11/08/25 22:00:42.89 EaeK94K4
>>204
普通に調べりゃ判りそうなもんだが
前漢の頃、楽浪郡を置き、周辺だった高句麗が立ち上がりはじめる。
半島南部の新羅、百済は国家の体をなしていない。
後漢の頃、倭がまとまり始める(少なくとも支那に朝貢できるレベル→漢倭奴国王)。
新羅。百済はまだない。同時期、倭が半島南部に出始める。
後漢末期、公孫氏台頭、楽浪郡衰退。そして高句麗の発展。
三国時代・魏
邪馬台国=卑弥呼が魏に朝貢。
半島に倭人の国(部族集団)があったとの記述アリ
これ以降の支那王朝は隋まで混乱する。
晋書に百済・新羅登場
広開土王碑の記述→391年
倭の五王が宋(南朝)から半島南部治めたという称号を授与される。
詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王
隋が支那統一
隋の煬帝の高句麗遠征。高句麗撃退
隋→唐へ
百済一旦滅亡。任那を割譲して百済再興。
その後新羅が加羅を攻め滅亡させ、新羅が台頭。
高句麗、新羅、百済でけん制しあい、そこに倭や唐が何度か介入。
新羅+唐 vs 百済+高句麗+倭の構図が出来る。
新羅+唐の勢力に百済滅亡、新羅へ編入。白村江の戦いで倭、半島から撤退。
ざっとこんな流れ
知ってる人、間違い訂正ヨロ