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>>48
草庵茶室の狭小な空間に侘(わび)、寂(さび)の小宇宙を創出する日本の茶道。 日本オリジナルと信じられていた千利休に至る日本茶道の確立期に、高麗時代の茶道が大きな影響を与えていた。
また、日本に中国(宋) から茶の儀礼を伝えたとされるのが臨済宗の僧・栄西だが、彼の茶会の様式も、本家の宋のスタイルより高麗の茶礼により似ている。
日本茶道の発祥に高麗の茶道が深くかかわっていた事実を検証する。(吉成繁幸)
韓半島および日本列島に茶が最初に持ち込まれたのは、ともに7世紀から8世紀頃と見られている。
『三国史記』「新羅本紀」によると、善徳王の治世(632~646年)に入唐廻使が唐から茶種を持って来て、地理(智異) 山に植えたという記載がある。
日本でも、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が茶をたしなんだという文書が正倉院にある。 これも唐から遣唐使が持ち込んだものだろう。
その後日本では遣唐使の廃止とともに飲茶の習慣は一旦途絶え、再び日本に茶を伝えたのは、 平安時代末期、宋に留学していた臨済宗の僧・栄西である。
新羅では飲茶の習慣はその後も盛んで
高麗時代、韓国の歴史の中でも最も飲茶の風習が盛んになる。
禅宗の僧侶たちにより宋で行われていた最新の茶道が伝えられ、多様な茶会が行われていた。
宮中では茶礼という儀式作法が行われ、 文人たちは風流を楽しむ茶俗を、禅僧たちは求道的な茶風をたしなんでいた。ちなみに高麗の茶は、新羅の煎茶に対して抹茶である。
この高麗の作法が、栄西が宋から日本に伝えたとしている茶会の作法に非常によく似ているのだ。
詳細は省くが、茶道具の使用法、茶に対する考え方、茶の飲み方(3回の供茶など)が『高麗図経』 に書かれている高麗式作法とそっくりなのである。栄西は、 宋から直接に帰国したのではなく、帰路に高麗に立ち寄り、高麗式作法を日本に伝えた可能性も十分に考えられる。