10/10/12 22:01:57 W4OQO5910 BE:700445243-PLT(12001)
古代日本では、女性の地位は比較的高く、女王や巫女としてクニを治める女性たちもいたが、それは決して古代のヤマトが男女平等であったことを意味しない。
天皇も摂関も将軍も男性が多く、重要な例外はあったものの、権力を行使する領域はほぼ男性に占められていた。
平安時代後期には仏教思想を背景に女性を不浄と見る価値観が広がり(但し、仏教自体に男尊女卑の思想があるわけではなく、
修行僧向けの訓戒として淫蕩の弊害が説かれている事が、女性嫌悪的に解釈された)、中世においては武士社会を中心に、男尊女卑の風潮が広まった。
江戸時代になると、儒学(朱子学)が徳川将軍家の下で隆盛を極め、その教えを基にした身分制度が確立されたことで、女性の地位の低下が決定的になった。
基本的に武家社会においては女性には家督は認められず、家系図などにも女性の名前は大抵しるされず、「女」とのみ記されている場合が多い。
そのため有力大名など一部を除いて、女性については調べるのは容易ではなく、名前すら判明しない者が多い。武家社会の中では、女性は後取りを生み出すためだけの存在とされ、
実際には夫が不妊であった場合でも常に女性に責任が押し付けられ、「石女」「不産女(うまずめ)」と非難された。縦え子供を産んでも、後取りとなる息子を産まない場合は、非難の対象となった。
なお、江戸時代でも武士社会ではなく農村社会では、全員が重要な働き手であるため農業も分担されていた。漁村では女の働きが重要であったため特に女性の地位が高く、
例えば志摩の漁村ではアワビやサザエを採る海女が一家の大黒柱であり、夫は漁場まで舟を漕ぎ、妻の命綱を握るという補助的な仕事を担っていた。
東北地方の漁村などでは長子が男女に関らず優先的に相続権を持つ(姉家督)慣行も見られる。庶民の間では、俗にいう「かかあ天下」という風潮も一般的だった地方もある[1]。
「夜這」などの風習があった農村部でも夜這の最終決定権は女性にある事が多かった[2]という説もある。しかし、支配階級である武士社会が男性を尊んで女性を蔑んだために、
庶民であっても息子を多く産むことは重要であったし、公的な領域では男性がより広い活動権を与えられ、村の自治でも男性が指導的な地位に立つことが多かった。