11/06/22 02:02:31.20 Hgyazi7v
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森川信英の世界
文字化けばかりの 講演での話① から抜書き
昭和 40 年 (1965 年 ) 、政府筋のお偉方から、韓悶へわたってアニメ技術を教え てくれ、との依頼が、私の元に届きました。私はその頃、
東京銀座の三越と松屋 の中間にアニメの撮影スタジオを設備して大忙しの毎日でした。丁度、前の年に
「日韓国交回復条約」が締結され、両国間の交流を何にするか話しあって、当時既に日本が世界に誇る産業に成長していたアニメーションが
良いということ になり、技術を提出す石約束があったのです。布、は戦時中、甘粕正彦氏の国策 会社、満州映画協会で動画技術を現地の人たち
( 満州族 ) に教えた経歴がありま したので、私に白羽の矢がたったのだと思います。
私も戦争を体験し、日本人が韓国人の財産や、人としての誇りを奪いとった卑劣な行為を知っていました。私も日本人の一人として、
韓国の文化にお役に立てるならと、渡韓証明証を手に行くことにしました。費用は自腹でしたが、日本の大手広告代理応「第一企画」の重役と
後に一緒に「ベム 」や「パット」を創ることになる浅井孝長さんが同行でありました。