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★「解放戦争」の現実 白旗に猛爆撃 サハリン残留日本人 泣いて断ち切った帰国の思い
・ロシアの“対日戦勝記念日”を大々的に祝ったサハリン(樺太)は戦前、その南部(北緯50度以南)が
日本領で、約40万人が住んでいた。ここには今も、65年前の8月にソ連の苛烈(かれつ)な侵略を経験し、
戦後、さまざまな事情で帰国を断念した同胞がいる。ロシアが「解放戦争だった」と主張する対日戦によって、
南サハリンの地に暮らしていた住民たちの命運は翻弄(ほんろう)された。
「どの家の屋根にも大きな白旗が掲げられていたのに、ソ連の航空機はどんどん爆撃した。
駅前広場はおびただしい血で、私たちは横たわる死者・負傷者をまたいで山の神社に隠れたのです」
日本が降伏した8月15日以降、地方郵便局に勤めていた根本ミヨさん(84)=ドリンスク(旧名・落合)
在住=が、避難先のユジノサハリンスク(豊原)で体験したことだ。「コルサコフ(大泊)から出るはず
だった郵便船も爆撃されていた」
8月22日には、北海道留萌沖で引き揚げ船3隻がソ連と疑われる国籍不明潜水艦の魚雷攻撃を受け、
婦女子を中心に死者・行方不明者1700人以上を出した事件も知られている。
「上空の飛行機に、何も分からない子供たちは万歳をしていた。その飛行機が銃撃をし、
発電所を爆撃したのです」。ブイコフ(内淵)で終戦を迎えた魚住笑子さん(79)=ドリンスク
在住=もこう証言し、「日本の降伏後にソ連が攻撃することなど思ってもいなかった」と話す。
女性は皆、戦車などで乗り込んできたソ連兵を恐れ、髪をばっさりと切って男を装ったり、
ボロを身にまとったりした。
戦後しばらくは引き揚げの機会はあったが、経済的理由などで戻れなかったという。
「娘を(残留)朝鮮人に嫁がせ、その金で親を引き揚げさせた人も多かった」と魚住さん。
「私たち親子には金がなく、帰れなかった。引き揚げる友人たちを見送り、
同じ日本人なのにと隠れて泣いていました」と回想する。
(続く)
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