【韓国】日本車を描き写して「車強国」の土台固めた~現代は三菱と高級車共同開発、起亜はマツダと核心技術共有できず[06/17]at NEWS4PLUS
【韓国】日本車を描き写して「車強国」の土台固めた~現代は三菱と高級車共同開発、起亜はマツダと核心技術共有できず[06/17] - 暇つぶし2ch1:ピアノを弾く大酋長φ ★
11/06/19 04:00:35.61
日本車描き写して'車強国'土台固めた

[半世紀を駆けてきた韓国自動車](6)現代は三菱と高級車共同開発、起亜はマツダと核心技術共有できず

2000年代中盤に入って国産車の競争力は早く沸き上がった。7年ごとに車の内外を熱く変える通常の完成車
メーカーとは違い、現代起亜車は急変するトレンドに合わせて足早く新しいモデルを出し始める。最近注目す
るほどの好実績はやはりこのような製品戦略が功を奏したためだ。

今日のこのようなまぶしい競争力の後ろには1980年代、現代・起亜車に自身の青春を燃やした自主開発エ
ンジニア第1世代の努力が凄然と染みている。

当時これといった技術力なしで日本車の技術を持ってきた国内の完成車はこまめに日本車を追いかけて行
って技術力を積んだ。おかげで日本で失敗した車が韓国で大人気を呼ぶこともした。技術力を整えるための
多様な挑戦も続いた。1980年代末、起亜産業は全世界が認めた「合法的産業スパイ」に違いなかった。

URLリンク(imgsvr.e-today.co.kr)
▲日本三菱の2代目デボネア。日本で1年に1000台余りだけ売れて惨敗した車だ。反面、これを土台に現代
車がリリースした初代グレンジャーは毎年2倍ずつ成長を継続して1990年に2万6000台余りが売れた。最近
の現代車のエクウスさえ破れない記録だ。

◇日本で滅びた車…現代車は大成功 = 1986年、工業合理化措置が解除される。
同時に中型車の開発および生産に飛び込んだ現代車はこの時点に先立ち日本三菱を早目に訪ねた。すで
に1975年にポニーを開発してエンジン技術を持ってきたし、関係を篤実に守った時であった。現代車が日本
に渡っていった理由は高級車の技術が切実だったためだ。

当時日本三菱は1970年代初めに開発した「デボネア」という高級車を保有した。しかし「三菱の役員のため
の儀典車」になってしまった。先頭企業のトヨタに押されて高級車市場で惨敗を経験したところだった。

結局、「共同開発」という命題を前面に出して現代車はデボネアの姿を受け継いで新しいモデルを開発した。
すなわち初代グレンジャーだ。

1987年のデビュー初年、グレンジャーは大宇ローヤルシリーズが独占した高級車市場を直ちに奪ってきた。
広い室内空間と長い車体は当時の高級車の必要条件だった。

グレンジャーは翼が生えたように売れた。デビュー初年の1986年には2422台が売れた。翌年の1987年には
2倍近く増えて4076台が販売された。ソウルオリンピックの熱気が熱かった1988年はやはり2倍の増加率を
見せて8190台が売れた。

2000cc一つだったモデルが2400cc、3000ccに増えながら1989年にはついに1万台販売を突破して1万2616
台が売れ、1990年にはやはり前年対比2倍以上に増えて2万6004台が売れた。

1990年の国内最高級車2万6000台余りの販売は今でも簡単に破ることはできない記録だ。高級輸入車が洪
水のようにあふれる最近も破るのは容易ではない。2009年に発売された現代車の最高級モデル、エクウス
の販売が1万5000台にならない時節だ。それだけ当時の現代車グレンジャーの人気は実にすごかった。

反面、海を渡って日本の土地を走った、現代車グレンジャーと同じデザインの三菱デボネアは苦戦を免れな
かった。1年の販売量が1000台余りを記録するほど販売が低調だった。私たちの自動車市場より3倍以上大
きい日本市場を勘案すればデボネアは開発費を回収するのも手にあまった。

以後、デボネアは3代目(現代車2代目ニューグレンジャー)で新たに出たが、相変らず失敗を繰り返した。結
局、4代目からプラウディア(現代車初代エクウス)で新たに出たが相変らず興行は失敗であった。同じ期間、
現代車はグレンジャーの上級としてエクウスをリリースしてもう一度高級車市場をさらい始めた。
(>>2以降につづく)

ソース:イートゥデイ(韓国語) 最終入力時間:2011-06-17 11:28:06
URLリンク(www.etoday.co.kr)


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