11/07/01 12:58:32.68 HjuHTpFb
韓国本国ではずっと詳しい記事が紹介されてるのにねw
URLリンク(specificasia2.blog12.fc2.com)
在日同胞60万人が祖国に戻らなかったのは乞食になるのが嫌だったからニカ?
2011/06/22 Wed
流民の都市になったソウル (プレシアン 韓国語 2011/06/21)
[解放日記] 1946年6月21日
6月21日のマッカーサー司令部の記者会見で在日朝鮮人帰還問題が言及されたが、まだ50万人余りの未帰還
者が日本に残っているものと把握されている。5月15日までに106万人が帰国したと集計されたが(<朝鮮日報>
5月22日付)、解放1年が近づく今まで、在日朝鮮人の3分の1が帰国できなかったのだ。
マッカーサー司令部では21日、記者団との会見席上で在日朝鮮人帰国計画に関して大体次の通り話した。
3月18日に調査した帰国希望者は51万3000人であったが、これを一日に4000人ずつ9月末日に完了する予定だ。
帰国者は日常生活品250ポンドと現金1000ウォン(以下貨幣単位ウォンか円か不明。1945年8月時点では1ウォン
=1円。)を持って行くことができる。
指令を受けても乗船地に集合しない者は帰国権を放棄したものと認定し、残留者は日人と同じ配給、その他の
待遇を受けることになる。ひとまず帰国した者は、日本との貿易が正式に再開される時まで再び来ることができず、
帰国者が残した財産は日本政府で保管する。(<朝鮮日報> 1946年6月23日付)
現在の集計では、解放当時約200万人の朝鮮人が日本にいて、そのうち約60万人が日本に残って在日同胞社会
を作った。1946年6月まで帰国しなかった朝鮮人のうちの大多数が、結局、帰国しなかったと見られる。
なぜこれらは帰国を拒否したのだろうか?
当時の在日朝鮮人の中には、徴用で連行された人々をはじめ、現地に根をおろすことが出来なかった人々が多かった。
彼らは大部分帰国した。しかし一方で、日本社会で生業を持ち定着した人々も相当数いた。彼らが帰国する場合、
100数キログラム以内の荷物と現金1000ウォンだけを持って出るようにしたことは、在朝鮮日本人の帰国と同じ条件
だった。財産を残せば日本政府が保管するといったが、その財産を再び見る日を約束することができただろうか?
<新天地> 1-9号(1946年10月)に掲載されたオ・キヨンのコラム『戦災同胞』に、これらが帰ってくる場合、処すること
になる状況が切実に描かれている。とても良い文なので読者らの感想のために長く載せておく。
ところで、これはどういうことか。夢にも描いたその故国、圧迫者が追い出されて私たちの地になった解放の故国に戻る
ことを望まない在外同胞の数が、何と数十万といわないか。
これらはかつて祖国を裏切って出て行った人でないから、祖国にはこれらを喜んでくれる同胞がいるだけで、その憎かった
怨讐は皆追い出された今日である。みんな帰ってきて解放の喜びの中に山河も新しくなった錦繍江山として互いに
胸に抱き、新しい国を成し遂げなければならないのに、どうして蔑視と迫害にぬれた外地にそのまま残ることを望むと
はどういうことなのか。
しかし、とんでもないことだ!これらは解放はされたがまだ完全に自分の国でなく、この地に来るならば楽しみよりは悲
しみが先んじて、平安なことよりは苦しいことが増すことを知るためだ。
そうではないか。如何に多くの戦災同胞が解放の祖国だと訪れて、今、ボロを着て飢えて通りにさ迷っているのか。
彼らのために家を用意する前に、倭人の家はすべて権力に頼った両班が占めてしまったし、医療品を独占した悪徳
商人らに、これらのボロを着た様子を見て同胞愛を感じろと叫んでも無駄だった。
米一斗(約18リットル)で五百ウォンするこの地に千ウォンずつしか持ってくることが出来なかったこれらのために食べ物
をあたえる人はなかったし、満州の過酷な原野を沃土にし、倭地のその過酷な労働にも耐えたこれらではあるが、これ
らに仕事をあたえる職場も農地もなかった。