11/09/27 01:12:38.94
(>>1のつづき)
パート2では「韓国の古地図に現れた于山島は独島」という主題で于山島と独島が同じ島であることを
立証した。
日本は八道総図(1530)で独島(于山島)と鬱陵島の位置がさかさまになったことで于山島は独島ではな
いと主張する。しかし、8世紀から16世紀まで日本の公式地図として使われた行基図に存在することも
ない国が描かれたのを批判せずに韓国の古地図だけ批判した、と厳しい忠告を与えた。
また、日本人たちは韓国の地図に現れた于山島が鬱陵島東側2kmの距離に位置する竹島(チュクト、
竹嶼島=チュクソド)だと主張するが、実際の竹島には峰がなく、独島には峰が存在すると説明した。
これに峰がある于山島は独島にならざるをえない証拠とし、18世紀に製作された江原道(カンウォンド)
地図、19世紀中盤に製作された海東輿地図などに描かれた于山島には峰があるので、結論的に峰の
存在で独島だという事実を立証することができると明らかにした。
パート3では「日本の古文書にあらわれた独島」の存在を表わした。
本来、日本では鬱陵島が竹島(タケシマ)と呼ばれ、独島は松島(マツシマ)と呼ばれた。ところで日本政
府は数回、松島(独島)は自身の土地でないという公式の立場を文書で残していた。
その証拠は、▲1696年1月25日、龍安福(アン・ヨンボク)が松島(独島)は日本のどの地方にも所属して
いないと日本政府に報告した文書、▲1870年、日本外務省が鬱陵島(竹島)と独島(松島)は朝鮮の付属
だと日本政府に報告した文書、▲7年後(1877)、当時の日本最高権力機関の太政官が鬱陵島(竹島)と
独島(松島)が日本領土ではないことを内務省に命令した文書に含まれている。
これを根拠に「日本政府が独島が日本の土地ではなく朝鮮の土地だと結論を下して、まさにこれが歴史
の真実だ」と強調した。
パート4では「1905独島編入は無効」という主題とともに1905年大韓帝国は勅令第41号で独島を鬱道郡
(ウルドグン)所属と宣言して世界に独島が韓国所属であることを宣言した点を上げた。
しかし、日本政府は1905年1月28日独島を無名、無国籍の無人島と規定し、鬱陵島の名前だった竹島を
独島の名前にし、2月22日島根県に強制編入させたが、これはごり押し主張だと反駁した。
その理由は、▲日本は独島を松島と呼んできたので独島は決して無名ではなかったという点、▲日本が
1870年に独島を朝鮮の付属として1877年に独島を日本領土外に定めた公式文書を残したので独島は
無主地ではない、という2種類の真実に注目した。結局、強圧的になされた日本の独島侵奪が基本的に
無効だという点を明確にした。
最後のパート5では、「サンフランシスコ条約で独島は韓国領土」と認めた過去の条約を挙げて説明した。
1945年8月15日、世界2次大戦で降伏した日本は、連合軍の占領下に置かれる。連合国は日本占領期間
に独島を韓国領土として取り扱うという指令(SCAPIN 677号)を日本に命令した。また、サンフランシスコ平
和条約の結果、1次~5次草案まで独島は韓国領土と記載された。7次草案にも独島は連合国の合意とい
う形式で韓国領土と記載された。
ところで米国務省は6、8次草案などで独島を日本領土と記載した。だが、これは6.25(朝鮮戦争)が進行さ
れる状況で、戦略的に日本統治下に独島を置こうとした意図が混ざっていたと分析される。
これに英国、オーストラリア、ニュージーランドなどが米国の草案に反対して1951年4月に独島を韓国領土
として作成した英国草案を発表し、韓国は1952年2月、東海(トンヘ=日本海)に李承晩(イ・スンマン)ライ
ン(平和線)を宣言して、独島を韓国領土と宣言するに至る。この時、米国をはじめとする連合国は反対せ
ず、独島が韓国領土という事実がもう一度連合国らに黙認で承認された。
チョン・ヨンソク記者
(おわり)