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平成4年(1992年)細川護煕の日本新党結成に参加する。
政策部会長として、日本新党の政策を立案した。その後、
組織委員長として細川に次ぐ党��2であったが、党事務局
と対立したことが契機で細川と齟齬をきたしたといわれる。
同年7月26日の参議院選挙に比例区で立候補する。日本新
党は、この選挙で4人当選を果たすが、名簿5位に搭載され
ていた松崎は次点となり、落選する。その後、組織委員長
を小池百合子と交代し、総務委員長に就任する。しかし、
平成5年(1993年)6月23日に日本新党を党員としての
適格に著しく欠けるとして除名される。背景には、党事務局
との確執の先鋭化や、松崎の第40回衆議院議員総選挙への
立候補に関するトラブルがあったとされる。
松崎は党を除名されたため、総選挙に細川、小池が立候補
したことに伴い、名簿掲載6位の小島慶三、7位の山崎順子
(円より子)が繰り上げ当選する。松崎はこれを不満とし、
除名処分による比例名簿除外を無効と自身の繰り上げ当選と
円の繰り上げ当選無効とする訴訟を起こした(日本新党繰上
補充事件)。平成6年(1994年)東京高等裁判所では松崎
の主張が認められ勝訴するが、平成7年(1995年)5月25日、
最高裁判所で松崎の主張が退けられ敗訴判決が確定した。