10/08/08 01:19:05 0
決定論とは物理における、いわば「公理のようなもの」であり、物理法則を導くための、
さらには生活に役立つ近似を得るための便利ツール、と考えるべきである。
「機械的唯物論」者は、決定論をツールとして使う一方で、 最終真理として決定論を位置づけている。
決定論から遡行して、どうでもいい薀蓄(しばしば間違えている)を並べつつ、最終真理としての決定論に辿りつく。
どこに何がつながるのかわかりにくい、典型的な悪文に誤魔化されている人が多いが、 なんのことはない。
「機械的唯物論」者は、 「決定論が正しいなら、決定論は正しい」 ということしかいっていない。
もし決定論が公理であるとするなら、正しいかどうかは問えず、 当然のことながら真理とはなりえない。
では、「機械的唯物論」者が、 「決定論は公理であると同時に物理法則である」と述べているのは、どういうことか?
決定論が物理法則であるなら、実証する必要がある。 決定論が公理であるなら、正しいとはいえなくなる。
なぜ「公理としての決定論」を正しいといえるのか? → 「物理法則としての決定論」の正しさを問うことはできるから。
なぜ「物理法則としての決定論」を正しいといえるのか? → 「公理としての決定論」は実証不要だから。
まとめるならば、 なぜ決定論は正しいのか?→ 決定論は正しいから。
結局、彼は「決定論が正しいなら、決定論は正しい」という撞着に 舞い戻るしかないのである。
私の質問に答えなかったことで「機械的唯物論」者は、以上のような論理破綻を認めていると考えるべきである。
「機械的唯物論」者のいうような意味での決定論、乃至、機械的唯物論は徒労である。