【歴史】中国人3兄弟を拷問して、銃殺を命じた…日中戦争の加害を語り継ぐ、元少尉の森原一さん(中国帰還者連絡会)at NEWSPLUS
【歴史】中国人3兄弟を拷問して、銃殺を命じた…日中戦争の加害を語り継ぐ、元少尉の森原一さん(中国帰還者連絡会) - 暇つぶし2ch1:そーきそばφ ★
10/08/16 23:37:58 0
旧日本軍が中国を侵略した日中戦争。終戦後に続いた中国内戦では残留日本兵も参戦した。二つの戦いでの残虐な罪を人前で語ることで、
反戦平和、日中友好の時代を若い世代に託したいと考える元兵士たちがいる。
金沢市在住の元陸軍少尉、森原一(はじめ)さん(87)が「最大の罪」と認めるのは、内戦で捕まえた若い中国人3兄弟を拷問し、
銃殺を命じたことだ。「農民なので何も知らない」との兄弟の言い分に構わず「処置しろ」と、あごでしゃくった。
「当時の激しい抵抗の目つきが頭から離れません」
 
森原さんは中国・山西省太原の戦犯管理所で約3年、捕虜として収容されていた。残虐な行為について責められることは一切なく、
毎日、反省文を書いて悔恨の日々を送った。
反省文の中で最初に書いたのは「敵性集落」とされた村で食料を奪い放火したこと。民家の土間で頭を撃たれて血を流し、
倒れていた中国人を「楽にしてやろう」と、銃で射殺したことも書いた。
だが、3兄弟の殺害はなかなか告白できなかった。「罪の意識が大きかったから」だ。意を決して告白し、罪を認めると、処遇が変わった。
屋外でのスポーツやダンスに参加するのを認められ、長距離の鉄道旅行に連れて行ってくれた。
 
石川県小松市の中学校を卒業。1941年、配電盤製造会社に就職するため、18歳で旧満州(中国東北部)奉天(現・瀋陽)へ渡った。
徴兵され関東軍の兵士に。内モンゴル・包頭(パオトウ)近郊の大隊で、見習い士官として敵の情報を収集し本部へ報告する役目だった。
戦後も元上官の求めで帰国せず、内戦に参加。国民党軍側の軍閥と共に共産党の八路軍と戦ったが、
太原が包囲され陥落すると49年4月に投降。捕虜になり、炭鉱に送られた。
53年に重要な戦犯を中心に収用した「太原戦犯管理所」へ移されたが、中国側は56年「寛容と人道の精神」で起訴猶予。
すぐに天津から家族の住む金沢に引き揚げた。
帰国後は金沢市企業局職員などとして勤務する傍ら、「中国帰還者連絡会」(現在は解散して「撫順(ブジュン)の奇蹟(きせき)を
受け継ぐ会」が活動を継承)の会員として、小中学校や市民団体の集まりで加害の体験を語り続けてきた。

ソース 毎日新聞 8月14日朝刊
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
(続)


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