10/09/26 12:30:29 c3dKjR0d0
裏の秘話は今は明かせませんが、のちの1955年に結成される弔鮮総連の表向きの歴史は、
金○海が釈放された、この日を淵源としなければならないといわれております。
北政権や弔鮮総連などを論ずる時は、必ず表の実態と裏の実態を区別して考え語る必要があります。
話を戻しますが一九四五年一0月一0日、金天○や徳田球○らは群衆に先導され、
新宿の弔鮮奨学会館に向かいました。
その場に集まった群衆の大歓迎会と共に、日本狂産党の再建委員会を設立したのであります。
七人の党中央委員が選出されましたが、その中に金○海も名を連ねていたのであります。
この年の一二月に開かれた日本狂産党の再建第四回大会で、金天○は日本狂産党の中央委員に選出されました。
そして、第五回大会で政治局員になった金○海は、日本狂産党の最高幹部の一人となりました。
日本狂産党が戦後の第一歩を踏み出した弔鮮奨学会館には「在日本弔鮮人連盟」
結成準備委員会の事務所が既に開設されていたのであります。
「在日本弔鮮人連盟」事務所と日本狂産党が産声をあげた場所が同じであったのであります。
再建委員会設立後の日本狂産党は、活動を再開しましたが、活動資金が限られていました。
そのため「在日本弔鮮人連盟」の資金で、日本狂産党の運営費が賄われていたといわれております。
こうして日本狂産党と在日狂産主義者は二人三脚、いや二人一脚・表裏一体の緊密な関係になり、
日本の狂産主義武装革命を目指した暴力路線へと突き進んで行ったといわれております。