10/09/26 12:28:19 c3dKjR0d0
戦前から、日本共惨党のもとに多くの朝鮮人が集っていた。
例えば、共惨党系の労働組合の全狂(日本労働組合全国狂議会)は、
最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。
1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田○一ら共惨党幹部が、府中刑務所を出獄した。
その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。
その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。
彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金○海であった。
金天○は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。
その年の11月、共惨党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、全国狂議会を開催する。
全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、日本共惨党の当面の政策を採択した。
さらに、1カ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。
その準備委員に選任されたのが、徳田球○、志賀○雄、袴田里○、金○海、宮本顕○、黒木重○、神山茂○の7人だった。
この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。
会議では、金○海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。
実は、日本共惨党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である弔連(在日本弔鮮人連盟<弔鮮進駐軍>)が提供している。
このことは、党史には一行も触れられていない。