11/11/22 00:26:25.08
※>>2の続きです。
上記のように百済が滅亡して日本の国号が採択された時期に倭国の中では国家的に
重大な変化が相次いで発生した。
新しい家族を受け入れて新しい制度を採択するなどの変化が連続して現れた。
国家全体が新しく生まれ変わる時期だったのだ。
写真:MBCドラマ「ギエベク」
URLリンク(ojsfile.ohmynews.com)
■倭国という国号、だいぶやぼったくて...
このような変化像を観察しますと、私たちは671年に日本国号が誕生した脈絡を
簡単に理解することができる。
先進文明を持った百済難民が倭国に大挙流入して彼らが国政に参加することにより
従来の国号は百済人と倭国人を一つに統合できないようにしたのだ。
換言すれば、百済難民の大挙流入が倭国の社会体制を圧迫する要因として作用し、
その結果として新しい国号が誕生したと見ることができる。
先住民と渡来人が参加して新国家を建設する過程で日本という国号が創案されたものと
判断することができる。
実際には、倭国という国号は漢字文化圏の中ではだいぶやぼったい方だ。
<旧唐書>「'東夷列伝」日本編では、国号改正当時、日本列島の中でも既存の国号を
嫌悪する動きがあったと紹介した。
これは倭国という国号をやぼったく思う外部勢力が日本列島に大挙流入し
彼らの発言権が国家経営に大きい影響を与えたことを傍証するものである。
日本という国号は百済人と倭国人の共同作品だが、それを採用する過程で
百済人の立場がより強く反映されただろうと推論する根拠がある。
上で紹介したように、<三国史記>では「日が昇る所と近いので」日本という国号を採択した
とし、<旧唐書>では「太陽側にあるといって」日本という国号を採用したとしている。
倭国人の目には自分の国が「日が昇る所」だと感知することはできない。
倭国を「日が昇る所」と話すことができる人々は倭国の西側に暮らした人々でなければ
ならない。
したがって日本という国号の中には倭国に対する百済流民たちの観点と哲学が溶けている
と見ることができる。
これは国号を変更する過程で百済人たちの影響がはるかに強かったことを示す。
また、これは新国家の建設過程で百済人たちの影響力が非常に強大だったことを
意味するものである。
日本国号の誕生過程でも知ることが出来るように、百済流民たちは彼らの観点と
哲学に立って日本列島を新しく切り開いていった。
彼らの祖国の百済はたとえ滅亡したとしても、非常に滅亡したのではなかったのだ。
「街道とても枝はアンノラシドンそのような約束があったところでしょう」(原文翻訳のまま)
(キム・ソウォルの犬早瀬)という詩句のように、日本列島で「百済2」を切り開いた流民たちの
努力のおかげで、百済という国は「街道とても行きはしなかった国」になった。
私たちはよく「高句麗が滅びて渤海が誕生した」と話す。
もう私たちはこのように話せる。
「高句麗が滅びて渤海が誕生し、百済が滅びて日本が誕生した」と。
黄山ヶ原の戦いは百済の敗北で確定する直前。
百済が白旗を揚げて降参を宣言する直前。
ギェベク将軍の目に写った、また、義慈王の目に映った百済の山川は
決して百済の最期の姿ではなかった。
なぜなら、「また他の百済」の山川が彼らの死後に新天地日本列島でパッと開かれるものだからだ。
※以上です。