─l◞≼◉≽◟ |'゙
     وكلُ النساءِ لهنّ - إذا ما تعرّينَ
           |;; 南無阿弥陀仏-フ、
     苧疾呼玖差亥苧饅湖にしゃぶりつきながら~
            \;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/\  いたんじゃよ?w
          /´ ヽ` ̄        ー-゙:.、
         i          - 、         `ヽ_  
         l:    、.:         ヽ       ゙i"
           !    i ; n  .:c.:   ',    _..ハ
          |    ハ/ {   _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ
         |   ト./  ` ̄__,.:=彡  :.ヾ、ニ二 /

33:考える名無しさん
10/09/28 19:30:40 0
永遠とは、過去を含み、未来を孕んでいる。それは現在のことである。

34:考える名無しさん
10/09/30 08:56:02 0
つまり、現在しか存在しないこと。永遠の現在だっての。
過去も未来も脳髄つまり観念の中にしか存在しないしね。

35:考える名無しさん
10/10/02 13:04:25 0
34>>
しかし、それは現実になるものではなかろうか? いずれ。その可能性が未来をも含む。

36:考える名無しさん
10/10/03 20:24:19 0
(´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´
・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)
(´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・
・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)
(´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・
・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)
(´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・
・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)  (´・ω・`)

37:考える名無しさん
10/10/04 15:17:17 0
>>33
永遠とは遙か遠くにあり、それが現在なら、現在には決して到達し得ない。過去や未来は永続の中に閉じこめられる。
結局自然と人間の認識は交わらない。時間の中に視野があるなら、瞬間を止めることができれば永遠に近づく。

38:考える名無しさん
10/10/04 23:17:50 0
普通に物理学で考えれば時間はないということにはなるよな。物が動くから時間が作られているだけだ。
素粒子が停止したらそこで全部停止。w
なんとなく冷凍保存と似てるね。ちょっと違うけど。

39:考える名無しさん
10/10/11 10:32:03 0
37>>
永遠が遥か遠くに感じられるのは、あなたが悟っていないからである。遥か遠くは今の自分である、あなたの場合は。

「結局自然と人間の認識は交わらない。」とはどういうことか? こんなことはあり得ない。あなたも自然の一部である。違いますか!

あなたがそのように感じられないのは、明らかに、人間のみを見ているからである。

40:考える名無しさん
10/10/13 12:23:23 O
私が世界です。

以上。

41:考える名無しさん
10/10/17 23:08:32 0
人間は全ての事物を人間としてしか見れませんね。
自然なんて幻想です、非-人間としてしか定義できません
(人間が何よりも前提ということです)。

人間が世界です。

以上。

42:考える名無しさん
10/10/19 18:37:37 0
私≠世界
人間≠世界

43:考える名無しさん
10/10/20 13:35:14 0
        ____
       /∵∴∵∴.\ 
      /-=・=-∴-=・=-i    
      |.∵∴∵∴∵∴|____
      |::::/◎\/∵∴∵∴.\ 
      |:: | ト‐=‐/-=・=-∴-=・=-i  
      |:: | ` `二..|.∵∴∵∴∵∴.|  一般受けしすぎなんじゃよ

44:考える名無しさん
10/10/20 15:44:24 O
私=宇宙

45:考える名無しさん
10/10/23 17:18:15 0
存在と非存在
存在を指摘する方が途方もなく簡単

46:考える名無しさん
10/10/23 17:38:00 0
それ全ての大学人に言ってやりたいな

47:考える名無しさん
10/10/23 22:29:35 0
悪魔の証明だな。

48:考える名無しさん
10/10/23 22:33:55 0
うおっしゃーーーーーもう解禁してたのね(はおと
劇場版14弾、やはり動画うぷされてましたb
こんやはhほかほかウハウハじゃわいっ!


49:考える名無しさん
10/10/23 23:00:19 0
「存在」「時間」はわかる

「不死」は全然違うテーマだろうが

50:考える名無しさん
10/10/24 07:19:03 0
悪魔の照明とはちょっと違う。「こういうモノが存在する事を証明汁」
と言うのと、「存在しないモノを説明汁」とは違う。
そこでおやっと思う。存在しないなら説明できるワケないだろ、と。


51:考える名無しさん
10/10/25 20:32:55 0
そういえばアキバのヤマギワで悪魔の照明売ってたっけなあ。
明るかったなあ。

52:考える名無しさん
10/10/26 20:29:07 0
                   ____
                 /    \
               |\/  ノ' ヾ  \/|
              ヽ_`⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒_/         ぴゃぴゃっ!!      
           /⌒.\. ヽ: il´トェェェイli. / /⌒\
          /  ノつ\.ヽ:!l |,r-r-|!  //⊂  \
      o0○ノ  /  3  \ (::::⌒ヽ / とノ\ ヽ○0o
      (    /、_ノ\   Y `(_、_)   /  \´  )゚
       \_)    `ヽ   : : : *   : : : |    (_ノ
               人___ノ、___ノ
               /∵:< ・> 。。<・ >
               |∵∵ |\_|_// / 
                \∵ | \__ノ .|/   はあ?
               / \|___/\
              │ ∴∵━○━∴│         
    ̄_|,..i'"':, ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     |\`、: i'、
     .\\`_',..-i
      .\|_,..-┘

53:考える名無しさん
10/10/30 13:52:01 0
「時間」が終わるらしいけど、そもそも「時間」ってなんだよ、「時間」が終わるとか意味わかんね
スレリンク(news板)

54:考える名無しさん
10/10/30 17:21:38 0
人生やり直せるなら何歳に戻りたい?
スレリンク(news板)

55:考える名無しさん
10/10/30 20:26:47 0
【現前化】時間はなぜ進むのか?【把持】
スレリンク(philo板)

56:考える名無しさん
10/10/30 20:31:21 0
時間の外にも立てないのに時間が進んでいるとは言えない

57:考える名無しさん
10/10/31 21:03:47 0
>>53
時間を知るには時計を見る。できれば腕時計が良い。
その時計が1時間しか進んでないのに世間では10年とか有り得ないから。

58:考える名無しさん
10/10/31 21:22:28 0
電波時計最強
異論は認める

59:考える名無しさん
10/11/01 19:48:44 0
     ______
    /∵∴/∴∵:\ 
  /∵∴∵:∴<・>:<・>、
  |Y∵∴Y∴∵:/ ●\|
  | |∴∵|∵∴/三 | 三|   なんこつの唐揚げが好きな人に天才が多いらしい。
  |∴\/∵∴:\__ノ/
  \∴∵:./ ̄ ̄ 
   (∴)∴)

60:考える名無しさん
10/11/08 00:32:38 0
>>50
その場合、存在する可能性や妥当性を説明している

61:考える名無しさん
10/11/11 08:35:50 0
存在や時間と言うと、なんか、科学的な感じがするだろう。なぜなら
存在にしても時間にしても、数量を伴って論じることができると、一般的に
考えられるからである。

例えばこの宇宙の大きさは、光年と言う単位を用い、しばしば、何光年のかなたの
新星を発見したなどと言う様に。

時間にしても、まさに光年そのものが時間と距離を表す単位なのだろう。時間と空間の存在は
まさに数値を以って論ずるものと、一般人が考える所以であろう。

ところが、数そのものが問題なのだ。
数も名称と同じに、約束事なのである。決して真理真実を言うものではないのである。

数の数え方は小学校で学ぶが、その時に約束事として教えなければならない。
約束事と真理真実の区別は、子供の時のほうが、理解しやすいのでは、と。

りんご一つと数えるが、その一つの真実は、数の約束を排斥するのである。
りんごなどない、と言うのが真実なのだから。


62:考える名無しさん
10/11/11 08:50:48 0
参考にして下さい。

  グーグル検索:C点による仏教的宇宙論

63:考える名無しさん
10/11/11 09:02:36 0
参考にして下さい

  グーグル検索:C点による般若心経

64:考える名無しさん
10/11/11 09:09:39 0
上記、62,63について

 宗教ですので、「思考」のみでは理解出来ず、「瞑想」を要します。
 哲学徒には、無意味か?

65:考える名無しさん
10/11/11 11:24:13 0
残念ながら、たいした価値のないものと思う。

C点と言うのは、要するに、中間の存在と言う意味で言っているのだ。
中間を中道に解釈したいのであろう。ところが、この中間の存在と言うものは
妄想に過ぎない。

中道とは、位置関係の存在と考えがちで、誤解されやすいが、そういうものでは全くないのだ。
中道とは、極端を排する意味で言われ、しかし、両極端ではない、その中間、と言う意味ではないのだ。
その混合した状態と言う意味ではないのだ。

極端とは、執着を意味するのだ。どちらかに執着する状態を言うのだ。
いや、右に執着する場合、左に執着する場合、これらの混合に執着する場合、
対象が右左その中間があって、そのどれかに執着する場合、それは極端と言うのである。

であるから、これらの混合に執着する場合も、執着に他ならず、中道ではないのである。

中道とは、いかなるものにも執着しない態度のことである。

・・・・・・

宗教哲学と科学の違いは、宗教哲学は、真理真実の世界であるが、科学は
共通概念、つまり契約の世界である。宗教哲学の、勝義諦に対する世俗諦
の世界のことが科学の対象とする世界である。

66:考える名無しさん
10/11/11 11:31:14 0
老荘の言う中庸、儒教の中庸も、この中道なのである。

ただし、儒教は老荘から中庸をパクッているのだ。

現今の学者は、中道と中庸は異なると言う様に言っているが、同じである。

老荘の教えは、ゴーダマの教えと同じである。

67:考える名無しさん
10/11/12 05:39:00 0
[存在」を極めると、「無限と矛盾」に至る。「矛盾」は「時間」としては「0秒」と言う
「瞬間」であるところの「現在」においてのみ、実在する。
実在は、「空間」のみで、「時間」は、概念に過ぎない。
この世は「実体」があり、「不生不滅」など無い。「不死」など、願望に過ぎない。

存在を極めると、どうして「無限・矛盾」となるか? 鍵は「C点」にある。

般若心経の「色即是空」、華厳経の「一即一切」「一即多」、中論の「非有非無」を
勉強しなをしましょう。世俗諦や勝義諦にこだわら無い。

68:考える名無しさん
10/11/12 09:23:02 0
参考までに

科学は、無限・矛盾は扱いません。哲学は、「思考」がメインですので、
無限・矛盾は境界領域です。C点論は、宗教ですので、「瞑想」も取り入れ
ます。この時点で、拒否反応を示すものも多いと思われます。

以上ご納得の上で、興味のある方は、グーグル検索してみてください。

69:考える名無しさん
10/11/12 14:54:06 0
C点とは

物理学では、物質を分割して、分子・原子・素粒子とたどり、空極の素粒子に達し
ました。科学では、「無限」の分割は出来ません。「瞑想」の中で、素粒子を「無限」に
分割します。瞑想してみてください。

瞑想の限りを尽くして、「無限」の分割でたどりつきます。
ここでは、最後に「無」に限り無く近づきます。どまでも「有」です。そこでは空間に
「体積の無い」、「位置のみ占める」「粒子でも無い」、純粋な「点」にまで
「瞑想」して下さい。それはどこまでも「有」である、不思議な点です。ここが
C点論のポイントで、難解なところです。どこまでも「有」です。

ここで今一度、冷静に考えます。空間に体積の無い「不思議な」点は、「無」としか
考えられず、位置も消え、漠然たる広い「無」の拡がりで、しかない。有とは
考えられない。

「無限」に小さな「有」と「無限」に大きな「無」との、同時同位置存在と言う
「矛盾」です。今この矛盾を「C点」とよびます。「有・無合一体」です。


70:考える名無しさん
10/11/12 15:16:56 0
C点は存在可能か?

持続する「時間」の中では、C点は存在出来ない。

時間とは、空間における物質の変化・非変化つまり持続・瞬間と言う互いに
「矛盾」した存在の同時同位置存在が「時間」と言う「概念」です。ここは
ポイントですので、十分に「瞑想」して下さい。

「現在」とは、「実在」ですが、「無」なる「過去」と「無」なる「未来」とに
挟まれた「0秒」です。有・無合一体です。ここもポイントですので、十分に
「瞑想」してください。

「C点」は、現在と言う「瞬間」である「0秒」でのみ存在可能であります。
十分の「瞑想」が必要です。物質の変化・非変化も「0秒」で合一します。

以上、「存在」と「時間」について参考に成ったでしょうか?

71:考える名無しさん
10/11/12 15:24:26 0

「C点論」では、「無限・矛盾・0秒」がポイントで「瞑想」を必要

とし、「宗教」です。信ずる信じないは、それぞれの自由です。

72:考える名無しさん
10/11/12 21:07:45 0
C点は全く体積を持たないものと言うが、そして、それは意識の中にだけあるものと言うが、
それは妄想であると言うべきだろう?無いものをあると思うことを妄想というのだから。

概念であろうと、観念であろうと、それは対象を想定してるのだ。
対象なくして概念も観念もない。あろうはずがないのだ。

妄想にしても、そういう対象を想定してるのだ。

ところが、C点はいかなる体積もないので、存在しないが、妄想せよ、と言うのである。

意識の変化でも、物体の変化と同じように、考えるのが、古代の知者達である。
意識でも、対象を特定できる。対象がある限り、それは体積を持つ。

意識の変化の場合は、異なる意識が並存してるのである。その間に、
体積のない意識C点を想定せよと言うのであるが、仮にそれを認めるとすると、
それから、それを基点として、他の一切の意識が縁起することになる。

つまりC点と言う体積の無いものを意識において、想定するが、その意識自体は
体積を持つのである。C点は体積はないと言いながら、意識において体積を持つのである。

意識において体積を持ちながら、それは体積を持たないもので有ることを、意識せよ、と言うことになるが、
自己矛盾してるのである。自己矛盾は破滅である。崩壊である。

結論のとして、体積のないC点なるものは、間違った想定と言うことになるのだ。

73:考える名無しさん
10/11/12 21:24:06 0
>>69
>こまでも「有」です。

ここで今一度、冷静に考えます。空間に体積の無い「不思議な」点は、「無」としか
考えられず、位置も消え、漠然たる広い「無」の拡がりで、しかない。有とは
考えられない。

「無限」に小さな「有」と「無限」に大きな「無」との、同時同位置存在と言う
「矛盾」です。今この矛盾を「C点」とよびます。「有・無合一体」です。

・・・・・
無限に小さいが、あくまでも『有』であると頭書に行っているが、途中から、
その有が、「有とは考えられない」と言い、さいごには、
『「無限」に小さな「有」と「無限」に大きな「無」との、同時同位置存在』
と矛盾したことを言っている。

例えば、夜の天空に満月が一つだけあり、その他の星星はないものとしよう。
あなたの言うところは、上の天空の上体なのだ。満月は死人で切るが、あなたの無限に小さいが、
それでも『有』なるものである、と言うものだ。

あなたは、この無限に小さい満月であるが故に、満月を取り囲む無限の暗黒の世界との、区別がない
、と言っているのである。

無限に小さいとしても有である限り、この満月と囲繞する暗黒の世界とは、
明らかに差異ある世界と、意識しているのである。


74:考える名無しさん
10/11/12 21:28:48 0
>>70
そんな瞑想できるわけないよ。そんな瞑想してはならないね。

75:考える名無しさん
10/11/12 21:30:54 0
>>73訂正
満月は死人で切るが→満月は視認できるが、

76:考える名無しさん
10/11/13 04:20:39 0
Cちゃんどこにでも沸くなあw

77:考える名無しさん
10/11/13 05:33:17 0
72-76

「無限」と言うこと一つでも、「思考」で了解しようとする。これでは、「矛盾」
となると、おして知るべし。「0秒」に至っては、論外。

哲学徒の限界を、自ら知るべきである。「縁無き衆生」は、去れ。

78:考える名無しさん
10/11/13 05:45:08 0
>>1-1000
権力の予期理論は、薄くてとても読みやすいよね
理系の友達は、初歩のゲーム理論を使って社会学が100年近くかけて築いた権力理論を
1時間くらいで理解できたような気にさせるよくまとめられた本だねって評価してたよ



79:考える名無しさん
10/11/13 05:49:11 0
「無限」とは?  「矛盾」とは?
これについて、いま少し謙虚に、勉強する必要がありますね。それに
「ゼロ」ですね。

数学の方は、いつも考えているようですが、ご意見を伺えれば幸せです。

80:考える名無しさん
10/11/13 05:57:53 0

妄想と言う「言葉一つ」で、批評するしか能のない人も、時々
います。自らの論も無いのに。

81:考える名無しさん
10/11/13 08:04:01 0
論理の上では、「矛盾」は、あってはならない。しかし、現実には、
「矛盾」はある。現実は論理に優先する。これが、研究者の態度で
あるべき。

C点論では、現実の矛盾を問題にしている。矛盾だからこそ、そこから
退くことなく、追求を始める。「矛盾」そのものを、テーマとする。



82:考える名無しさん
10/11/13 08:15:17 0
「存在」を考えるとき、矛盾に至る。「無限」と言う瞑想を持って
これを追求する。ここはもう科学でも、哲学でもない。宗教であり、
「C点」の難解なところ。

「無限」と言う言葉が問題。奥の深い意味があります。

83:考える名無しさん
10/11/13 09:27:26 0
蛇足ですが

現象世界では、矛盾も無限も存在しません。しかし、本質の世界は
矛盾であり無限です。

84:考える名無しさん
10/11/13 11:20:26 0
>>79
>「無限」とは?  「矛盾」とは?
これについて、いま少し謙虚に、勉強する必要がありますね。それに
「ゼロ」ですね。

・・・・
矛盾とは何か、これは大事な概念なのだ。その程度は究極の論題と言っても良いほどだ。
矛盾は古代中国の故事で、盾と矛の例えに基づいている。これに相当する西洋の表現はないようですね?
西洋では単に、一貫性がないとか、つじつまが合わないとかの、常識的な表現を当てているらしいね。

最強の矛と最強の盾を、向かわせたらどうなるか、と言う問いに、答えられない、と言う事態を指すのである。
最強の盾と最強の矛を、最強の軍隊が二つあって、両者を戦わせたら、どうなるか、と言う問に換言できるだろう。

両群の戦いは決して終結しないだろう。永遠に戦争が続くのである。

けだし、最強の軍隊とは、そのもの以外に対して有力な軍隊と言う意味だろう。
そういう軍隊が二つ居り、お互いに戦争すると言うのである。永遠の勝敗の決まらない戦争になると言うのは、
当然の帰結である。

戦争なら、どちらかが止めると言う場合、両者が合意して止める場合があり、戦争は中止し、平和が将来される事はありえる。
しかし、こういう矛盾の事例は世界を支配してるのである。

これが良いのではないか、こちらが良いのではないか、こうする方が良いのではないか、それをしないほうが良いのではないか、などと人は迷うのである。
どちらが良いのか判らない、と言う人の心の状態のことである。判るまで心の中に争いは
続くのである。判らない限り永遠に続くのである。迷ったまま人生を終わると言うのが多いのである。
これは苦しみではないか?

85:考える名無しさん
10/11/13 11:53:26 0
>>79つづき
これは、最強の盾であると言いながら、一方で最強の矛であると言う
人の心の中と同じであろう。その人は盾と矛を売る商売人であった。
その人が戦争に狩り出されたとき、自分は最強の矛を持って戦争に臨むが、
相手は最強の盾を持って攻撃してくるだろう。自分は敵に最強の盾をたくさん
売って来ているから、敵はその盾で防御してくるだろう。自分の矛で相手を負かせられるだろうか、
負かせられないなら自分は負けて殺されるだろう、と思い悩むことになるだろう。

どうすれば迷いから脱出できるのだろうか?

迷いとはどちらが良いか判らない、と言う状態である。二つのものがあるのである。
しかし、一つのものしかないなら、迷いと言うものは発生しないのである。

二つのものがある場合、どちらも良いと思われるが、しかし、それぞれは相反しているのである。
二つのものがあるとはそういう関係なのである。だから迷うのである。

して、二つのものがあるとは、必ず隣り合って存在してるのである。
一方は迷う必要のない真実なものなら、他方は不真実なものであり、その場合は迷うことなく
真実な方を選択するだろう。ところが両方とも真実に見えるのである。

で、結論としては、矛盾とは、真実なるものが二つあると言う状態を言うのである。
そしてこれは迷いと言うものであり、永遠の苦しみをもたらすのである。

自分の方が真実であって、相手の方は不真実であると、お互いに主張しあっている関係である。
それなら、どちらが真実であるか決着をつけなければならないのだ。
この裁判が哲学であり宗教なのである。科学は、真理真実を吟味しないのだ。科学は現実を真実と言うだけであろう。

86:考える名無しさん
10/11/13 12:21:48 0
>>79
>「無限」とは?

これも前記に関連して最重要な論題である。
無限とは、純一なものが無限に存在する場合のみ、言いえる状態である。
純一が必須の条件である。何かが混在しているような、今の宇宙のような存在は、
無限の空間とは決していえないのである。

Aと言う物質とBという物質が有る場合、それらが混在しているなら、Aと言う物質は、
Bという物質の締める体積分だけ、無存在であるのだから、Aと言う物質が無限にあると言うことは
出来ないのだ。Bという物質の場合も同じである。

したがって、混在してるものの場合、あるものが無限にあると言うことは不可能である。
純一なものの存在の場合のみである。

もし、両者ともに無限にあると言うなら、矛盾を来たしているのである。

そして無限と言うなら、その有るものは、識別できないものである。故に
存在として消滅するのである。Aが無限であると言うなら、Aは消滅してなくなっているのだ。
そこには識別できるものはない、ので、無と言われなければならない。混在していては決して無限と言うことはありえない。

87:考える名無しさん
10/11/13 12:39:47 0
持続する「時間」--我々の現象世界ーーの中では、「矛盾」は存在
出来ない。
 
だが、時間としては「0秒」が「現在」である。持続する時間など、本質的
には無い。「0秒」の中を、過去・現在・未来は流れる。「C点」も「0秒」
において、つまり「矛盾」も存在可能である。「0秒」を追求して下さい。

88:考える名無しさん
10/11/13 12:54:06 0
>>79
>「ゼロ」ですね。

ゼロと言う言葉の表現は、1、2、3と言う数字の概念の中で考えられているのである。
数える対象がないという場合にゼロと概念するのである。
真理真実の世界を論じる場合は、ゼロを無と表現する。無の概念の方が
その意味する範囲は大きいのである。

言葉と言うものは、共通概念である。観念と言うものは、主観的な概念である。
「概」とは「おおよその」という意味である。

これらはともに、真実には存在しないものである。単に、約束により
発生しているものなのだ。

89:考える名無しさん
10/11/13 12:58:07 0
>>80
妄想とは『迷い』の心の状態を言うのである。つまり矛盾している状態である。
迷い、矛盾は取り除かれなければならない。

90:考える名無しさん
10/11/13 13:21:45 O
純一なものw
別の単語をつかってくれよ

91:考える名無しさん
10/11/13 13:43:50 0
純一はよく使用されているよ。
個人名だとでも?

どんな名称を想像してるの?

92:考える名無しさん
10/11/13 15:17:19 0
「0秒」について

過去より現在にいたる瞬間を「-0」とし、現在より未来にいたる瞬間を
[+0」とする。「-0」は過ぎさったもので、存在しない。「無」である。
「+0」は未だ来たらぬもので、存在しない。「無」である。現在は実在し
[±0」である。「±0」は、前後より[-0」と[+0」に挟まれ、圧迫
されて、有・無合一体つまり「C点」となる。

空間における物質の「変化・非変化」つまり「持続・瞬間」と言う互いに
相容れない矛盾の同時同位置存在が「時間」である。「時間」は概念であり
実在せず、実在するのは「空間」のみである。[C点」である。

[C点」は[0秒」において、実在する。

難解すぎたか?

93:考える名無しさん
10/11/13 16:32:20 0
>>92
C点など勝手に言ってるだけじゃないw。

>有・無合一体つまり「C点」となる

有も無もあるものであり、これらが合一になるとは、有も無も同時に
消滅しない限り、一つにはならないだろう。C点は、有でも無でもないんだから。

再度言うが、C点が意識できる限り、それは体積を持ち、体積を持つとは、
時間と空間を持つということになる。時間と空間を持つものが、ゼロ秒において実在するとは、
矛盾なのだ。

>難解すぎたか?
勝ってすぎだよw。

94:考える名無しさん
10/11/13 16:45:46 0
あなたは竜樹の中論を言っていたね?
中論を援用してみたら?

95:考える名無しさん
10/11/13 18:12:12 0
実在と言う言葉を使用してるが、この意味は、真実在を言うものとすべきである。
仏教的に言うと実相である。中論的に言うと、自性であろう。

自性と言うものは一つのものでなければならない。一つのものなら、
それは『無』でなければならない。自性とは真実のことだからね。

真実が二つあるとは言えないだろう?真実は絶対だから。
真実が二つあると言うのは、その両者はお互いに、自分が真実であり、
他者は虚偽であると言っている状態である。

あなたが二つの真実を認めるとするなら、自己矛盾に陥っているのだ。
自分で一方を真実であって他方を虚偽であると言い、また同時に
他方のものを真実であってこちらのものを虚偽であるといっているのだから。

ものの変化とは、二つのものが有ることを言うのだ。そこで、前者があると同時に他方もあると言うなら、
二つのものがあるといっているのだ。そして『ある』とは実体があると言うことである。
即ち二つの真実があるといっているのである。しかしこれでは前記したように、
自分は自己矛盾しているのだ。

相するとどういうのが正しいのか?変化しているものは、両方とも、実体がない、両方とも
真実在ではない、と言うなら、自己矛盾に捉えられないのだ。

真実が一つであるなら、それは『無』なのだ。例えば、数々の色相がある。
黄色、白色、青色、黒色と言う様に。そこで、黒色が真実であるとするなら、
黒色だけがあるものである。黒色だけの世界は、黒色自体も認識されない世界である。
色がないのである。これを仏教では『無相』と言う。仏教は真実:実相は
『無相』であるという。無相であるとは換言すると、『一つのものがあるに過ぎない』といえる。
このことを仏教では『一相』とも言う。

96:考える名無しさん
10/11/13 18:26:08 0
真実実相が『一相』『無相』であるなら、どんなことになるか考えてみよう。
死もなく、生もなく、悲しみもなく、根拠のない喜びもない。過去の失態を後悔することもなく
、未来の根拠のない喜びもないのだ。

これこそ不死である。永遠の命である。

97:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/13 19:28:58 O
>>92
0秒に存在し続ければ、存在論的には不死であるということですか?

98:考える名無しさん
10/11/13 19:58:02 0
[矛盾」を中国の故事で言うところの、矛盾と同一視してはならない。
それは当然のこと。それには、大賛成。

[C点」の矛盾は、それとは異なる。
「時間」について、空間における物質の「変化・非変化」と言う[矛盾」
これは「持続・瞬間」と言う「矛盾」--この[矛盾」についてC点論は
論じている。

貴兄らは、「時間」についてどう考えているのか?
それが無いと、議論が空転する。

誰か代表して、「時間」の定義を述べてください。

99:考える名無しさん
10/11/13 20:08:07 0

C点論では、[無自性」は認めない。総ての現象には、「自性」があり、
[実体」がある。この世は、幻のような、夢のような、蜃気楼のような
[仮」の存在では、無い。

それ故、「不生不滅」など無い。私達は、実体として「生まれ・死ぬ」
「不死」など単なる願望に過ぎない。

100:考える名無しさん
10/11/13 20:17:17 0
時間=観察存在と被観察存在を隔てるもの全ての内から物質を除いたもの
しかし全ての物質を未だ把握不可能だから、時間の理解は仮のものにとどまる

101:考える名無しさん
10/11/13 22:01:19 0
>>98
>[矛盾」を中国の故事で言うところの、矛盾と同一視してはならない。
それは当然のこと。それには、大賛成。

中国の故事の矛盾・・・・、何を言ってんのかわからないよ。

>「時間」について、空間における物質の「変化・非変化」と言う[矛盾」
これは「持続・瞬間」と言う「矛盾」--この[矛盾」についてC点論は
論じている。

ここにリトマス試験紙があるとしよう。この試験紙は酸性の液に浸すと
青色に変化する(?)。リトマス試験紙は細長いものだ。このリトマス試験紙の半分が、
青色に変化し、残りは白色のままであるとしよう。

リトマス試験紙は、半分が青色であり、残りの半分は白色である。
青色は試験紙の中間で、白色に変化してるんだよね?変化とはこういうものと定義できるだろう?

この白色も青色も実体としてあると言うと、真実が二つあると言うことになる。
これではお互いに相手を否定してることになる。両方に実体があると言いながら、両方を否定してるじゃないか?
二つの真実はありえない。双方が双方を虚偽であるというそれぞれの主張は認めることが出来るのだ。
二つの真実があると言うのが、矛盾なのであり、双方が双方を虚偽であると主張するのは矛盾ではないのだ。

時間の定義であるが、時間は過去から現在にいたり、未来に至るものと言うのが常識だろう。
それは物を一つ一つ積み上げるのに似ている。一方向に進むのである。すべてのものが一方向に進むものなら、
、そのうちのあるものを取り上げて、それが一方向に進んでいるとは言うだろうか?
言わないだろう?むしろそこには動きと言うものがないと言うのではないだろうか?

しかし、反対方向に進むものがある場合、初めて一方向に進むという現象が認められるのである。



102:考える名無しさん
10/11/13 22:02:46 0
>>98続き
次に反対方向に進むものの他に、停止してるものがある場合も有るだろう。
この場合は、始は両者とも同じ位置にいたのである。ところが一方が右方向に進んだのに、
他方は、左方向に進まなかったというのである。これでは、最初の一方向にものが進んでいる場合に当たるのである。

積み上げるという行為は、つみおろすと言う行為を前提としているのである。
右方向に進むとは左方向に進むということを前提にしてるのである。さもないと、
積み上げるという行為も、右に進むという行為もありえないのだ。

そうすると、時間は過去から現在未来と流れるというが、時間は未来から現在過去へと流れることを
前提にしないと、ありえないということになるのだ。

現実の生活で、その反対方向への時間の流れはどのように人は体験してるのだろうか?それともありえないのだろうか?
体験してる。それは過去へさかのぼる意識によって。むしろこの意識の方が、
現実の生活では大きいのではなかろうか?自動車を見ても、それがどこのメーカーにより作られたのか、と思うとき、
それは過去へさかのぼっているのである。お金を積むという行為は、貯金を崩して消費することを考えているのである。

結論として時間とは、過去と未来とによってある相対的なものなのであるから、
リトマス試験紙の、青い色の所と、白色の所があっても実体としてないように、過去と言う実体と未来と言う実体が
あるのではなく、両者はともにないのであるといわなければならないものなのだ。

ま、定義としては、過去と未来により発生する過去と未来の概念と言うことになるね。


103:考える名無しさん
10/11/13 22:09:23 O
リトマス試験紙も知らねーで書くなよw
全然事実にそぐわないので何が言いたいのかわからんわw

104:考える名無しさん
10/11/13 22:41:52 O
中国の故事成語の矛盾と論理学で言う矛盾は一緒だろ

105:考える名無しさん
10/11/13 23:01:28 0
論理学では二律背反と言うのだろう?

106:考える名無しさん
10/11/13 23:08:41 O
真逆だろ

107:考える名無しさん
10/11/13 23:20:13 0
論理学では真逆とは言わないだろう。w

108:考える名無しさん
10/11/13 23:25:21 O
違うw
矛盾と二律排反が真逆だってことだw
矛盾:A∧¬Aが偽
二律排反:A∧¬Aが真

109:考える名無しさん
10/11/13 23:58:19 0
なんのこと?

110:考える名無しさん
10/11/14 05:26:53 0
[時間」とは、空間における物質ーーー物質なしには、時間はないがーーの
変化・非変化と言う「矛盾」の同時同位置存在。この存在が可能なのが
現在と言う瞬間の「0秒」のみ。

この場合の矛盾は、どうなりますか?

111:考える名無しさん
10/11/14 05:52:34 0
[人が歩いている」そして「ひとが歩いていない」
げんじつには、この二つを同時に行う事は出来ない。
現在と言う瞬間ーー0秒ーーでは、この二つは合一している。

この世は「0秒」の連続。0秒はいくら連続しても0秒。
現象世界では、過去から未来につづく、膨大な長い持続。
本質は現在は、0秒。
現象世界では、変化のみ。非変化は認識されない。
この謎は、「矛盾」でしか説明できない。
現在は「0秒」
0秒には、「ひとが歩く」「ひとが静止」のふたつが同時存在。

112:考える名無しさん
10/11/14 06:00:32 0
数直線上の「0」と「1」は、無限と矛盾の概念無しには、
結びつかない?

113:考える名無しさん
10/11/14 10:03:33 0
>>110
>変化・非変化と言う「矛盾]

まず、この変化、とはどういうもんか?非変化とはどういうものか?
それを説明してクレイ。

次にそれらが矛盾してることを説明して欲しい。

114:考える名無しさん
10/11/14 10:08:12 0
>>110続き
そもそも、変化とは現象のことであろう。非変化とは、変化しないと言う意味だよね?
変化しないものは、何なのか?この現象界に有るものではないことと言うべきものだよね?

と言うと、現象と現象ではないものが矛盾していると言うなら、どう矛盾してるか
主張と説明が要るね?

115:考える名無しさん
10/11/15 08:16:27 0
ここで論じているのは、
空間は、有・無合一体で、それは現在という瞬間「0秒」で成立している。
持続する時間ーー現象世界の時間ーーの中では、「C点」は成立しない。
貴兄の言う「矛盾」だから。

よく検討して下さい。
時空の本質は「無限」で「矛盾」。しかし、現在「0秒」において、「変化・非変化」
は、接続し、現象世界では、変化として流動し、「有限」であり、「矛盾は無い」。

現在は「0秒」である。

116:考える名無しさん
10/11/15 08:41:31 0
>>115
人は、矛盾、妄想、迷い、から開放されるのを希求しているのだ。
それが苦悩からの開放であり、解脱と言うものであり、目覚めると言うことなのだ。

盲人が盲人を導くなら、二人とも穴に落ち込まないだろうか?、落ち込むのである。

このように言う人は、矛盾と言うものを知ってる人であり、解脱と言うものを知ってる人である。
こういう人の言うことをまずは、勉強すべきである。ゴーダマ、老荘、イエスキリスト、パルメにです、等である。

これらの人は、手法こそ表面上異なって見えるが、中味は皆同じことを説いている。

あなたが自説を持つなら、これらの人の説くところと比較してみるべきである。

>時空の本質は「無限」で「矛盾」。しかし、現在「0秒」において、「変化・非変化」
は、接続し、現象世界では、変化として流動し、「有限」であり、「矛盾は無い」。

時空の本質は矛盾してるが、現象世界は矛盾していない、と言う。
先に挙げた知者達は、こうは言っていないのだが。
時空の本質が矛盾してるとはどういう意味か?現象世界が矛盾していないとは
どういう意味なのか?

117:考える名無しさん
10/11/15 09:55:59 0
116さん

貴方は、「刹那滅」論者でしょうか?

118:考える名無しさん
10/11/15 18:32:56 0
>>117
なんか性格がゆがんでいない?

こっちは刹那滅など知らないんだよ。刹那滅をまず教えて。

119:考える名無しさん
10/11/15 22:04:16 0
石や馬が矛盾したことを言っているのではないのだ。
人間なのであり、特定の人間なのだ。その人以外は、
特定の人が言ったことに矛盾を見出して、その論はわからない、と言うのである。

自分が何か論を発する前に、誰も矛盾していると言わない事象を、これは矛盾している
と言うのは、おかしいだろう。

矛盾していないものを矛盾していると言う人は、その人が矛盾していると言うべきだろう?

中国の故事の発生でも、ある商人が矛盾している商品の説明をしたのであった。
それに対して見物人がそれは矛盾しているではないか、と言ったのである。

あなたが自然現象の中の何かが矛盾していると言うのなら、誰かの言論と仮定してでも、
それを提示して、それは矛盾している、と主張すべきであろうよ。

今は誰かが、自然現象のある部分を取り上げて、矛盾の判定の対象となる発言をしていないのである。




120:考える名無しさん
10/11/15 22:24:29 0
>>119続き
なんか俺も混乱したことを言ってしまった。言いなおす。

矛盾とはある人の言論に対して初めて、それは矛盾していると言われるものであること。

自然現象のある部分について、誰かが矛盾した言論をしているのなら、その言論を
提示すべきである。

もの言わない自然現象の部分を、矛盾していると言うなら、その自然現象を擬人化して
、主張したものとして、その主張を提示すべきである。

121:考える名無しさん
10/11/15 22:25:45 0
現実、世界、事象なんて観測者によっていかようにも歪む。
認識した事がその人にとっての真実足り得るのだから

122:考える名無しさん
10/11/15 22:55:37 0

>>99
>C点論では、[無自性」は認めない。総ての現象には、「自性」があり、
[実体」がある。この世は、幻のような、夢のような、蜃気楼のような
[仮」の存在では、無い。

前記のリトマス試験紙の例を持って論じたい。

リトマス試験紙の半分は青色であり、他方は白色である。
白色と青色は密着してるのである。その間に異物はないのである。
この試験紙を振り回すと、青色と白色とは同時に一体として行為する。
決して分離することはない。

もし、青色と白色が別なものなら、青色と白色は別に行為するだろう。

これだけでも、青色と白色は別なものではないと言える。したがって
青色に実体なく、白色に実体がないのである。二つの色は真実には一つなのである。
故に白色、青色はないといわなければならない。

そもそも、ものを分離するということは不可能である。
いかなるものも単独では存在しておらず、必ず囲繞するものがあり、それは密着しているのである。

今仮にぶんりできる若しくは分割できるものとするなら、その両者を分け隔てる別のものが
介在しなければならないことになる。しかし、介在するものと、両者はやはり
密着しているのである。密着しているかがいり、一体として行為するのは必然であろう。
一体として行為するものは、一体なのである。こうしてものは分離分割することはできないのである。

123:考える名無しさん
10/11/15 23:30:48 0
無限分割と言うことを着ているだろう。しかし、無限分割と言うことは不可能である。
 
どうしてであるか?
122でも言ったが、分割と言う現象には、二通りがあった。異物を介在させて分割する方法、
他方は、意識において分割するもので、実際に異物を介在させない方法である。

異物を介在させない方法と言うのは、分割していないのに、分割してると妄想してるだけな場合である。
分割と言うことは、一つのものを異物を持って分割する場合に限られるのである。

異物を介在させないなら、元のままの密着状態を、そのまま維持してるではないか。
どうして分離分割してると言えようか?分離分割していないのに、分離分割してると思うのを、
妄想してるというのである。



124:考える名無しさん
10/11/16 00:51:56 O
だからちゃんとリトマス試験紙をググってから書けって
しかもその論理無茶苦茶だよな?中学生の作文か?

125:考える名無しさん
10/11/16 07:51:42 0

蛇足ですが

私達の感覚器官では、現在という瞬間の「0秒」も、有・無合一体の
C点の「無」も、認識されません。現象は、あるがまま。

126:考える名無しさん
10/11/16 09:56:55 0

詐欺師

独裁者

127:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/17 00:20:58 O
なんで最期に「不死」がくるのかよくわからん>スレタイ

128:考える名無しさん
10/11/17 21:28:22 0
>>127
存在や時間の中に、人間が入ってないなんてことは無い。
存在や時間の真相がわかるなら、人間が一番それを避けられないもの
と考えるだろう。そして、それが人間の死と生を解明するだろう。

そして、古代の知者達は、不生不滅を説いているのであるが、それは
存在と時間の真相を解き明かした結果だと言うのである。

別に不自然なことではないだろう。

129:考える名無しさん
10/11/17 21:42:38 0
つづき

俺がこのスレを立てたものではないが、そうだと思う。

130:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/17 22:49:18 O
「死」ならわかるんだよね

>不生不滅の謎を解き明かした
いや全然解き明かしてないし、そもそも不生不滅て、それは人間の話ですか?
ならまず人間が不生不滅だと証明しないと謎も何もないでしょ

131:考える名無しさん
10/11/17 23:37:39 0
人間以外の動物なんて、それこそ不生不滅を地で行ってる気がする

132:考える名無しさん
10/11/18 05:17:08 0
生まれては死に,死んでは生まれる。輪廻転生のことだろう。
不死とは無理だろう。不死で生だけあるのは、おかしいだろう。
不生もなくては、バランスがとれない。

133:考える名無しさん
10/11/18 08:07:28 0
一切皆苦の娑婆。死も救いだろう。不死は辛い。
輪廻の苦しみから、我らは抜けられないのか。

134:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/18 08:18:59 O
いや生と死があるだけです
輪廻なんて、人間そんなご大層なものじゃありませんよ

135:考える名無しさん
10/11/18 10:28:11 0

死にたい

136:考える名無しさん
10/11/18 14:29:17 0
「無限」の分割について

科学では無限は扱わない。科学の扱う現象世界では、無限・矛盾はない。
それ故、現象を観察し、計測して真理に至る。素粒子が分割の究極で
無限の分割などない。

無限・矛盾は哲学では境界領域で、どこまでも論理的思考が研究の手段。
無限・矛盾は扱うに限度がある。

C点は宗教です。無限・矛盾を真正面から扱います。決め手は「瞑想」に
よります。現在という「0秒」で矛盾が存在可能です。

現在と言う「0秒」が、論の核心です。十分に瞑想して下さい。

以上、蛇足でしたでしょうか?

137:考える名無しさん
10/11/18 14:37:12 0
>>130
>人間が不生不滅だと証明しないと謎も何もないでしょ

「古代の知者達は、不生不滅を説いているのであるが、それは
存在と時間の真相を解き明かした結果」と言っているだろう?

>>131
>人間以外の動物なんて、それこそ不生不滅を地で行ってる気がする

不生不滅とは、未だ過って生じたことがない、と言う意味であり、不滅とは、
未だ過って、滅したものが無いという意味なのだ。

存在するもの一切が不生不滅と言うのである、知者達は。
人間ばかりじゃなく、動物も、無生物もだ。

あなたは人間は不生不滅ではない、と言いながら、動物は不生不滅である、と言っているが、
不生不滅の意味を、または、不生不滅を説いた知者達の説くところを知っているのか?



138:考える名無しさん
10/11/18 14:37:41 0
今一度、書きますが

私達の感覚器官では、現在という瞬間の「0秒」も、有・無合一体のC点
の「無」も、認識出来ません。現象世界は、私達が見るがままです。

139:考える名無しさん
10/11/18 14:38:19 0
>>137続き
理解しないで言ってるんだろう?
だから、古代の知者達は、人間の不生不滅を、存在と時間の実相が何であるか
を証明することによって、証明している、と言っているのだよ。

>>132
>生まれては死に,死んでは生まれる。輪廻転生のことだろう。

不生不滅と言うのが、輪廻転生の意味だと言うのか?
輪廻転生と言うのは、生死を繰り返すと言う意味なのだ。不生不滅とは
生死という輪廻を繰り返さないもの、と言う意味なのだ。真逆だ。

>>133
>一切皆苦の娑婆

一切皆苦であるとして、それからの救いを教えないなら、ゴーダマやイエスや老子荘子
は何の価値がある人であったろう?

これらの知者は一切皆苦からの解脱を説いているのだ。その根拠を説いているのである。

140:考える名無しさん
10/11/18 14:47:44 0
>>138
あなたは、人間はどうしたら幸せになれるというのですか?

141:考える名無しさん
10/11/18 15:02:49 0
仏陀は、「執着」が苦悩の原因と説いている。しかし、この世は、色即是空
「実体」のない、空の世界。実体の無いものに、執着するな。執着を捨てよ
と説いている。この世を捨てることは、大自然と一体化し、「不生不滅」の
悟りに至る。命にも執着しない。

空に生きる高僧も、多い。これには、修行が不可欠。

142:考える名無しさん
10/11/18 15:10:40 0
自ら修行の出来ない「在家」は、神仏に帰依する。
高僧に帰依するものもいるし、宗教団体に加入するものもいる。

しかし、宗教を求めず、「良識」に生きて、幸福を求める者も多い。

143:考える名無しさん
10/11/18 15:12:04 0
>>136
>科学の扱う現象世界では、無限・矛盾はない。

科学こそ、無限分割のもとを設定し、矛盾にいたる問題に直面しているのでありますよ。

>無限・矛盾は哲学では境界領域で、どこまでも論理的思考が研究の手段。

宗教哲学では、無限矛盾は解消しています。

要するところは、哲学宗教は、真理真実を説き、それは
科学的思考の矛盾を解決するものなのです。
科学と言うものは、人間の約束に基づいた理論に基づくものなのです。
人間の約束と言うところに、そもそも真理ではないものが有るのです。
約束に基づく論理は、必然として、矛盾に至るのです。

そこで宗教哲学は、その矛盾、即ち、真理に基づかなくて且つ約束に基づく論理
の誤謬を解明するのです。

C点論は、説明不足を予想させないほどに、ペテン師的であり、独裁的で
食えない料理のようです。

144:考える名無しさん
10/11/18 15:32:04 0
ま、知者達の言うところは、真実は一なるものであり、
それを二分割などできないし、いわんや、無限分割などできないのだと。

分割できると考えるものは、妄想しているに過ぎないんであり、この妄想
こそ、人間の苦悩の元凶であるというものなのです。妄想は
なんでも造られた世界です。優劣を造り、善悪を造り、大小を造り、
要するにこの世の一切を造っているのです。

そして自分が作ったものに執着しているのです。もともとないものに執着してるのですから、
どのような結果も得ることができないのです。

真実は、何もない世界です。これこそ実在する唯一なのです。これに帰依し、
無限のもののいかなるものにも、執着しないことです。これにより
無相、一相、空相、と言う真実の世界に、至る事ができるのです。

145:考える名無しさん
10/11/18 17:35:12 0
参考までに

C点へのアプローチですが、「B面」を念のため検討してください。

    グーグル検索:C点による時空論

146:考える名無しさん
10/11/18 17:41:35 0
>>145
C点論さん、B面を読めということですが、そういうのって、苦痛なんですよ。

それよりもあなたはここで幾らでも論じることができるのですよ。
ここで言いたいことを言った方が、相手にされるのです。

147:考える名無しさん
10/11/18 17:46:24 0

論ずる程ではありませんが、ここでも[矛盾」があります。

ご迷惑をお掛けしました。

148:考える名無しさん
10/11/18 18:19:28 0
>>147
>ここでも[矛盾」があります。



149:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/19 00:37:39 O
>>137
存在と時間を解き明かしたからといって、
なぜ人間の不生不滅が証明されるのですか?
逆に、人間の生と死を証明することは試みなかったのですか

150:考える名無しさん
10/11/19 14:23:07 0
>>149
>存在と時間を解き明かしたからといって、
なぜ人間の不生不滅が証明されるのですか?

人間とは五感と意識の存在といえる。これは肉体に存在する。
この五感と意識が、外界との関係を認識する。肉体がなければ外界との関係は
認識されない。人の人たる所以はこの認識以外ないのである。認識と言うが意識のことである。

そこでこの認識は何なのか、認識の対象は、何なのか?と言うことなのだ。

存在も時間も、この認識の中のものである。
存在と時間は認識の中で最も大きな概念であろう。

この概念が夢幻のような実体のないものであるとするなら、存在と時間と言うものがないのであり、
存在と時間がないなら、人の生じること滅することもまた無いことになる。

で、その論証が成立するかどうか、が宗教哲学で論じられるのである。
そしてその論証が成立していると言うのである。過去の知者達により。

>逆に、人間の生と死を証明することは試みなかったのですか

存在と時間がないことが証明されなく、そして存在と時間が実体として存在してることが
証明されるなら、、人の生死が存在することもまた証明されているのである。
しかし、人間の生死は証明できないのである。


151:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/19 16:00:29 O
>>150
それは逆も当てはまるね
人間(または知的生物)が認識するから存在や時間を確認できるとも
人間は生まれてくるまで、そして死んだ後は、存在も時間も認識はできないよ
自分が存在しない過去や未来の存在は、あくまで推測できるだけ
もちろん人間は一個体しか無いわけではないから、人間という生物が存在する限りは誰かしらが認識するだろうけど、
それで一つの個体の不生不滅が証明できたことにはならないね

152:考える名無しさん
10/11/19 22:34:08 0
>>151
人間に限らず一切のものは、認識と言うことをしてるといわなければならないと思うのだ。
岩石でも、してるんだよ。岩石は、空気に触れて、劣化して崩壊に至るのだが、
この空気に触れて劣化するという変化、これは認識してることではないだろうか?

つまり認識とは何か、と言うと、変化を受け入れるということに他ならないと思うのだ。
人間では、寒風が吹けば、寒くて防寒する行為が必然と起きるのである。寒風が人間を
変化させているのである。そしてこの変化は必然なのであって、意識を使役しているのではない。
そしてこの変化を知っているだけで、それ以上のものではないのだ。

それなら、岩石が風化して崩壊に至るという変化と、どこが違うのか。変化には、岩石であろうと
人間であろうと、従わざるを得ないんだ。岩石がこの変化を認識していないとは言えまいよ。

人原の活動にしても、これは必然性に基づいているといわざるを得ないだろう。必然性にしたがっているなら、
そこには岩石と異なる主体があるわけではないのである。

仏教では、であるから、命なるものは無い、人間なるものはない、と断言するのである。

さて、この必然性と言うものが、縁起の理法なのであるが。「あるものがあるなら、彼がある」、と言う
縁起の理法では、これがあれば、必然として、彼がある、といっているのである。必然と言う句を
省略しているのである。いや、必然とは縁起のことであるといえるのである。また、これを自然といっても良いと思うのだ。

一切は必然であり、縁起であり、自然、ナのである。
そして、これは変化の事を指していることを知らなければならない。


153:考える名無しさん
10/11/19 23:28:26 0
参考スレ

スレリンク(philo板)l50

154:考える名無しさん
10/11/19 23:35:40 0
生死も変化である。生にも死にも主体となるものはないのである。

人間に生死があろうとそんな変化は意味がないのである。変化の無意味を知って

変化に囚われない境地、無の境地こそ、真実の境地なのである。

155:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/20 02:03:56 O
宗教臭くなってきたなあ
認識は変化を受け入れることではないよ
それから岩石が風化したとしても、それは認識による自発的行為ではないね

156:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/20 02:05:16 O
自発的→能動的
の方がいいかな

157:考える名無しさん
10/11/20 05:13:50 0
この世はは、空の世界、仮の世界、移り変わり、とどまることはない。

諸行無常、執着すべきものはない。

拘りのあるときは、般若心経がよい。拘りも、矛盾も、すべて飲み込んでくれる。

色即是空  空即是色

158:考える名無しさん
10/11/20 05:23:31 0
B面について

空間に物質Aを考えると、空間は2つに分割される。
Aなる空間とAにあらざる非Aなる空間である。

AはAである。
非Aは非Aである。
Aは非Aではない。
非AはAではない。

159:考える名無しさん
10/11/20 05:28:04 0

Aと非Aは分離されていなくてはならない。

分離するものが無いと、Aと非Aは混合してしまう。
よって、分離するものは、存在する。

160:考える名無しさん
10/11/20 05:34:09 0

分離するものは、
Aであり、同時に非Aである。
また、
Aに非ず、同時に非Aにあらざるものである。

これは物質Aを取り巻く、「厚さの無い」面しか無い。

これを、「B面」とする。

161:考える名無しさん
10/11/20 05:41:43 0

[B面」は、有と無との同時同位置存在である。
瞑想して下さい。

「B面」は、表であり、同時に裏である。

私達の感覚器官では、「B面」の無は認識出来ない。
「B面」により、私達の現象世界は、なんら変らない。

162:考える名無しさん
10/11/20 05:47:05 0

瞑想して下さい。

物質Aを「無限」に分割してください。

分割の究極には、「C点」があります。
「B面」と「C点」は、合一します。
瞑想して下さい。

163:考える名無しさん
10/11/20 05:51:19 0

「B面」も「C点」も、宗教的存在。
科学、哲学には、馴染まないかも、知れません。

164:考える名無しさん
10/11/20 05:57:00 0

最期に

C点論で、仏教の生命「慈悲」を論ずるのは、荷が重い。C点論には、
そこまでの力は、ありません。

徳の高い名僧に、これらはお願いするしか、ありません。

165:考える名無しさん
10/11/20 12:24:42 0
>>155
>自発的行為

? そんなものはないと思うよ。

自分と言う主体(我)があると思っていると、それを満足させるような行為を
しないと満足しないのであろう。ところがその主体なるものは、自分を囲にょうするものと相対的に存在するもの
故、決して主体性を持ち得ないのである。

何故に我と言う主体性があると誤って考えるのであろうか?
人間の我ばかりじゃなく一切には我と言うものがないのであるから、
そうすると、我があると思っている人は、その我と、我でないものとの相対性
を認識しなければならなくなる。

と言うことは、真実在ではない変化があるから、無相と言う真実
在に至ることができたのであるが、もし仮に真実在ではない変化がなければ
、決して無相と言う真実在と言うものは認められなかったのである。

悲喜と言う変化がなかったならば、常住のニルバーナと言うものは説かれなかったのである。

166:考える名無しさん
10/11/20 12:38:27 0
能動する我は、妄想である。妄想と現実は相対する。現実と真実在は相対する。
このことを唯識派が、以下wiki より、言うところであると思う。

 三性 [編集]
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
依他起性(えたきしょう)  相対的存在、他に依存する存在
円成実性(えんじょうじっしょう)  絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。

遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。

舎利弗、仏に言(ことば)を白(もう)せり。
「世尊。諸法の実相、云何(いかん)が有なるや」
仏言わく。
「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。是の事を知らざるを名づけて無明と為す」

– 摩訶般若波羅蜜経相行品第十



167:考える名無しさん
10/11/20 13:15:05 0
>>164
>C点論で、仏教の生命「慈悲」を論ずるのは、荷が重い。C点論には、
そこまでの力は、ありません

愛とか慈悲とか言うが、これは誤解を招きやすい。
白馬の王子様が迎えに来てくれるとか、仏が迎えに来てくれる、または、
仏が苦しんでいるとき、助けに来てくれる、と言う考えは間違いである。

仏はたんに、道を示すだけである。さもなくて、仏にお膳立てをしてもらって
ニルバーナに至ったとして、それでその人の自尊心は満たされないだろう。

慈悲とか愛とか言うのなら、この教えの言葉、これでなければならない。

心身障害者と健常者の場合を考えてみよう。
この世間の成功を求めるのなら、心身障害者は絶対に不利である。

ところが、仏の世界ニルバーナへの道は、この世間の成功への道と
真逆方向なのである。

この世間の成功への道は、有無の世界である。ニルバーナへの道は無の世界へのみちなんだ。
健常者と心身障害者の違いが、何の価値が有るもんであろう?

仏は、心身障害者に、健常者と同じメリットを与えるのを、仏の慈悲愛と言うのではないのか?
それは有りえない。

168:考える名無しさん
10/11/20 14:44:30 0
>>163
C点やB面は妄想である。
瞑想せよとは妄想せよ、と言うことである。

妄想とは現実と相対するもので、妄想のほうに執着することを
、瞑想せよと、言っているのである。これであるなら、妄想と
現実は常に、相争うであろう。

C点は無限分割した極微だというのであるが、極微が無であるとはこれも妄想である。
B面が体積を持たないが、あるものと瞑想せよ、と言うのも、妄想である。

妄想とはありえないものをあるものと思うことを言うのだ。瞑想とは真実を思うことである。
これでは真逆であり、言葉により、人を騙しているのである。

妄想とは誤った認識である。

精神と肉体とか、精神と物質とか言われる。これらは二つの実体なのか?

こういうことが考えられる。ある人は、物質を観察して、相対的に存在してることを
認め、実体がないと判断し、自分と物質を観察し、自分の感覚器官が感覚したものと
当の物質を観察し、相対的に存在してる今年、実体がないと判断しする。かくして
この人は、一切は相対的に存在し、一切は実体がない、と結論する。

一方ある人は、五感と第六の識が自分で有ることを前提に、五感と第六の識は
これを認識であるとして、一切は認識であるとし、認識の対象はすべて縁起の理法に
支配されている。であるから、一切には実体がないと判断する。

どちらも縁起と言う理法が支配しているのであり、これなくしては両者の論はないのである。
それゆえ、結果も同じ無相と言うのである。

妄想も縁起の理法に従っている。故に、妄想も実体がない。

169:考える名無しさん
10/11/20 15:20:34 0

認識対象には、実体が無い。無自性である。

ゆえに、認識対象は存在しない。無である。

したがって、認識主体も存在しない。無である。

よって、認識行為も存在しない。無である。

最期は、総てが存在しない。無である。

空の世界のみが、真実在。他は、すべて妄想。

170:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/20 18:41:28 O
>>165
満足・不満足は、相対的に得る人たちと絶対的に得る人たちがいると思うな
もし世界に自分一人しか人間が存在しなかったら、その人はどうする/どうなると思う?

171:考える名無しさん
10/11/20 21:58:43 0
オカルトは嫌いである。霊魂とか。くだらないのである。
霊魂とはなんなのか。それが実在するならなぜ実世界と干渉しないのか。
「嘘」だからだ。霊魂など無い。死の後には何も無い。だが、その意見には
厳密には反対だ。死の世界はある。ただ、それは「死の世界」だから
知覚出来ない。それだけだ。悪魔もいる。悪魔はいわゆる悪魔ではない。
「そういう」悪魔には何の力も無い。当たり前である。悪魔は現世に干渉
するから恐ろしいのだ。

172:考える名無しさん
10/11/20 22:31:54 0
>>170
>満足・不満足は、相対的に得る人たちと絶対的に得る人たちがいると思うな

満足とは?不満足とは?相対的にうる人とは?絶対的に得る人とは?
詳しく説明してくれ。

>もし世界に自分一人しか人間が存在しなかったら、その人はどうする/どうなると思う?

人間とは?と聞きたい所だが、

要するにその人は自分が人間であるとは思わないだろう。外界との関係がないのだから。
いや人間は自分ひとりだとしても、その他の動物自然は依然としてあるのかい?
その場合は人間であることは意識するだろう。しかし、その人が縁起の理法を
知っているなら、自分もその他の世界も、意識しないでいるほうを選択するだろう。
一切の縁起している現象を意識しないようになることを、解脱するというのだと思う。

173:考える名無しさん
10/11/20 23:03:24 0
>>171
>死の世界はある。ただ、それは「死の世界」だから
知覚出来ない。

生と死も縁起である。生死は相対的に存在している。今生きていると思っている人は
死をも同時に思っている人なのだ。時間に注目して、生は過去であり未来の死までの時間であるとし、
死は、未来の一時点から以降の未来であるとしている場合、時間の概念の説明でしたように、
時間とは過去と未来が相対的に存在していることの名称であるといったが、生の時間死の時間といっても、
結局生死を共に生きていることに他ならない。そこで彼が生死は共に無いものと悟るなら、生死から開放されるだろう。

一方生を生きているとし、死を後のことだと思っている人、、こういう人のことを
生に執着している人と言うべきで、常に死の恐怖を味わうことになろう
。こういうい人が死の為の準備をするのである。こういう人は生死に共に執着している人と言うべきであろう。
そして生死のある世界から脱することがないであろう。

このように死の世界があると思う人と、死の世界も性の世界もあると思わない人がいるのである。




174:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 01:27:53 O
>>172
満足とは精神的充足
不満足とは…そうだなあ、満たされない思い、何かが欠如していることによる不快

周囲の人と比較し、自分が上位にあることを確認して満足する人たちが相対的に満足を得る人たち
この人たちの場合、
何を得れば満足するかその対象は付随的なもので、
「自分が周囲より上位にあること」が満足の本質

でも、そうじゃない人たちもいるってこと

175:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 02:10:35 O
死の世界なんてあるなら死に意味が無くなるじゃないの

176:考える名無しさん
10/11/21 08:04:06 0
この世に、現象「甲」がある。

甲は存在しない。

非甲も存在しない。

甲であり非甲であるものも、存在しない。

甲でなく非甲でないものも、存在しない。

総てが、存在しない。甲は「縁起」により生起されているから。

177:考える名無しさん
10/11/21 10:31:24 0
>>175
>死の世界なんてあるなら死に意味が無くなるじゃないの





178:考える名無しさん
10/11/21 17:07:15 0
>>175
実際簡単に生死の相対性を言ったと思う。

まず生もなく死もないというなら、それは、一相と言う真実に合致していることになる。
しかし、こういう論法は帰納的ではない。生もなく死もないならば、と仮定しているだけだからだ。

そこで厳密に考察してみる必要があろう。

死というものの実体があるかどうか、生の実体があるかどうか、である。

死人と生きてる人と言うとき、死人とは肉体が機能しなくて速かれ腐敗し土に帰る予定のもの、
生きてる人とは、肉体が機能し未だ腐敗し土に帰ることの予想ができない人、というのが
誰でも認める概念であろう。

何だ、これでは死と生とは、生物と無生物の概念ではないか。

そして、無生物には天空と大地があるのだ。生物とは、天空と大地により
その肉体を維持しているものである。

そうすると、生きてる人間は、死んでる人間即ち天空と大地と相対してるといわなければならない。
天空と大地があるから、生物として存在できるのだから。つまり死があるから生があるといわなければならないだろう。



179:考える名無しさん
10/11/21 17:08:08 0
>>178続き
しかし、生物がいるから、天空と大地があるのだ、といえるだろうか?
天空と大地には、生物の存在が必須、必然、縁起してるだろうか、と言うことである。

言わなければならない。天空台地は、静なるものであり、生物とは動なるものである。
静なるものは、動なるものに依存している。これらは相互に依存している。
静がなければ動はなく、動がなければ静がないのであるから。

(言葉と言うものが共通概念であるので、依存関係を考究するときは、言葉に依存しているのである。
そして、言葉と言うものは、必ず依存関係を決するものであるのだ。例えば、天と言うときは
、その下の大地を前提にしているのである。)

生とは死に依存し、死は生に依存している、のである。死とは、大地天空と言う静なるものに変化し、
生と依存関係に、移行することなのである。


180:考える名無しさん
10/11/21 17:15:20 0
この前ズリダチとタイマン勝負したことを書くぜ。
互いに六尺姿でまずは威嚇、腕組みヤニ咥えガン飛ばし、
大股で筋肉と勃起誇張して、野郎比べだ。
雄臭ぇポーズで挑発しあう。腰突き出し勃起を振り回し、
オラオラ節で興奮に火が付く。
やわらオイルをタップリ仕込んで、いよいよズリ戦開始だ。
胴ズリ、逆ズリ、雁ズリ、玉ズリ、上ズリ、下ズリ。
野郎うなぎ責め、腰砕けの手マンコ、野郎泣かせの亀頭責め。
片手技と両手技の競り合いで、雄の粋と艶を比べ合う。
ズリ見せ根性丸出しでな。
一息入れる時にゃ、奴の胸板めがけて、勃起ションベン。
ビシバシ痛ぇくらいに、照射すりゃ、雄の征服感が全身を
快感となって駆け回る。
さらにオイルを仕込んで2R。
今度は俺のズリビデオ見せながらのダブルズリ攻撃さ。
ラッシュ飛ばして、ド淫乱野郎に変獣し、チンポ・センズリ・押忍の連呼。
俺達はまさに、チンポ、ズリ、男意気を激しく比べ合う戦闘士だ。
寸止めのエロい表情も相手を落とす神技、何度も食らう度に金玉の
引きつる痛みさえ新たな快感に変わる。
その時、ほんの少しの気の緩みで奴は快感のコントロールを失い
射精の痙攣に突入。
2回に渡るファイトはいずれも俺の勝利、最後は奴のチンポめがけて、
野郎征服の快感に酔いながら勝利の照射!
3時間勝負は俺達ズリ舎弟の絆を更に固めたぜ!

181:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 20:28:17 O
>>178
生と死は相対的なものでは無いよ

182:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 20:31:13 O
死の世界があるとするなら、そこにいる人たちは生の世界で死んだ人たちってことになるでしょ
そう考えるとウンザリするね
冗談じゃないわ

183:考える名無しさん
10/11/21 20:39:16 0
>>178続き
したがって、死とは何もないものなどと言うあやふやな概念ではない。
死とは、静なるものになることであり、天空大地になることで、天空大地が
ある限り、人は死んで静なる天空大地になる、と考えているものといわなければらない。

次に妄想と簡単に言ったが、これももっと考究してみなければならない。

縁起現象のうちのあるものを取り出して、それをあるものと思うことを執着と言う。
縁起してるものは、他のものと相対的に存在するのだから、それを取り出すということは、
囲繞する一切のものを取り出し、一切のものとは、この世界全体を取り出すことになる。
しかし、相はならない。現実とは縁起現象そのものである。それに反対して
自分だけの世界を作り出すのである。これが妄想の世界である。

妄想の世界は、あるものの有を根拠にする。この有を根拠にするから、それから縁起するものはすべて
有と見做す。不利なもの、悪いもの、をあると見做すのである。善と悪が実体として
存在すると見做すのである。であるから、常に戦いがある。決して悪を降伏させることができない。

C点論者の説を妄想であるといった。B面とC点は体積がないという。それを妄想せよと
しか解釈できないのである。

そもそもAと非Aとの間にはB面を妄想できないのは、Aと非Aとは
一つに密着していて、密着するとは一つのものを意味しているのだ。
一つのものを分割することを要求してるわけだが、それの目的もない。
煮ても焼いても食えない論ではないかいな~。

縁起してるものは、変化していないという理法があるのだ。




184:考える名無しさん
10/11/21 20:49:16 0
>>178続き
C点論者の、Aと非Aとは、B面C点がどうなろうとも、厳然と始から存在しているのである。
それも一体のものとして。一体のものゆえに、エーと非Aと言う区別もできないのである。

185:考える名無しさん
10/11/21 21:39:37 0
善と悪が相対的であるから、いったいであり、一体であるがゆえに、善も悪もない、
とはどういうことか?

相対的な存在が一体であるとはどういうことなのか?と言うことなのだ。
そこで、この説明を試みるのに、Aと非Aを用いるのは便利である。

前記では、Aと非Aとは密着しているから、一体であり、Aでもなく
非Aでもないといった。

Aの体積は密着から成り立っているのだ。非Aとの関係も密着なのである。何で前の密着と後の密着が
異なると言わなければならないだろうか?

もし密着していないなら、Aと非Aとは別々に行為するはずである。しかし、Aを
回転させても、非Aとは密着して、一体として行為してるのである。つまり、離す事ができないのである。

善なる行為と悪なる行為はどうして密着してると言えるのだろうか?
善とは楽をもたらす行為である。悪とは苦しみをもたらす行為である。
楽をもたらすためには、その時に苦しみがなければならないだろう。
苦しみから楽に移行させるのである。そして、苦楽は一人の人にあるのである。
一人の人の心の起きる変化なのである。ひとつの空間の内部で起きる変化なのである。
Aと非Aが密着していたのと同様に密着しているといわなければならないだろう。

186:考える名無しさん
10/11/21 21:40:52 0
>>181
でも反論できていないねw。。

187:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 22:24:13 O
>>186はいはい
生を「産まれてくること」と定義するか「生きていること」と定義するかの違いなの
わたしは後者、生死相対論の人は前者

188:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 22:28:40 O
で、死は単に「生きていること」と「生きていることによって得たもの&得る可能性」の喪失という現象でしかないの
「生」「死」二つの持つ意味と、そこに含まれる可能性は、およそ比較にもならないね

189:トーヘンボク
10/11/21 22:35:37 0
>>180
うむ。詩魂があってよろしい。


190:考える名無しさん
10/11/21 23:37:33 0
>>187
>生を「産まれてくること」と定義するか「生きていること」と定義するかの違いなの

生まれてくるとは、静と言う死から動と言う生に変化することと考えるのである。
これは時間的な流れと見るが、人間の心にはもともと、動と静という概念が備わっており
右から左に移行するようなものなのである。

>>188
>「生」「死」二つの持つ意味と、そこに含まれる可能性は、およそ比較にもならないね

生に於いて得られるものは、死と言う静と縁起しているもなのである。


191:蝙蝠ちゃん出没中 ◆cWvjrxBVRg
10/11/21 23:45:21 O
静なんて存在しない
あり続けるか、無くなるかだもの
無だからこそ、有るものに影響することはないんだよ

192:考える名無しさん
10/11/22 04:10:54 0

C点論です。

ここでは、中観派や中論の人達が、中心のようです。論が熱し一法的になりがちの
ようです。

総ては、現象は「無自性」で自性は確立出来ない。これらは「縁起」により「因縁」
の複雑な関係よりなり、『空相」で実体が無い。よってこの世は、『無」の世界、[空」
の世界である。議論はパターン化して、反するものは「妄想」というようです。

科学でなくとも、哲学でも、宗教でも、[真理」を求める[疑問をもつ、謙虚」な心は
必要ではないでしょうか?  「無記」にも目を向けるゆとりが欲しいもの。
C点論は、思考の究極に挑戦した、試論。ゆとりを持って見て下さい。

193:考える名無しさん
10/11/22 04:27:37 0
[無自性」は存在しません

この現象世界が、存在しないと信じている方は、読まないで下さい。
この現象世界は、時間的にも空間的にも「一つ」しか有りません。
宇宙の歴史も、人類の歴史も、ただ[一つ」しかありません。

総ての物質は、空間もそうですが、時間的にも空間的にも、宇宙で只一つの
「唯一絶対」の存在です。一つ一つ[定義」はされませんが、だからと言って
「無自性」では、ありません。それぞれ「責任」ある、確固たる[実体
 のある
「自性」ある存在です。

野の花の1本もそうであります。
野の

194:考える名無しさん
10/11/22 04:36:28 0

C点論では、現象は有・無合一体ですが「実体」があります。
無の世界、空の世界、と言わなくとも、この世はC点として、[無」を
含んだ世界です。

ただ前にも書きましたが、私達の感覚器官では、「無」は「認識されない」ので
この現実世界のあるが、ままであります。

195:考える名無しさん
10/11/22 04:50:17 0

この世は、夢のような、幻のような、蜃気楼のような、「仮」の世界では
ありません。私達は、実体有る世界で、「責任」ある生活をしています。
実体が無いからと、許される場はありません。

この世は「諸行無常」です。それは、この世が空だからでは無く、実体ある
[現実」が移り変わるからで、あります。

「一切皆苦」と言うほどではなく、科学の進歩により、生活もすこしづつ楽に
なりました。[良識」を持ち、「幸福」を求める者も、増えました。
私達は、[実体」ある世界にいます。

196:考える名無しさん
10/11/22 05:00:09 O
色は空に異ならないから空はちゃんとした色、現実のことやきに

197:考える名無しさん
10/11/22 16:23:29 0
>>196
この色をどういうものと解釈してるの?

色形をどのように解釈すべき?

現象としての、形や色の違いをどのように解釈してるのだろう、この経典は?

アテクシは、色形とは、縁起している存在、と解するのだけど、どうかな?

つまり、空とは縁起であり、縁起とは空である、と言っているんではないか、と思うが。

さもなくて、青色が空であると言うのなら、頓珍漢で判らないね?また、三角形が

空であるというのも、頓珍漢だよね?そして空というのが真理であるとして、青色が真理真実

である、実在しているって、それって何なんだ?と言うことになると思うのだが。

また、三角形が真理真実であると言うことになるが、そして、真理真実とは

絶対的存在であり、二つとしてないものと言うのが定説だと思うけど、何故三角形が

真理真実であっって、四角形や円は真理真実ではないのだろう?皆真理真実であると言うなら、

真理真実は無数にあるといわなければならないが、それであは真理真実は絶対的な存在である、

とは言えなくなるのではないだろうか?

198:考える名無しさん
10/11/22 16:36:21 0
般若心経に「縁起」と言う理法がないなら、般若信教は欠陥がある経典である、とうべきではないだろうか?

縁起を言う語句はないですか?

199:考える名無しさん
10/11/23 09:06:13 0
ピント外れですが

ビッグバンが、[1点」より生じたとすると、そのエネルギーは、「無限大」
とか、C点は超超超高密度の無限大も可能かも?

200:考える名無しさん
10/11/23 10:44:19 0
無限大というのがどうしても考えられません。
死は無限大の門に入っていくことなのか。

201:考える名無しさん
10/11/23 11:04:08 0
>>199
C点の瞑想などと言うが、そのためには、Aと非Aとの存在はどうなるのか?

Aと非Aの存在がありながら、若しくは、Aと非Aの存在を認めながら

C点の瞑想などできるわけないだろう?

202:考える名無しさん
10/11/23 16:29:34 0
分割とは、大小の関係である。大小の縁起関係を考究してみる必要があろう。



203:考える名無しさん
10/11/23 23:06:52 0
>>202
大小は結局有無の相対性である。

大の内の大の差の部分だけ、小よりも、有ると言うことなのだから。
そして小の内の差の部分だけ、大よりも無いと言うことなのだ。表現が上手ではないが、
考えれば判るだろう。

大と小の差額だけ、有るものと、無いものがあるのである。

この有は、無有っての有である。反対に、この無は、有あっての無である。
つまり相対的存在である。

相対的存在は必ず、隣接及び密接していなければならない。であればその間に
何か異なるものにより分割されていない。つまりこの有無は一体である。一体である以上
一つである。一つであることが判れば、相対する変化は幻である。

有であるものと無であるものとが、なにか第三者を介在して存在してる場合を考えるであろう。
であるから、相対的存在であると言いながら、二つのものが、離れて存在してる場合もあるのではないか、と考えるのである。
必ずしも隣接密着している必要が無いのでは、と言うことである。

第三者を介在している場合は、間接的に密着していることになるが、それでは
相対とはいえない。相対とは、時間的に空間的に同時に生じるものなんである。

そして、この相対的存在と言うものは、我々の共通概念と言う認識世界に起きることである。
換言すると、言葉と言う概念に基づく世界におきることなのである。
言葉と言う概念の存在のあり方、と言っても良いかも。

204:考える名無しさん
10/11/24 14:50:52 0
新HPのご案内

      C点論における矛盾と無限

まだネットには流れていません。グーグル検索「C点による時空論」で、
関連サイトをクリックして下さい。読むことが出来ます。

205:考える名無しさん
10/11/24 16:56:09 0
>色即是空  空即是色
の意味。

解釈A
色というのは物質をあらわしている。
全ての物には色があるから。
そして、色というのは波動の周波数の違いによって生じる。
物理学では、物質のもとを分子、原子、素粒子と突き詰めていくと、結局は「波動、空間の振動」
になってしまう。
だから、「物質(色)は波動、空間(の振動)から生じている」という意味だと解釈できる。

解釈B
「色」を「色づけ、カラーリング、物事を歪めて考えること」と考えると。
「物事を色づけして、歪めて考えることは空しい」
「真実をまっすぐに見つめて考えなさい」
と解釈できる。

206:考える名無しさん
10/11/24 23:32:32 0
>>205
それではあまりにも仏教を理解しないものの言うことだと思う。
仏教の縁起と空の理法は、正法とも言い、これが根幹なのだ。

C点論は日蓮の理解に等しいんでは?共に正法を認めないものだと思うが。

>>204
残念ながら、色即是空をそんな風に解釈しているものが、仏教に近似してることさえ
言わないと思われる。
読む気がしないのだ。
言いたいのなら、ここで言ったらよい。

207:考える名無しさん
10/11/25 19:51:24 0
>>204
なC点論における矛盾と無限 を読んでみましたが、変わり映えしないと思いました。

なんか縁起と空の理法を反転させたような論、のような。

208:考える名無しさん
10/11/25 20:00:52 0
以下は荘子の斉物論、これはゴーダマの論と同じなのです。

〔万物斉同〕すべてのものは、彼れと呼びえないものはなく、是れと呼びえないものはない。
それなのに、なぜ離れているものを彼れと呼び、近いものだけを是れと呼ぶか。
離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。
だから、身に近いものを是れと呼んで親しみ、遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。
だから、次のように言える。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、
是れという概念は、彼れという対立者をもとにして生じたものである。つまり、彼れと是れというのは、
相並んで生ずるということであり、互いに依存しあっているのである。しかしながら、
このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生と並んで死があり、
死と並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是に並んで非があり、
非に並んで是がある。すべてが相対的なものにすぎず、絶対的なものではない。
だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、
これを差別という人為を超えた自然の立場からものを眺めるのである。
このような聖人は、是非の対立を超えた、真の是に身を置くものといえよう。


209:考える名無しさん
10/11/25 20:02:36 0
>>208続き
 もしこのような自然の立場、相対差別という人為を超えた立場から見れば、是れと彼れとの区別はなく、
彼れと是れは同じものになる。たとえ是非を立てる者があったとしても、彼れは彼れの立場をもととした是非を立てているにすぎず、
是れの是れの立場をもととした是非を立てているにすぎない。それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、
それとも、彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。このように、彼れと是れとが、
その対立を消失する境地を、道枢という。枢―扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、
はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転を続け、
非もまた無限の回転を続けることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。
だから、「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」というのである。

210:考える名無しさん
10/11/25 20:16:36 0
現代語訳
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。
これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。
天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。
だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。
欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。
この両者の根源は同じ一つの物であるのに、それぞれ別の名を持っている。
その根源を「玄 - 深遠なる神秘」と私は名づけたが、
その玄のさらに玄からこの世の全ては生み出されている。

・・・・・・
アテクシの論評

>これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。

これは「道」を「有」に置き換えてそのまま通用する。
これが「有」だと言い表せるような「有」は、偉大な不朽の「有」ではない。
この「有」とは「無」と相対的に存在する「有」だからである。

まことの「有」とは絶対的に存在するものだからである。

211:考える名無しさん
10/11/25 20:20:54 0
以下は老子「道徳経」第二章

現代語訳
世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、
これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、
これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。
だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。
この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分の物とせず、
何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、
それらが離れる事は無いのだ。



212:考える名無しさん
10/11/25 20:22:32 0
老子の道徳経の元は以下のサイトから、

URLリンク(www.chonmage-eigojuku.com)

213:考える名無しさん
10/11/25 20:27:48 0
>>210は老子「道徳経」第一章。

失礼しました。

214:考える名無しさん
10/11/26 16:11:48 0
C点論者さんの言う「矛盾」について、C点論者さん自身が自家撞着してるのでは無いだろうか?
矛盾とは、ある人が一貫性の無いこと、先に言うところと後に言うところが相反しているとか、
言ってるところと、実際に実行してるところが、相反してる場合、その人の言動は、
「矛盾」してると言うのであり、実際の現象を見て、それは矛盾してるとは、
言わないのである。また、現実に起きている現象が矛盾してるとは、決して
許されないことなのである。

今まで盛んに、現象は相対的に存在してると言い、それに基づいて、現象とは何か、
その実相はあるのか、などについて考究してきたのであり、それを哲学宗教
科学と言う面から、色分けしてきているのである。このスレにおいても、学会においても
相であったろう。

そこで思うのであるが、C点論者さんが、矛盾と言うのは、現象が相対的に存在してる
と言われる説の、その相対性を、矛盾といっているのではないのか、と疑うのである。

相対してるとは、Aと非Aの関係である。Aがあるから、非Aがある、Aがなければ非Aが無い、と言う
相互依存性のことである。



215:考える名無しさん
10/11/26 16:13:12 0
>>214続き
C点論者さんに、誰かが、Aと非Aの関係にある現象を、Aも非Aも実体としてあると言うとき、
C点論者さんが、それは矛盾してる、と言うのなら、C点論者さんは、正しい反応をしてる、
つまりその反応自体を、おかしいとは言わない。むしろおかしいと言う人のほうが、おかしいのである。

しかし、誰も、Aと非Aについて何も言わないのに、Aと非Aは矛盾してると言うなら、
それはあなた自身が、Aと非Aを見て、これらは二つあるが、二つあると言うのはおかしい、
二つあると言うのは矛盾してる、と、もう一人の自分を想定し、その自分と対話してるのである。

また、世間で、二つのものがあると言う見解を、暗黙に想定し、それに基づいて
勝手にまたは安易に、自分の論を展開してるのである。

いずれにしても、あなたは、他者に対して、Aと非Aは矛盾した存在である
教えることは、思想良心の自由を侵害する許されざる行為である。



216:考える名無しさん
10/11/26 16:22:36 0

>>214続き
>いずれにしても、あなたは、他者に対して、Aと非Aは矛盾した存在である
教えることは、思想良心の自由を侵害する許されざる行為である。

思想良心の自由を侵害するといったが、それは不法行為であるというよりも、
誤謬の教えであるというに留まるだろう。無理強いするなら不法行為になる。

217:考える名無しさん
10/11/26 20:43:57 O
>実際の現象を見て、それは矛盾しているとは、言わないのである
言うよw
現象が真実で、理論的な説明に限界がある場合
無理矢理でも理屈をつけないと解釈しようがない現象なんて山ほどある

218:考える名無しさん
10/11/26 22:34:47 0
>>217
であるとすると、一切は空である。故に、安楽である。衆生は地獄に落ちていると思って騒いでいても、
自分は安楽国にいる、と言う聖者の言葉は無いはずである。

更に、聖者は、一切に悪を見ない、といってる。聖者とはゴーダマである。

要するに悪も善も縁起しているものなのだ、と言うのである。悪と善の混じった
この世間から離脱している聖者なのである。

>無理矢理でも理屈をつけないと解釈しようがない現象なんて山ほどある

しかし、一例でも挙げてみてくれ。誰かの見識によるものの場合は、
その人の見識が矛盾しているのであり、その矛盾に自分もかぶれている場合は、
同じように、自分も矛盾しているのであろう。

219:考える名無しさん
10/11/26 23:43:36 O
・連続的確率分布におけるある一点の生起確率
・シュレーディンガーの猫
・トンネル効果におけるポテンシャル問題
など
確率が絡む問題は大抵理論的なこじつけが必要になる

220:考える名無しさん
10/11/27 05:00:10 0
C点論から

学問的に、論理学をC点論は、論じている訳では、ありません。

[C点」というものーー無限に小さい[有」と無限に大きい「無」の同時同位置
存在、有・無合一体ーーが、現在という瞬間「0秒」においてのみ、存在可能
である。

このことの説明が、C点論です。[無限」[矛盾」の言葉は、使用が不適切であったかも
知れませんが、ご容赦願います。

真理の為、皆様がんばりましょう。[C点による時空論」検索の上、関連サイトより
「C点論における矛盾と無限」をクリックして参考にして下さい。

221:考える名無しさん
10/11/27 06:03:09 O
ワンクリック詐欺キター

222:考える名無しさん
10/11/27 10:07:38 0
>>220
>C点論における矛盾と無限」をクリックして参考にして下さい。

これなら良いじゃまいか?

ところで、あなたは、無限とは一相とか無相とか言うことになるその根拠を説明できまっか?

223:考える名無しさん
10/11/27 10:30:38 0
終わらない議論 溜め息のダンス 煮立てるスープは 弱火でどうぞ 

224:考える名無しさん
10/11/27 12:01:21 0
お前らもう少し読む気になる文章書こうな

225:考える名無しさん
10/11/27 13:11:47 0
>>219
>・シュレーディンガーの猫

初耳の事項ばかり、ウィキのアドレスでもあると、共通項を持ったことになって、
主張も共有できたものを、今後は主張を引用する方法によるなりしても良いから
、出した方が良い。
 ウィキを採用して話そう。

数を基にする人間の活動と言うものは、人間同士の契約に基づくものと言うべきなのだ。

契約とは数が契約なのだ。数は存在を言う契約である。数がこういうものである限り
数に基づく活動は、最初の契約に束縛されるのである。

一つと数えるが、どういう存在を一つとするか、それが契約なのだ。
大地にある固体を基とするのである。空気を度外視する契約なのだ。

小さい概念から大きな概念へと発展している、その契約は。

要するに数の認識は、存在、時間の認識であり、その認識は共通の概念の確認であり、
その様なものとする、必然な契約である。

それは実際生活上の要請を満たすものであることが、必要条件であったのである。

それは真理真実であると言うことではないのである。真理真実の存在、時間と言うのは、
契約した時間、存在とは一致しないのである。


226:考える名無しさん
10/11/27 13:23:55 O
>>225
最後の段落の証明お願い
できれば背理法で

227:考える名無しさん
10/11/27 13:47:52 0
>>219 つづき
猫、猫の人間、これらの関係、その他一切の関係、これらの関係なしに、真理真実の
存在、時間を考究でいないのである。

この点を考えたのがエベレットであった。そして彼は

エヴェレット自身はその論文中[1]でエヴェレットが提唱した理論は決定論的であると述べている。ただし前述のようにエヴェレット自身は多世界という言葉を用いておらず、
多世界という時に想定される単一の世界を相対状態(relative state)と呼んでいる。真に実在しているのは波動関数その物であり、
多世界解釈という時、単一世界と見做されるものは(どのバージョンの私を観測者に置くかに依存する)
相対状態にすぎない。波動関数は決定的と述べているのである。[2]
__________wiki

さて契約上の存在と時間は、仮のもの、つまり契約上のものであったが、ここにおける存在と時間の認識は、必然として、まことの真理真実の制約を受けないわけには行かないものであった。
それは、縁起の理法をと言うものの制約であった。

人間は存在と時間に命名したのである。しかしその命名は、概念に命名するものであり、
概念は必然として、相対的に存在してることになったからである。例えば、天と言う時は
,地を前提とせざるを得なかったのである。個物を一と命名するときは、2、3、4・・・無限 
を前提せざるをなかったのである。


228:考える名無しさん
10/11/27 14:30:38 O
話が飛びすぎ
1、2、3...という数え上げから必然的に無限が命名されたとしたら無限は何番目の数よ?

229:考える名無しさん
10/11/27 19:11:36 0
>>288
概念とはその字の意味するようなものなのだ。概とは「おおよその」と言う意味だろう。
だから中心と辺縁があるものなのだ。こういう概念は、そのほかのものを必然と必要するのである。

概念には、名詞となるもの、形容詞となるもの、動詞となるものなどがある。
すべて相対的に存在するしか、ありえようが無いのである。

太陽とは、その他のものから区別するために、つけた名前である。その他のものとは
太陽を囲繞する暗黒、星星を指す。
 
速い遅い、大きい小さい、などの形容詞も、同じく相対的にのみ存在するものである。
動詞副詞助詞なども同じであると思う。

一つとは、個物に名づけられた代名詞であるが、その一つの命名は、
たくさんあるもの(少なくとも複数)と言う前提が必要である。
その時、数えられないものがあると言うことが前提で無いと、数えると言う概念(有数)も生じなかったのである。
かぞえられないもの;無限数と言う概念も同じく生じているのである。

もう一度言うが、一と言う概念は、いちではないもの:複数の存在を前提にしているのである。


230:考える名無しさん
10/11/27 19:46:38 0
>>226
それは真理真実であると言うことではないのである。真理真実の存在、時間と言うのは、
契約した時間、存在とは一致しないのである。<<225

契約上は個物の存在を種類にしたがって、1、2、3と数えるが、
一個の個物の存在は、決して、他の2、3、4と同じものではないのである。

それは1と2の間には、空間があるからである。同じものとは契約上は
同じ種類のものをさすが、真理真実では、同じものとは、1の存在を
重ねて言うときであるのだ。つまり契約上に言うような、同じものは存在しないのである。

契約上は空間は、無いものと見做すのである。真理真実では、空間は個物と同じに
存在するのである。

しかし、前記したように、この個物に対するめいめいは、他のものを前提にしてるもの、つまり、
他のものと縁起した関係で、命名してるのであった。

空気は、個物に縁起して命名してるのである。個物を数に数えない契約であったのだ。
しかし、個物に対して空間と言う命名をしないわけにはいかなかったのである。

そこで、個物と空間と言う関係は、契約上の命名に基づいて、その真理真実を
究明するに、障害とならないのである。

個物とそれを囲繞する空間は、相対的存在であると、見做すのが、契約を離れた
立場からは、究明することができるのである。

そこで、背理法をお望みであるようだから、少し考えてみると、
今ここにりんごが二つあるとしよう。その間は五センチメートルである。

二つのりんごがあるとすると、どのような矛盾が発生するかを証明すれば、良いのだろう?



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