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■銀行長は市銀の外為業務開始前の61年、日本研修に行かれた。それが可能になった理由は。
「その話をする前に背景の説明が必要です。李承晩博士が退いた後、民主党の張勉政権になると、
銀行民営化が断行されました。私が所属していた韓一銀行はサムスンが、第一銀行は大邱の紡織
会社が持分投資をする形式で大株主になりました。5大市銀が財閥の懐の中に入っていったの
です。サムスンは韓一銀行株式の83%を保有し、銀行長にはサムスン系列の社長が派遣されて
きました。それから少し経った頃、サムスン創業者の李秉喆氏が銀行員を対象に海外研修生プロ
グラムを取り入れました。私は第1期研修生に選抜され、61年に日銀に研修しにいったのです。
幸運にも帰国直後の62年4月からは韓国の市銀も外国為替業務を始めるようになりましたから、
李秉喆会長には先見の明があったのでしょう」
■研修には特別な覚悟があったようですね。特に記憶に残っているのは。
「研修生に選ばれてすぐに5・16(朴正熙によるクーデター)が起き、日本には行けなくなる
ところでした。幸いにも研修生は『非政治人』に分類され、出国することができたんです。今も
金浦空港を離陸して日本に行った時の風景が忘れられないです。飛行機の窓から眺めた私たち
の国土は、木が一本もない真っ赤な泥畑でした。少し飛んだら真っ黒く生い茂った森が出てき
ました。そこが日本でした。羽田空港に降りたらソニーのネオンサインがきらめいて、高い東京
のビル群を見ていたらまさに別天地にいるように感じました。そこでこう思いました。韓国人が
日本人より劣っているところが一つでもあるか。日本で一字でも多く学んで帰ろう。3カ月間
の短い研修でしたが、本当に先覚者の覚悟を持って歯を食いしばって勉強しました」
■経済開発初期には在日韓国人の寄与が大きかった。銀行長はどんな記憶をお持ちですか。
「我が国の経済に在日韓国人の苦労があったことを忘れてはいけません。この上なく大きい貢献
をしてくれました。邦林紡績は着る服さえなかった時代にソウルの永登浦に大規模投資を行い、
今や世界的な自動車メーカーになった起亜自動車は金喆浩社長(1922年~44年まで日本で
暮らす)の勇断があったからこそ創業できました。辛格浩会長のロッテグループや、後に在日
韓国人が力を合わせて創立した新韓銀行はいうまでもありません。ドルも生産基盤も、技術も
なかった私たちが経済基盤を固めてこうも早く成長できたのは、在日韓国人の功績によるとこ
ろが大きいです。在日韓国人は米国より先に韓国に資本投資をした人々です。日本の大資本も
それが呼び水になって後から韓国に入ってきました。私は在日韓国人が韓国投資の道案内の役割
を存分に果たしてくれたと思います。在日韓国人が血と汗を流して得たお金を祖国に持ってきて
くれたということを、私たちは忘れてはいけません」
統一日報 2011/09/29
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